伊良湖岬

春の海は、日本の箏曲家であり作曲家の宮城道雄が作曲した箏曲。ヴァイオリン版も知られるが、本来は箏と尺八の二重奏である。 新日本音楽を代表する楽曲である。日本では、小学校における音楽の観賞用教材として指定されているほか、特に正月には、テレビ・ラジオ番組や商業施設等でBGMとして使用されているため、今日では正月をイメージする代表的な曲の一つとして知られている。

曲の特徴
1930年(昭和5年)の歌会始の勅題「海辺の巖」にちなみ、歌会始前の昭和4年(1929年)末に作曲された。宮城は曲のモチーフとして、大正6年(1917年)に上京する際に航路で旅した瀬戸内海をイメージして描いている(随筆「『春の海』のことなど」より)。8歳で失明する前に祖父母に育てられて住んでいた瀬戸内の景勝地、福山市の鞆の浦の美しい風景が目に焼きついたのをイメージして描いている、という説は誤り。宮城道雄は幼少の頃に鞆の浦で過ごしたことはなく、初めて鞆に来たのは昭和23年(1948年)8月のことであった(随筆「鞆の津」より)。

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ロス・プリモス
日本ムード歌謡界を代表するグループ (1961-2010)

ロス・プリモスは、1961年から2010年5月まで活動していた、森聖二がメインボーカルを務める、日本ムード歌謡界を代表するグループである。

旧グループ名は黒沢明とロス・プリモス。2010年6月からは、メンバーを替え新ロス・プリモスとして稼働。メンバー2人の脱退(事実上の解雇処分)後は、活動は再開されていない。

活動期間
1961年 – 2010年5月
2010年6月 – 2019年(活動休止状態)

天城越え

天城山隧道

1905年(明治38年)に完成。全長445.5メートル。アーチや側面などすべて切り石で建造された日本初の石造道路トンネルであり、日本に現存する最長の石造道路トンネルでもある。総工費10万3016円。新天城トンネルと区別するため、「旧天城トンネル」とも呼ばれる。

1916年(大正5年)には、バス運行が開始されて人・物の交流が盛んになった。

当隧道は日本の道100選に選ばれているほか、1998年(平成10年)9月2日に国の登録有形文化財に「旧天城隧道」として登録された。2001年(平成13年)6月15日には「天城山隧道」の名称で道路トンネルとしては初めて国の重要文化財(建造物)に指定された。なお、当該指定にともない登録有形文化財としての登録は抹消されている。この時期に観光スポットとしての整備により従来舗装されていたアプローチ部分の舗装が剥がされた。1970年(昭和45年)、当隧道の西側に新天城トンネルが開通したことにより、同トンネル経由の道が本線となった。

伊豆市側坑口付近には駐車場や公衆トイレが設備されている。トンネル内の照明は通常のパネル型ではなく、ガス灯を模したデザインのナトリウムランプである。幅員は3.50メートル、側溝まで含めると4.10メートル。

新天城トンネル

天城山隧道の西側に並行して掘られた国道414号のトンネル。主要地方道13号修善寺下田線時代の1970年に竣工、延長800 m。当初は天城トンネル有料道路として有料であったが、2000年3月18日より無料開放となった。

フランス ボルドー(Bordeaux)

ボルドー(Bordeaux)は、フランス南西部の中心的な都市。ヌーヴェル=アキテーヌ地域圏の首府、ジロンド県の県庁所在地。アキテーヌ公国の首府だった。

ガロンヌ川の湾曲部に面した歴史的な港町。市街地は左岸に沿って三日月形に形成され、月の港と呼ばれる。 ボルドーワインの産地として世界的に有名。

市の中心部および南側へかけては旧市街地であり、18世紀に城壁を取り壊し近代化の手が入ったが、狭くてまがった古い通りを多く残している。
市中心部のすぐ北側には、18〜19世紀の都市計画による大通りがある。

「月の港ボルドー」

「月の港ボルドー」は、かつて港町として栄えたボルドーの歴史地区を指す。
フランスの世界遺産の一つである。「月の港」とは、このボルドーを指す異称であり、ガロンヌ川が三日月形に湾曲した地点の南岸に沿って発達した交易港であったことに因む。

英名Bordeaux, Port of the Moon
仏名Bordeaux, Port de la Lune
面積1,731ha (緩衝地域 11,974ha)登録区分文化遺産登録基準(2), (4)登録年2007年公式サイト世界遺産センター(英語)

世界遺産登録に当たって特に評価されたのは、ルイ=ユルバン=オーベール・ド・トゥルニー (Louis-Urbain-Aubert de Tourny) らによって形成された啓蒙時代の新古典主義建築の都市計画および歴史的建造物群が現在も良好に保存されていることである。

加えて、ケルト時代(古代ローマの植民都市になる以前)に町が創設された古い歴史を持ち、アキテーヌ公国の首府だった。

2000年頃以降の都市計画により、歴史的中心地区で歩行者空間との融和が大きく進んだ(トラムの導入を含む)。

大原 三千院

三千院は天台三門跡の中でも最も歴史が古く、最澄が延暦年間(782年 – 806年)、比叡山延暦寺を開いた時に、東塔南谷(比叡山内の地区名)の梨の大木の傍に一宇を構え、「円融房」と称したのがその起源という。後の「梨本門跡」の名はこれに由来している。

その地に貞観2年(860年)、承雲和尚が最澄自刻の薬師如来像を安置した伽藍を建て、円融院と称した。承雲はまた、比叡山の山麓の東坂本(現・大津市坂本)の梶井に円融院の里坊(山寺の僧が山下の人里に設ける住まい)を設けた。応徳3年(1086年)には梶井里に本拠を移し円徳院と称した。梶井の地名と、加持(密教の修法)に用いる井戸(加持井)があったことから、後に寺を「梶井宮」と称するようになったという。

元永元年(1118年)、堀河天皇第三皇子(第四皇子とも)の最雲法親王が入寺したのが、当寺に皇室子弟が入寺した初めである。最雲法親王は大治5年(1130年)、第14世梶井門跡となった。以後、歴代の住持として皇室や摂関家の子弟が入寺し、歴史上名高い護良親王(尊雲法親王)も入寺したことがある。

最雲法親王は保元元年(1156年)、天台座主(天台宗の最高の地位)に任命されたが、同じ年、比叡山の西麓の大原に梶井門跡の政所(まんどころ)が設置された。これは、大原に住みついた念仏行者を取り締まり、大原にそれ以前からあった来迎院、勝林院などの寺院を管理するために設置されたものである。政所は極楽院(現・往生極楽院)に隣接して建立された。

大原は古くから貴人や念仏修行者が都の喧騒を離れて隠棲する場として知られていた。
文徳天皇の第一皇子である惟喬親王(844年 – 897年)が大原に隠棲したことはよく知られ、『伊勢物語』にも言及されている。
藤原氏の権力が絶大であった当時、本来なら皇位を継ぐべき第一皇子である惟喬親王は、権力者藤原良房の娘・藤原明子が産んだ清和天皇に位を譲り、自らは出家して隠棲したのであった。
大原はまた、融通念仏や天台声明(しょうみょう、仏教声楽)が盛んに行われた場所として知られ、天台声明を大成した聖応大師良忍(1073年 – 1132年)も大原に住んだ。
山号の魚山は魏の曹植が陳の魚山に遊んだ際に、空中より聞こえた梵天の讃を筆を執って写し梵唄と名付けたという、声明発祥の故事にちなんだものである。

坂本の梶井門跡は貞永元年(1232年)の火災をきっかけに今の京都市内に移転した。洛中や東山の各地を転々とした後、元弘元年(1331年)に洛北船岡山の東麓の寺地に落ち着いた。この地は淳和天皇の離宮雲林院があったところと推定され、現在の京都市北区紫野、大徳寺の南方に当たる。船岡山東麓の梶井門跡は応仁の乱(1467年 – 1477年)で焼失し、大原の政所を本坊とした。

元禄11年(1698年)、江戸幕府将軍徳川綱吉は当時の門跡の入道慈胤親王(後陽成天皇皇子)に対し、京都御所周辺の公家町内の御車道広小路に寺地を与えた。これにより、本坊は大原から移転した。このため、以後近世を通じて梶井門跡は公家町の一角であるこの地にあった。寺地は現在の京都市上京区梶井町で、跡地には京都府立医科大学とその附属病院が建っている。

明治維新の際、当時の門跡であった昌仁法親王は還俗(仏門を離れる)して新たに梨本宮家を起こし、公家町(京都御所周辺の寺町広小路)の寺院内にあった仏像、仏具類は大原の政所に送られた。1871年(明治4年)、大原の政所は新たな本坊となり「三千院」と改称した。「三千院」は梶井門跡の持仏堂の名称「一念三千院」から取ったものである(「一念三千」については当該項目を参照)。その際、隣接して建てられていた極楽院を吸収合併して境内に取り込んでいる。

宮中御懺法講(きゅうちゅうおせんぼうこう)は、保元2年(1157年)に後白河天皇が宮中の仁寿殿にて初めて行った仏事で、法華経を読誦し、悪行を懺悔し、罪障消滅を祈る法要である。代々、梶井門跡の門主がこの法要の導師を務めることが慣例になっていた。明治新政府が宮中での仏事を禁じたため、この行事は一旦絶えたが、その後1898年(明治31年)に大原の地で復活した。宸殿が1926年(大正15年)に建立されてからは宸殿で行われるようになった。1979年(昭和54年)に明治天皇70回忌法要を三千院で行ってからは毎年5月30日、三千院宸殿で御懺法講が行われている。

老舗料亭 八勝館

八勝館

名古屋市昭和区広路町にある老舗料亭。

料亭八勝館は、名古屋の東の郊外の起伏に富んだ景勝地に所在する。
この場所には、明治時代前期に造営された、材木商柴田孫助の別邸があった。

1910年(明治43年)に料理旅館八勝館となり、
1925年(大正14年)には名古屋の経済人によって設立された株式会社八勝館の経営するところとなった。
その後、1977年(昭和52年)、経営体は株式会社八勝館となっている。

1950年(昭和25年) – 第5回国民体育大会に出席する昭和天皇が宿泊するため「御幸の間」を建設。
1951年(昭和26年) – 「御幸の間」が日本建築学会賞を受賞。
1999年(平成11年) – 「御幸の間」が日本の近代建築20選(現在はDOCOMOMO JAPAN選定 日本におけるモダン・ムーブメントの建築)に選出。 
2020年(令和2年) – 建造物9棟と土地が国の重要文化財に指定。

建物
建物の配置は以下の通りである(以下の文中の太字の建物は国の重要文化財)。
西門を入ると、右手奥に玄関棟、その奥に松の間棟が建つ。
松の間棟の右手(西)には御幸の間棟、左手(東)には新座敷棟、そのさらに東に菊の間棟が建つ。
敷地の南側には池のある庭園が広がり、その中に田舎家と中門が建つ。
このほか、玄関棟の北側には新しい大広間棟と厨房棟が建つが、この2棟は重要文化財の指定対象外である。
さらに離れた北側には正門が建つ。
これらのうち玄関棟と松の間棟は柴田家別邸時代の明治中期の建築、新座敷棟と菊の間棟は料理旅館の施設として明治後期に建てられた。
田舎家は滋賀県甲賀の古民家を移築したものである。
柴田家別邸時代の建物は、材木商の別邸らしく、良材を用いた数寄屋建築である。
太平洋戦争後には、数寄屋建築研究の第一人者である堀口捨己の設計によって御幸の間棟の新築、新座敷棟の増築、菊の間棟の改修が行われており、数寄屋と現代建築の融合をめざした堀口の作風が随所にみられる。
門3棟はいずれも明治中期の建築とみられる。

御幸の間
堀口捨己設計の16畳の和室。
西面には4間の杉の面皮の床框(とこがまち)を据え、中央を床(とこ)、左右を床脇とする。
南面は付書院を設け、桂離宮の笑意軒にならった丸窓を設ける。
北側の次の間境の襖は摺箔(能装束)の裂を貼り合わせて山水を表現している。
天井は、南北軸の中央に一直線に障子を嵌め、その左右は棹縁天井とする。
照明器具は直接見えないように天井裏に設置され、前述の障子を通して室内を照らす。その左右の天井は場所によって棹縁の向きを変え、非対称のデザインになっている。

残月の間
「御幸の間」と同じ棟にある、堀口捨己設計の10畳の和室。
表千家の茶室「残月の間」の写しである。
北面の西側は床高を高めて2畳の上段とし、北面の東側には付書院を設ける。

文化財
以下の建造物9棟及び土地が2020年(令和2年)、国の重要文化財に指定された。

八勝館・9棟

玄関棟明治中期の建築。
式台、内玄関、玄関の間、応接室からなる。
松の間棟玄関棟の南に位置し、両棟は渡廊下で連絡する。明治中期の建築。
1950年(昭和25年)に増築。
梅の間と次の間、松の間と次の間、席の間と次の間からなる。
このうち席の間と次の間の部分は増築である。
御幸の間棟松の間棟の西に位置し、両棟は渡廊下で連絡する。
1950年(昭和25年)、愛知国体にともなう昭和天皇行幸に際し、堀口捨己の設計で建てられた。
御幸の間と次の間、残月の間と次の間のほか、配膳室を設ける。
御幸の間から入側を隔てたところには月見台(ベランダ)を設ける。
新座敷棟玄関棟の南東に位置し、両棟は渡廊下で連絡する。
明治後期の建築。
1953年(昭和28年)、堀口捨己によって増築。
紅梅の間、白菊の間、蘭の間、竹の間、松の間と次の間からなる。
このうち松の間と次の間は増築である。
菊の間棟新座敷棟の北東に位置し、両棟は渡廊下で連絡する。
明治後期の建築。
1953年(昭和28年)、堀口捨己によって改修。菊の間と次の間、紅葉の間と次の間からなる。
田舎家敷地の南側に位置する。
1938年(昭和13年)に滋賀県甲賀地区の古民家を移築したもの。
正門明治時代中期の建築。
西門明治時代中期の建築。
中門明治時代中期の建築。
附:塀4棟正門東方、正門西方、西門南方、西門北方。土地宅地、山林10,365.41平方メートル。

※ 出典:各建物の建築年代と間取りについては、文化庁文化財第二課「新指定の文化財」『月刊文化財』687、第一法規、2021年、pp.47 – 55による