ボツワナ ・オカバンゴデルタ ほか

ボツワナは国土の17%は国立公園や動物保護区に指定され、20%が野生動物の管理地域に指定されているため、手付かずの自然の中で静かで質の高いサファリが楽しめる。20以上もの部族が居住していて、南アフリカ、ジンバブエ、ザンビア、アンゴラ、ナミビアなど周辺の国々から来た部族により文化の多様性がある。

土着民は狩猟民だが、伝統や言伝えにつちかわれた持続可能な環境計画を取り入れ厳格で伝統的な保護計画が採用されている。ダイアモンドをはじめとする鉱物資源が非常に豊かで、アフリカの中では有数の経済力を持つ国である。旅行者が支払う費用、宿泊代・食費などは他の国に比べると非常に高額なため旅行者の数は少なく、野生生物と自然資源の多様な種を維持している。

チョベ国立公園
ゾウが多いことで有名な公園で、そのほかクドゥやインパラなどの多種類のレイヨウ類、ライオンやヒョウなどの肉食獣も生息する。
サファリカーに乗ってのサファリの他、ボートに乗ってチョベ河サファリクルーズも楽しめる。

オカバンゴ・デルタ
世界一大きな内陸デルタで25000平方キロメートルにも及ぶ。オカヴァンゴ川がカラハリ砂漠に流れこむことで作られたこの三角州は季節によって面積が変わる。
周辺は砂漠で、満々と水を湛えた風景は奇跡とも言える。
このデルタは広大なオアシスでアフリカゾウ、カバ、サイなどの大型哺乳類など様々な動物が生息する。
2014年に世界自然遺産に登録される。

  • モレミ動物保護区
  • オカバンゴ・デルタの東端で陸と水の両方のサファリを楽しめる。

マカディカディ塩湖
数千年前に枯渇した湖から出来た世界最大の塩湖。
クブ島はマカディカディ塩湖に囲まれている花崗岩の島である。

ナイパン国立公園
ボツワナ東北部にあるアフリカ最大のシマウマの生息地。
12~4月の間には、無数のヌーなど動物、雨期にはフラミンゴなども見られる。

ツォディロ
砂漠のルーブルという別名を持つカラハリ砂漠にある岩絵群で、10キロ平方メートルという非常に限られた範囲に集中し、岩絵は4500以上にも及ぶ。
サン人によって描かれたとされているこれらの岩絵群は、2001年に世界文化遺産に登録される。

カラハリ砂漠
赤褐色の砂に覆われた大地は国土の70%を占める。
東部には中央カラハリ動物保護区がある。

セントラル・カラハリ動物保護区
宿泊施設も少なくワイルドそのもの地区で、ブラウンハイエナなど珍しい動物が生息する。寒暖が激しい地域である。

フランスの風景 「樹をめぐる物語」展

会期 2016年4月16日(土)~6月26日(日)
会場 東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館
新宿区西新宿1-26-1損保ジャパン日本興亜本社ビル42階
開館時間 午前10時-午後6時、金曜日は午後8時まで(入館は閉館30分前まで)

「樹木」は、古くには永遠の象徴とされ、いつの時代にあっても人に寄り添い四季の移ろいを伝え、時の流れを共に見続ける人間の伴侶として受けとめられてきた。西洋では伝統的に理想化された風景画がアトリエ内で制作されてきたが、19世紀中頃になるとバルビゾン派の画家たちは野外での観察によって農民や農村風景を写実的に描くようになる。

さらにその後、印象派の時代になると光の効果を求めて画家は戸外で描くことを 好むようになり、画家自身の眼がとらえた自然の一瞬の移ろいを表現することで自然と一体化した存在となり風景画の描かれ方も変遷して風景が絵画の主題として描かれるようになった。

画面一杯に木の枝々を描き、極端に単純化された構図で、キャンヴァスを筆触で埋め 尽くすような風景画が描かれるようになり、その後続く抽象画の素地を形成した。「樹木」というモチーフを通して、コローからモネ、ピサロ、マティスまで、19世紀から 20世紀に至る印象派とその前後の時代における


フランスの風景画の変遷を辿る。フランス、ポントワーズのピサロ美術館長、クリストフ・デュヴィヴィエ氏の監修のもと、フランスを中心にとする美術館及び個人所蔵作品から、油彩作品約80〜90点、デッサン及び版画作品 約10〜15点にて構成され、併せて、日本国内の関連する作品も出品される。

大坂夏の陣図屏風

慶長20年(1615年)に起きた大坂夏の陣の様子を描いた紙本金地著色・六曲一双の屏風絵で、大阪城天守閣所蔵、重要文化財。筑前福岡藩黒田家伝来で、『黒田屏風、黒田本』とも呼ばれ、戦国時代最後の戦いの激烈さと戦災の悲惨さを迫真の描写で描き出し、数ある日本の合戦図屏風の中でも白眉と呼ばれる。右隻には1615年6月3日(慶長20年5月7日)大坂夏の陣最後の戦いの様子、左隻には大坂落城間際、または後の大混乱する様を迫真的に描き出している。全体的な構図は大坂城を中心に、向かって右が南、左が北で、右から左へ合戦の推移が時系列順に展開する。左隻全面に、逃げようとする敗残兵や避難民と、略奪・誘拐・首狩りしようとする徳川方の兵士や野盗が描かれ、乱妨取りで、生々しい描写は他の合戦図屏風には見られず、「戦国のゲルニカ」とも評される。史料の少ない豊臣氏時代の姿を窺い知る貴重な絵画資料である。制作時期は、生々しい描写から陣後まもなくだと推測される。城の南、天王寺・岡山方面から攻める徳川主力。

これを迎え撃つ豊臣方が、今まさに総力をあげて激突する場面。画面ほぼ中央、四天王寺の石鳥居の右手を上下に結ぶ線が両軍の最前線。鳥居の下、茶臼山にいる赤備えの部隊が真田信繁隊これを前日家康から叱責を受けて雪辱に燃える松平忠直隊が迎え撃つ。

そのすぐ上では、先陣に踊りでた本多忠朝が先駆けした毛利勝永隊の一部と交戦し、更にその上の井伊直孝隊も毛利勢と槍を戦わせる

その上では岡山口の攻防に移り、大野治房隊と前田利常隊が銃撃戦をしている

総大将の徳川家康は第1扇目中央、徳川秀忠は同じく第1扇目上に、両者とも金扇の馬印と共に描かれている

一方第5扇目中央右、金瓢箪など豊臣家の馬印が並ぶ豊臣秀頼本陣に秀頼の姿は無い

大坂城大天守の右には千畳敷御殿が描かれ、その間にある謎の四層櫓は、家康がかつて作り関ヶ原の戦いがおこる原因の一つとなった西の丸天守を敢えて描き込んだと考えられる

大天守第3,4層の窓には、豊臣家の最期を悲しむ女達がおり、城の下には北へ避難しようとする群衆の姿が見られ、左隻の恐慌状態へと続く

福岡藩の故実によれば合戦に参加した黒田長政が、この戦いを記録するために筆頭家老の黒田一成、または家臣の竹森貞幸に命じて作成したものとされるが、長政は右隻第2扇目中央やや上に、余り目立たない形で描かれている。

異説として右隻第3扇目上部にこの戦いで討ち死にを遂げた本多忠朝が奮戦する様子を描いている事から本多家で作られそれが婚礼の輿入れ調度の一つとして黒田家にもたらされたとする説もあるが信憑性は薄い。

作者は各説があり定かではない、いずれにしても江戸時代前期から昭和中期まで黒田家の所蔵品だったが、1958年(昭和33年)黒田長礼氏が本屏風を大阪市に売却し、大阪城天守閣の所有となった。

ラウル・デュフィ「色彩の魔術師」

フランスの画家、ラウル・デュフィ(Raoul Dufy, 1877年6月3日 – 1953年3月23日)はル・アーヴルの港街で音楽好きの一家の9人の兄弟の長男として生まれる。父親は才能ある音楽愛好家で教会の指揮者兼オルガン奏者、母はヴァイオリン奏者、兄弟のうち2人はのちに音楽家として活躍する。

アンリ・マティスに感銘を受け野獣派(フォーヴィスム)の一員に数えられる、が、作風は他のフォーヴたちと違った独自の世界を築いている。「色彩の魔術師」とも呼ばれ、20世紀のフランスのパリを代表する。

画題は多くの場合、音楽や海、馬や薔薇をモチーフとして、ヨットのシーン、リビエラのきらめく眺め、シックな関係者と音楽のイベントを描く。陽気な透明感のある色彩、リズム感のある線描の油絵と水彩絵は音楽が聞こえるような感覚をもたらす。

本の挿絵、舞台美術、多くの織物のテキスタイルデザイン、莫大な数のタペストリー、陶器の装飾、『VOGUE』表紙などを手がけ多くのファッショナブルでカラフルな作品を残す。

代表作
サンタドレスの浜辺(1906 年)(愛知県美術館)
海の女神(1936年)(伊丹市立美術館)
電気の精(1937年)(パリ市立近代美術館)
三十年、或いは薔薇色の人生(パリ市立近代美術館)

ローレンス・アルマ=タデマ (ヴィクトリア朝時代の画家)

イギリス、ヴィクトリア朝時代の画家であるローレンス・アルマ=タデマ(Lawrence Alma-Tadema, 1836年1月8日 – 1912年6月25日)は、古代ローマ、古代ギリシア、古代エジプトなどの歴史をテーマにした写実的な絵画を数多く残した。華やかな色彩、繊細で写実的な絵画手法で古代建築物や装飾品、生活や風土などを緻密で正確に描く。国際的な人気を博し、ハリウッド映画の初期歴史映画に多大な影響を与えた。

主な作品
『見晴らしのよい場所』(1895年)
『入らないで』 – (1879年)
『サッフォーとアルカイオス』 – (1881年)
『テピダリウム』 – (1881年)
『クサンテとパオン』 – (1883年)
『アントニーとクレオパトラ』 – (1883年)
『喜ばしい足音』 – (1883年)
『薔薇の中の薔薇』 – (1885年)
『期待』 – (1885年)
『アポディテリウム』 – (1886年)
『アンピッサの女たち』 – (1887年)
『ヘリオガバルスの薔薇』 – (1888年)
『春の約束』 – (1890年)
『春』 – (1894年)
『見晴らしのよい場所』 – (1895年)
『意見のくい違い』 – (1896年)
『カラカラ浴場』 – (1899年)
『カラカラ』 – (1902年)
『銀色のお気に入り』 – (1903年)
『モーゼの発見』 – (1904年)
『お気に入りの習慣』 – (1909年)

『ヘリオガバルスの薔薇』 – (1888年)

『ローマ皇帝群像』で、皇帝ヘリオガバルスが「客人に薔薇の山を落として窒息死させるのを楽しんだ」とする逸話が、作品「ヘリオガバルスの薔薇」のモチーフである。

ヘリオガバルスが宴会に招いた客の上に巨大な幕を張り、幕の上に大量の薔薇の花を載せ、宴会中に幕を切り花を一斉に落とし、客を窒息死させたというが、真偽のほどは明らかでない。

『ローマ皇帝群像』は、後年の4世紀頃に編纂されたとも考えられていて、捏造や創作が多いことでも知られている。

ヘリオガバルス伝においても当然そうした虚偽が含まれていると考えるのが自然である。

しかし、ローマ皇帝ヘリオガバルスについては評判は良くない。
18世紀イギリスの歴史家エドワード・ギボンによると、著書の『ローマ帝国衰亡史』の中では、「醜い欲望と感情に身を委ねた」と記述され、「最悪の暴君」との評価を下している。

アルノルフィーニ夫妻像

『アルノルフィーニ夫妻像』(Portret van Giovanni Arnolfini en zijn vrouw、英: The Arnolfini Portrait)は、初期フランドル派の画家、ヤン・ファン・エイクが1434年に描いた絵画で、精緻な油絵の嚆矢として、西欧美術史で極めて重要視されている作品である。

合計3枚のオークのパネル(板)に油彩で描かれたパネル画で、日本では『アルノルフィーニ夫婦像』、『アルノルフィーニ夫妻の肖像』などと呼ばれる。

イタリア人商人ジョヴァンニ・ディ・ニコラ・アルノルフィーニ (en:Giovanni Arnolfini) とその妻を、フランドルのブルッヘにあった夫妻の邸宅を背景として描き、作品にこめられた寓意性、独特の幾何学的直交遠近法、背面の壁にかけられた鏡に映し出される反転した情景など西洋美術史上でも極めて独創的で複雑な構成を持つ。美術史家エルンスト・ゴンブリッチは、「イタリアのルネサンスにおけるドナテッロやマサッチオの作品と同じように、新たな境地を開いた革命的といえる作品である。魔法のように現実の室内がパネルに再現されている。事物をありのままにとらえることが出来る、完璧な観察眼を持った史上最初の芸術家である」としている。作者ファン・エイクのサインが1434年の日付とともに記され、同じくファン・エイクと兄のフーベルト・ファン・エイクが描いた『ヘントの祭壇画』とともに、パネルに描かれた油絵としてはもっとも古い。ロンドンのナショナル・ギャラリーが1842年に購入し、それ以来ナショナル・ギャラリーが所蔵している。

川から誕生した大阪

大阪平野、かつてこの地は海の底。大阪の歴史は、平野を形成し豊かな恵みを与えてきた淀川を抜きには語れない。肥沃な土地を生んだ淀川は、全流域面積八千二百四十平方キロ、琵琶湖などを源流として近畿二府四県一千六百万人の暮らしを支える。大阪・京都府境界で桂川、宇治川、木津川の三川が合流して大河・淀川となる。ひとたび氾濫すれば大きな被害を生み、古代から為政者たちは、淀川をコントロールしようと治水に力を注ぐ。

かつて縄文時代、大阪平野の大部分は広大な湾で、瀬戸内海沿いに湾を隔てるように南から北へ突出していたのが現在の上町台地。琵琶湖を源流とする現在の淀川や大和川など、周囲から流れ込む大量の土砂が次第に湾を埋め、湾は淡水が交じり潟に縮小し、五世紀ごろには湖になり現在の大阪平野の姿となる。

七四四(天平十六)年、難波宮を都と定める聖武天皇の勅令が発布される。難波宮跡は現在の大阪城と並び、上町台地の北端部分で国内外を結ぶ交通の要衝だった。難波宮は遷都する際に解体されたが、材料は船で淀川をさかのぼり新都の長岡京に運んで移築されたという。

仁徳天皇が築造を命じたという「茨田堤(まんだのつつみ)」は、大河の中洲に堤防をめぐらせて川の流れを分断し、氾濫原の農地開拓と用水確保を可能にした。「難波の堀江」開削の記述も日本書紀にある。豊臣秀吉は、一五九四(文禄三)年にまず宇治川と巨椋池を堤防で分離し、京都-大坂間に文禄堤を築造した。堤防は街道としても整備が進み、中心地の都と大坂を直結する京街道と淀川の舟運で水陸の大動脈をなした。

京阪間には、淀川に三十石船と呼ばれる貨客船が往来し、江戸末期ごろは一日平均約千五百人と八百トンの貨物を運んでいたという。人や物資だけでなく文化や情報も伝える役割も担っていた。
八百八橋と呼ばれた大坂は、水路が縦横無尽に張り巡らされ、沿岸部の干拓も進み、明治以降の人口増加とともに町は海に向かって町は伸び、巨大都市・大阪を形成していく。

オランダから外国人技師のヨハネス・デ・レーケらを招き、
淀水の流れを川の中央に集め、船の航行を可能にするケレップ水制をはじめ、大規模な淀川改修工事や大阪港築港に力を注いだ。
水路に曲線を多く取り、遊水効果を持たせたデレーケ案は結局採用されず、より直線的な水路を提案した案が新淀川となった。だが、オランダから持ち込んだ技術は近代における治水の礎となった。デ・レーケの残した水制は、現在、川沿いの水たまり、つまりワンドとなって大阪市旭区の河川敷などに残るが、天然記念物に指定され絶滅の危機にひんする淡水魚・イタセンパラの国内最大の繁殖地としても知られる。

京都御所と花の御所

花の御所は、京都府京都市上京区にあった足利将軍家の邸宅の通称で、東側を烏丸通、南側を今出川通、西側を室町通、北側を上立売通に囲まれた東西一町南北二町を占めた。京都御所がある京都御苑の北西、烏丸今出川交差点を挟んで斜め向かいの一角、現在の同志社大学今出川校地の烏丸通を挟んで向かい側の場所にある同志社大学・寒梅館以南に位置していた。

上杉本陶版『洛中洛外圖』に描かれた「花の御所」、絵の右側が北。(京都アスニー収蔵)

室町通に面して正門が設けられたことから室町殿、室町第とも呼ばれた。足利将軍の事を「室町殿(室町家)」と呼び、足利家の政権を「室町幕府」と呼称するのはこれに由来する。

六曲一双 狩野永徳筆 国宝『洛中洛外図屏風』・左隻(米沢市上杉博物館所蔵)、花の御所は中央左下に描かれている。右が北。

後醍醐天皇と対立して京都に武家政権を開いた足利尊氏は、北朝を後見するため二条高倉に住み、2代将軍の足利義詮は鎌倉から京都に戻った際に足利直義が住んでいた三条坊門第に入った。将軍就任後、元の三条坊門第は直義の鎮魂のために八幡宮とすることになり、自分はその東隣に新たな三条坊門第を造営した。八幡宮は現在の御所八幡宮のこと。義詮は、室町季顕から、その邸宅である花亭を買上げて別邸とし、のちに足利家より崇光上皇に献上された。花の御所と足利家との関係は足利義詮に始まり、崇光上皇の御所となったことにより花亭は「花の御所」と呼ばれるようになった。3代将軍足利義満は、1378年(天授4年/永和4年)、北小路室町の崇光上皇の御所跡と今出川公直の邸宅である菊亭の焼失跡地を併せた敷地に足利家の邸宅の造営を始めた。
後にこの新しい邸宅を「上御所」、従来の坊門三条殿を「下御所」とも称するようになった。義満は将軍職を息子の足利義持に譲ると、新築した北山第(現鹿苑寺)へ移る。

龍安寺

京都市右京区、臨済宗妙心寺派の寺院で妙心寺との関係が深い。
本尊は釈迦如来、開基は細川勝元、開山は義天玄承、山号は大雲山と号し石庭で知られ「古都京都の文化財」として世界遺産に登録される。


当時、龍安寺の鏡容池はオシドリの名所として知られ、池を中心とした池泉回遊式庭園の方が今日の「石庭」より有名であった。衣笠山山麓一円は、永観元年(984年)に建立された円融天皇の御願寺である円融寺の境内地であった。円融寺は徐々に衰退し、平安時代末には藤原北家の流れを汲む徳大寺実能が山荘を建立する。

宝徳2年(1450年)、この山荘を室町幕府の管領守護大名である細川勝元が譲り受け、寺地とし初代住職として妙心寺8世(5祖)住持の義天玄承(玄詔)を迎え創建した。創建当初の寺地は現在よりはるかに広く、京福電鉄の線路の辺りまでが境内であったと云われる。龍安寺は応仁の乱(1467-1477年)によって焼失するが、勝元の子の細川政元と4世住持・特芳禅傑によって明応8年(1499年)に再興される。


その後、織田信長、豊臣秀吉らから寺領を付与されている。寛政9年(1797年)の火災で、方丈、仏殿など主要伽藍が焼失し、塔頭の西源院の方丈を移築して龍安寺の方丈(本堂)として現在にいたる。明治初期の廃仏毀釈によって衰退するが、イギリスのエリザベス女王が1975年に日本を公式訪問した際に龍安寺の拝観を希望し、石庭を絶賛し海外のマスコミでも報道され、日本のZEN(禅)ブームと相俟って、世界的にも知られるようになる。

石庭

方丈庭園、「龍安寺の石庭」は幅 25 メートル、奥行 10 メートルほど。
白砂を敷き詰め、東から5個、2個、3個、2個、3個の合わせて15の大小の石を配置する。

これらの石は3種類に大別できる。
各所にある比較的大きな4石はチャートと呼ばれる龍安寺裏山から西山一帯に多い山石の地石。
塀ぎわの細長い石他2石は京都府丹波あたりの山石。
その他の9石は三波川変成帯で見られる緑色片岩。

室町末期(1500年頃)特芳禅傑らの禅僧によって作庭されたと伝えられるが諸説あって定かではない。

この庭の石の配置から、中国の説話(虎、彪を引いて水を渡る)に基づき「虎の子渡しの庭」、あるいは、東から5、2、3、2、3の5群で構成される石組を、5と2で七石、3と2で五石、そして3で三石と、七・五・三の3群とも見られることにより「七五三の庭」とも呼ばれる。

石庭は、どの位置から眺めても必ずどこかの1つの石が見えないように配置されていることでも有名。

襖絵の帰還

明治初期の廃仏毀釈により海外に流出していた方丈襖絵のうち6面が
2010年10月に帰還した。

他に所在の確認されているものは、米国メトロポリタン美術館所蔵の8面(襖4枚の表裏)、シアトル美術館所蔵の4面、イギリス個人所蔵の9面の計21面である。

夙川(西宮)と山崎川(名古屋)

夙川

六甲山地の東端のゴロゴロ岳を水源とし、兵庫県南東部を流れ、西宮市南西部を南流し大阪湾に注ぐ。河川敷沿いにある「夙川河川敷緑地」は、松と桜の並木が続き、阪神間有数の景勝地として有名で、全長約4km、総面積約20.8haにわたって整備される。桜は約2.7kmにわたり約1660本植えられ、毎年桜の名所として多くの花見客が訪れる。

  • 桜は約2.7kmにわたり約1660本植えられ、毎年桜の名所として多くの花見客が訪れる。

桜の種類は、ソメイヨシノ(約1200本)、ヤマザクラ(約70本)、オオシマザクラ(約110本)、カンザン(約100本)、フゲンゾウほか15種。

1990年(平成2年)「日本さくら名所100選」に選ばれる。

山崎川

名古屋市千種区の平和公園内にある猫ヶ洞池などに源を発し、南西方向の昭和区、瑞穂区、南区へと流れ港区で名古屋港へ注ぐ。千種区池上町から千種区本山付近までの1.16kmは準用河川で昭和50年代初頭に暗渠化された。

  • 鏡池通付近の区間も暗渠化され、川が姿をあらわすのは千種区本山から鏡池通までの稲舟通沿いと田代本通を越えた大島町付近以降。

瑞穂公園のある中流域までの川沿いには広範囲に渉って桜の木が植えられ、「山崎川四季の道」として日本さくら名所100選にも選ばれ市内屈指の桜の名所である。

2013年には名古屋市が公募した「まちなみデザイン20選」にも選定された。

約1万年前の縄文時代には瑞穂陸上競技場付近が河口であったが、海面後退、土砂の堆積によって平安時代には新瑞橋付近が河口になっていたと推定されている。

西暦717年の尾張古図には、星崎のとなりに山崎の地名があり、これが川の名の由来にもなったと考えられる。

現在の河口付近の川筋は安政3年(1856年)の氷室新田の開発に伴って付け替えられた。それまでは現在の国道1号と交差する付近で西に向かい、当時の堀川河口の南(現在の地域医療機能推進機構中京病院付近)で伊勢湾に注いでいた。

文政5年(1822年)に刊行された地誌『郡村徇行記』に以下の記述が見られる。
山崎川 上ニテ川名川ト云、是ハ末森村猫洞七ツ釜大藪池ノ水落来レリ、下ハ紀左衛門新田道徳新田ノ間ニテ海ヘ落ツ。山崎橋長十二間幅三間アリ、大道奉行修造ヲ掌ル。享保十三戌申年、天白川ヲ此山崎川ヘ一旦瀬違有之シカ、十四年ノ間ニ天白川十七度決壊シ、処々砂入ナリシニヨリ、元文六酉年天白川元川ヘモトリ山崎川如今ナレリ。