「竹中工務店 400年の夢」

世田谷美術館 「竹中工務店400年の夢-時をきざむ建築の文化史-」平成28年4月23日(土曜日)から平成28年6月19日(日曜日)まで。

竹中工務店はスーパーゼネコン5社(鹿島建設、清水建設、大成建設、竹中工務店、大林組)の一つで、現在では5社の中で唯一、大阪に本社を置く企業である(本店は大阪・東京それぞれに設置している)。

コーポレート・メッセージは、「想いをかたちに 未来へつなぐ」。

江戸時代前期の1610年、織田信長の元家臣であった初代竹中藤兵衛正高が尾張国名古屋にて創業し、神社仏閣の造営に携わる。その後、寺社から洋風建築へと手を広げ、1909年に神戸で会社を設立する。

これまでに施工した建築物は、5大ドーム球場(札幌・東京・ナゴヤ・大阪・福岡)、全国有名美術館や商業施設、さらには病院、オフィスビルなど多岐にわたり、施工実績の多さでは国内随一を誇る。新聞発送場に音楽ホールなどを組み合わせた「朝日会館」(大阪市、26年)、ホテルが同居するオフィスビル「堂島ビルヂング」(同、23年)といった建物は、関西を地盤とする同社の代表作に挙げられる。

六十余州名所図会(歌川広重)

歌川広重による日本全国の名所を描いた浮世絵木版画の連作『六十余州名所図会』。1853年(嘉永6年)から1856年(安政3年)にかけて制作された広重晩年の作。

五畿七道の68ヶ国及び江戸からそれぞれ1枚ずつの名所絵69枚に、目録1枚を加えた全70枚からなる。画面は縦長で、前景を大きく描き遠近を協調したり、大胆なトリミングを施すなど、斬新な構図。

マルセル・デュシャン 現代美術の実際的な創始者

マルセル・デュシャン (Marcel Duchamp、1887年7月28日 – 1968年10月2日)は、フランス生まれの美術家で20世紀美術に決定的な影響を残す。デュシャンが他の巨匠たちと異なるのは、30歳代半ば以降の後半生にはほとんど作品らしい作品を残していない。

画家として出発し、「絵画」らしい作品を描いていたのは1912年頃までで油彩画の制作は1910年代前半に放棄する。チェスの名手としても知られた。ニューヨーク・ダダの中心的人物と見なされ、コンセプチュアル・アート、オプ・アートなど現代美術の先駆けとも見なされる作品を手がけた。

油絵を放棄した後、「レディ・メイド」と称する既製品(または既製品に少し手を加えたもの)による作品を散発的に発表し、1917年には「ニューヨーク・アンデパンダン展」における『噴水(泉(男子用小便器に「リチャード・マット (R. Mutt)」という署名をした作品))』が物議を醸した。

その後、『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』という通称「大ガラス」と呼ばれるガラスを支持体とした作品の制作を未完のまま1923年に放棄し、ほとんど「芸術家」らしい仕事をせずチェスに没頭していた。彼のこうした姿勢の根底には、芸術そのものへの懐疑がある。墓碑銘に刻まれた「死ぬのはいつも他人ばかり」という言葉も有名で、寺山修司が好んだとされる。

前田寛治 社会意織の強い独自の写実主義

前田寛治 (1896年10月1日 – 1930年4月16日)は、社会意織の強い独自の写実主義、人物写実画の名手として知られ、33歳という若さで早逝、10年に満たない短い活動期間であった。

古典的構図でのフォーヴィスム的筆致が、「前寛ばり」という流行語を生むなど当時の芸術家に多大な影響を与えた。

鳥取県に生まれ倉吉中学校を卒業後、上京して葵橋洋画研究所に入り、黒田清輝の指導を受ける。1921年(大正10)東京美術学校西洋学科を卒業、帝展に出品し、翌年フランスへ留学する。クールベのレアリスムに傾倒し、福本和夫から唯物史観の感化を受け、社会意織の強い独自の写実主義を目ざす。

25年帰国して第6回帝展に『J・C嬢の像』を出品し、特選となる。翌年同志とともに「一九三〇年協会」を創立、本郷・湯島の自由画室に写実研究所を開設する。質感、量感、実在感を絵画の写実的要件としたが、作風はしだいにフォーブ的な主観表現へと向かう。29年(昭和4)に審査員として出品した『海』は帝国美術院賞を受ける。ほかに代表作として『二人の労働者』、『裸体』など。

シンガポール植物園

シンガポールで始めて登録された世界遺産のシンガポール植物園は、建国50周年を迎える2015年に、ドイツのボンで開催された第39回世界遺産委員会において登録が認められた。

シンガポールでは1800年代後半、ゴムの研究がされ東南アジアのゴム産業の基礎が作られた。ゴム産業は自動車産業のタイヤの生産と相乗効果をなし、世界の自動車産業に影響を与え、近代産業を促進発展させた。

シンガポール植物園の敷地は、東京ドーム13個分にあたる63.7ヘクタールの広さを有し、園内は「ブキット・ティマ・エリア」、「中央エリア」、「タングリン・エリア」の3つに分かれている。シンガポールの国花は蘭で、人気観光スポットでもある国立洋蘭園には約1000の原種、約2000の交配種の洋蘭が集められ、その数は約6万株と世界最大規模を誇る。

シンガポール植物園の入園料は基本的には無料だが、国立洋蘭園(ナショナル・オーキッド・ガーデン)は有料とされる。なかでも人気なのが、VIP Orchid Garden (VIP蘭園)で、世界各地から訪れた著名人の名前を冠した新種のランが約120点以上も展示されている。

日本の天皇陛下の名前を冠した深紅のランはレナンセラの交配種で、雅子皇太子妃のランは、真っ白な丸い花びらが清楚な感じのするデンドロビウムの交配種。英国のエリザベス女王や故ダイアナ元妃、故サッチャー元英国首相、故ネルソン・マンデラ元南アフリカ大統領、アナン元国連事務総長らのランを始め多種多様なランが咲く。さらに、ジャッキー・チェンや氷川きよしなど、著名人のランの花、変わった形や色のランの花は、訪れた人々を楽しませてくれる。

フランシスコ・ホセ・デ・ゴヤ・イ・ルシエンテス(Francisco José de Goya y Lucientes)

フランシスコ・ホセ・デ・ゴヤ・イ・ルシエンテス(Francisco José de Goya y Lucientes、1746年3月30日 – 1828年4月16日)は、ディエゴ・ベラスケスとともにスペイン最大の画家で、ベラスケス同様、宮廷画家として重きをなした。

1746年、スペイン北東部サラゴサ近郊のフエンデトードスに生まれる。父親は鍍金師、芸術を愛好する気風の中で育ち、14歳の時から約4年間、サラゴサで地元の画家に師事して絵画の修行をする。1770年、大画家を目指してイタリアのローマに出て、イタリア滞在中にルネサンスの傑作に出会い、フレスコ画の技法を学び、パレルモ・アカデミーから奨励賞を受ける。

1771年(25歳)帰国した。1772年サラゴザのピラール聖母教会から大聖堂の天井装飾の注文も受ける。1786年、40歳で国王カルロス3世付き画家となり、1789年には新王カルロス4世の宮廷画家となる。40歳代にさしかかって、ようやくスペイン最高の画家としての地位を得たゴヤだが、1792年、不治の病に侵され聴力を失う。

今日ゴヤの代表作として知られる『カルロス4世の家族』(en:Charles IV of Spain and His Family)、『着衣のマハ』、『裸のマハ』、『マドリード、1808年5月3日』、『巨人』(en:The Colossus (painting))などはいずれも、ゴヤが聴力を失って以後の後半生に描かれたもの。1807年、ナポレオン率いるフランス軍がスペインへ侵攻し、事実上、ナポレオン軍の支配下に置かれたスペインは、1808年から1814年にかけてスペイン独立戦争のさなかにあった。こうした動乱の時期に描かれたのが『マドリード、1808年5月3日』、『巨人』などの作品群である。

代表作
我が子を食らうサトゥルヌス 「黒い絵」の代表作
着衣のマハ(1797年-1803年頃、プラド美術館蔵)
裸のマハ(1797年-1800年頃、プラド美術館蔵)

日本にあるゴヤの油彩画
東京富士美術館
『ブルボン=ブラガンサ家の王子、ドン・セバスティアン・マリー・ガブリエル』
三重県立美術館
『アルベルト・フォラステールの肖像』

ゴヤの版画
国立西洋美術館、町田市立国際版画美術館、神奈川県立近代美術館、姫路市立美術館、長崎県美術館などが所蔵する。

大塚国際美術館では、ゴヤの「聾者の家」を当時そのままの配置で再現している。

貴婦人と一角獣 (La Dame à la licorne)

タペストリーは6枚からなる連作で、制作年や場所の詳細は不明だが、パリで下絵が描かれ、15世紀末(1484年から1500年頃)のフランドルで織られたものとみられている。1841年、歴史記念物監督官で小説家でもあったプロスペル・メリメがクルーズ県にあるブーサック城(Château de Boussac)で発見した。

タペストリーは保存状態が悪く傷んでいたが、小説家ジョルジュ・サンドが『ジャンヌ』(1844年)の作中で、このタペストリーを賛美したことで世の関心を集めることとなった。1882年、この連作はクリュニー美術館(中世美術館)に移され、現在に至っている。

六つのタペストリーには、それぞれ若い貴婦人がユニコーンとともにいる場面が描かれる。ほかに獅子や猿もともに描かれているものもある。背景は千花模様(ミル・フルール、複雑な花や植物が一面にあしらわれた模様)が描かれる。

赤い地に草花やウサギ・鳥などの小動物が一面に広がって小宇宙を形作っており、ミル・フルールによるタペストリーの代表的な作例となっている。タペストリーは六つの感覚、「味覚」、「聴覚」、「視覚」、「嗅覚」、「触覚」、そして「我が唯一つの望み」(A mon seul désir)をテーマとして示したものとされる。

「我が唯一つの望み」は、普通「愛」や「理解」と解釈されることが多い。タペストリーに描かれた旗、ユニコーンや獅子が身に着けている盾には、フランス王シャルル7世の宮廷の有力者で、リヨン出身のジャン・ル・ヴィスト(Jean Le Viste)の紋章(三つの三日月)がある。このため、彼がこのタペストリーを作らせた人物ではないかと見られている。

ポール・セザンヌ

セザンヌは印象派ではあるが、自然そのままの情景を描いていたわけではない。自然の中に幾何学を見つけ出しその表現を追求し、セザンヌが得意とした絵画である静物画においては独特の手法を取り入れている。

西洋美術の伝統的な約束事にしばられず、色彩とボリュームからなる独自の秩序をもつ絵画を探求しつづけた。セザンヌの絵画には、部分的にあえて絵の具が塗られていないものがある。これは未完成の状態ではなく、完成させるために色を塗っていない部分が必要だった。これ以上色をつけても意味がないと判断したり、どの色を塗っても全体の考え抜かれた色彩のバランスが壊れてしまう場合など、セザンヌは色を塗らなかったという。

40歳代、画面全体を規則的な筆致で再構成するようになる。さらに後年、キャンバスのぬり残しで光を表したり、薄い色面を重ねた画面構成を行うようになる。セザンヌのこうした技法は、ピカソやブラックがキュビスムを生むための重要な要素となる。

ポール・セザンヌは言う・・・自然の背後に何があるのか何もないかもしれないし全てがあるかもしれない余白とは無である、だがそこには全てがある・・・

セザンヌの絵画には、部分的にあえて絵の具が塗られていないものがある。

これは未完成の状態ではなく、完成させるために色を塗っていない部分が必要だった。

これ以上色をつけても意味がないと判断したり、どの色を塗っても全体の考え抜かれた色彩のバランスが壊れてしまう場合など、セザンヌは色を塗らなかったという。

40歳代、画面全体を規則的な筆致で再構成するようになる。

さらに後年、キャンバスのぬり残しで光を表したり、薄い色面を重ねた画面構成を行うようになる。

セザンヌのこうした技法は、ピカソやブラックがキュビスムを生むための重要な要素となる。

南米コロンビア、キャノ・クリスタレス (Camo cristales)

南米コロンビアの人里離れた奥地にある国立公園『シエラ・デ・ラ・マカレナ』。この未開の地域を流れる、エル・キャノ・クリスタルは、「5色の川」、「世界で最も美しい川」、「楽園へと続く川」などと形容される。

オリノコ川の源流、アマゾン川の源流に当たり、シエラ・デラ・マカレナの高原から流れ、ギアナ高地と同じ岩盤にある。アンデス山脈の分水嶺付近に当たる地域で、古くからアンデスの農耕民が住んでいる場所でもある。

このキャノ・クリスタレス、1年のうちほどんどの期間は何の変哲もない普通の川であるが、雨季と乾季の狭間の時期、9月~11月の間の僅か2~3週間だけ「楽園」のような美しい姿を見せる。雨季と乾季の間には川の水位が低下し水温が上昇、川底のコケや藻が爆発的な成長をする。赤やピンクのコケの花が咲き乱れ、これと川の水の青さが相まって、カラフルな奇跡の様相となる。

2009年までの数年間は、観光客の急増による環境破壊を懸念したコロンビア政府により国立公園が閉鎖されていた。2009年に国立公園が開放され、一般の観光客もこの美しい様子を見ることができるようになる。車では行くことができないため、近くまで飛行機で行かなければならない。加えて、3か月間の間の2~3週間の間にぴったりと訪問しなければならない。実際に見ることができれば、まさに奇跡と言えるようだ。

マルク・シャガール(Marc Chagall)

マルク・シャガール(Marc Chagall, 1887年7月7日 – 1985年3月28日)は20世紀のロシア(現ベラルーシ)出身のフランスの画家、毒舌家としても知られ、同時代の画家や芸術運動にはシニカルな態度を示していた。

特にピカソに対しては極めて辛辣な評価を下している。1910年パリに赴き、5年間の滞在の後、故郷へ戻る。この時代の作品にはキュビスムの影響が見られる。10月革命(1917年)後のロシアでしばらく生活する。

ロシア時代のシャガールはロシア・アヴァンギャルドに参加し、構成主義の影響の濃い作品、デザイン的作品を制作した。1922年、故郷に見切りをつけ、ベルリンを経由し、1923年にはふたたびパリへ戻り、その後作品は「愛」の方への傾斜が認められる。

1950年、南フランスに永住することを決意し、フランス国籍を取得している。当時のフランス共和国文化大臣でシャガールとも親交のあったアンドレ・マルローは、オペラ座の天井画をシャガールに依頼し、1964年に完成している。1973年、86歳の誕生日に、ニース市に「マルク・シャガール聖書のメッセージ国立美術館」(現国立マルク・シャガール美術館)が開館した。1966年から20年近く暮らした、ニースに近いサン=ポール=ド=ヴァンスの墓地に眠る。

代表作I and the Village(1911年) ニューヨーク近代美術館七本指の自画像(1912年 – 1913年) アムステルダム市立美術館誕生日(1915年) ニューヨーク近代美術館Green Violinist(1923年) グッゲンハイム美術館青いサーカス(1950年) ポンピドゥー・センターイカルスの墜落(1974年) ポンピドゥー・センターAmerica Windows(1977年) シカゴ美術館バレエ『アレコ』(1942年) 舞台背景画 第1、2、4幕 青森県立美術館バレエ『アレコ』(1942年) 舞台背景画 第3幕 フィラデルフィア美術館イスラエル十二部族(1962年) ステンドグラス エルサレムの病院のシナゴーグ(礼拝堂)を飾る