前田寛治 (1896年10月1日 – 1930年4月16日)は、社会意織の強い独自の写実主義、人物写実画の名手として知られ、33歳という若さで早逝、10年に満たない短い活動期間であった。
古典的構図でのフォーヴィスム的筆致が、「前寛ばり」という流行語を生むなど当時の芸術家に多大な影響を与えた。
鳥取県に生まれ倉吉中学校を卒業後、上京して葵橋洋画研究所に入り、黒田清輝の指導を受ける。1921年(大正10)東京美術学校西洋学科を卒業、帝展に出品し、翌年フランスへ留学する。クールベのレアリスムに傾倒し、福本和夫から唯物史観の感化を受け、社会意織の強い独自の写実主義を目ざす。
25年帰国して第6回帝展に『J・C嬢の像』を出品し、特選となる。翌年同志とともに「一九三〇年協会」を創立、本郷・湯島の自由画室に写実研究所を開設する。質感、量感、実在感を絵画の写実的要件としたが、作風はしだいにフォーブ的な主観表現へと向かう。29年(昭和4)に審査員として出品した『海』は帝国美術院賞を受ける。ほかに代表作として『二人の労働者』、『裸体』など。