大阪平野、かつてこの地は海の底。大阪の歴史は、平野を形成し豊かな恵みを与えてきた淀川を抜きには語れない。肥沃な土地を生んだ淀川は、全流域面積八千二百四十平方キロ、琵琶湖などを源流として近畿二府四県一千六百万人の暮らしを支える。大阪・京都府境界で桂川、宇治川、木津川の三川が合流して大河・淀川となる。ひとたび氾濫すれば大きな被害を生み、古代から為政者たちは、淀川をコントロールしようと治水に力を注ぐ。
かつて縄文時代、大阪平野の大部分は広大な湾で、瀬戸内海沿いに湾を隔てるように南から北へ突出していたのが現在の上町台地。琵琶湖を源流とする現在の淀川や大和川など、周囲から流れ込む大量の土砂が次第に湾を埋め、湾は淡水が交じり潟に縮小し、五世紀ごろには湖になり現在の大阪平野の姿となる。
七四四(天平十六)年、難波宮を都と定める聖武天皇の勅令が発布される。難波宮跡は現在の大阪城と並び、上町台地の北端部分で国内外を結ぶ交通の要衝だった。難波宮は遷都する際に解体されたが、材料は船で淀川をさかのぼり新都の長岡京に運んで移築されたという。
仁徳天皇が築造を命じたという「茨田堤(まんだのつつみ)」は、大河の中洲に堤防をめぐらせて川の流れを分断し、氾濫原の農地開拓と用水確保を可能にした。「難波の堀江」開削の記述も日本書紀にある。豊臣秀吉は、一五九四(文禄三)年にまず宇治川と巨椋池を堤防で分離し、京都-大坂間に文禄堤を築造した。堤防は街道としても整備が進み、中心地の都と大坂を直結する京街道と淀川の舟運で水陸の大動脈をなした。
京阪間には、淀川に三十石船と呼ばれる貨客船が往来し、江戸末期ごろは一日平均約千五百人と八百トンの貨物を運んでいたという。人や物資だけでなく文化や情報も伝える役割も担っていた。
八百八橋と呼ばれた大坂は、水路が縦横無尽に張り巡らされ、沿岸部の干拓も進み、明治以降の人口増加とともに町は海に向かって町は伸び、巨大都市・大阪を形成していく。
オランダから外国人技師のヨハネス・デ・レーケらを招き、
淀水の流れを川の中央に集め、船の航行を可能にするケレップ水制をはじめ、大規模な淀川改修工事や大阪港築港に力を注いだ。
水路に曲線を多く取り、遊水効果を持たせたデレーケ案は結局採用されず、より直線的な水路を提案した案が新淀川となった。だが、オランダから持ち込んだ技術は近代における治水の礎となった。デ・レーケの残した水制は、現在、川沿いの水たまり、つまりワンドとなって大阪市旭区の河川敷などに残るが、天然記念物に指定され絶滅の危機にひんする淡水魚・イタセンパラの国内最大の繁殖地としても知られる。