アンリ・マティス 『ロザリオ礼拝堂』

ニースの西、空港のすぐ近くにヴァール川が流れる。この川を境にして、東はイタリア文化の影響、西はプロバンスの文化の影響を受けているようだ。ヴァール川は文化的な国境かもしれない。ニースの北の山裾にヴァンスという小さな村がある。

その山肌に建つ礼拝堂が、アンリ・マティス作の『ロザリオ礼拝堂』。画家マティスが晩年にデザインし、マティス芸術の集大成とも言われる。1948年から51年まで、3年以上もの歳月をかけた。訪れるなら冬の午前11時、小さな礼拝堂はその瞬間に光の楽園になるという。使われている色は青、緑、黄色の3色で、壁一面のステンドグラスが光を送り出す。

印象派の次の時代を模索したマティスは、鮮やかな色彩による構成の「野獣派」と呼ばれ、野獣派の活動が短期間で終わった後も、20世紀を代表する芸術家の一人として活動を続け、自然を愛し「色彩の魔術師」とも謳われた。

1951年、礼拝堂は完成し、その4年後、84歳で、マティスはその生涯を閉じる。
愛を表現しようとした画家が生み出した救いの空間、『ロザリオ礼拝堂』、光を追い求めたマティスが辿り着いた理想の楽園でもあるのだろう。

二条城

かつて、二条大路は朱雀大路が廃れた後は、都一の大路で、足利尊氏から義満まで3代の将軍が二条に屋敷を構えた。室町時代には、平安京の左京にあった唯一の城で、右京には、「西院城」があり、二条城と西院城を平安京の両城ともいう。

二条城は京都市街の中にある平城で、足利氏、織田氏、豊臣氏、徳川氏によるものがある。現在見られるものは徳川家康によって創建された。幕府は二条城と呼んだが、朝廷は二条亭と呼んだ。城内全体が国の史跡に指定されていて、二の丸御殿(6棟)が国宝に、22棟の建造物と二の丸御殿の障壁画計1016面が重要文化財に指定され、二の丸御殿庭園は特別名勝に指定されている。1994年(平成6年)に、ユネスコの世界遺産(世界文化遺産)に「古都京都の文化財」として登録される。

日本の歴史書における複数の「二条城」

1,室町幕府13代将軍足利義輝の居城を「二条御所武衛陣の御構え」

2.室町幕府15代将軍足利義昭の居城として、織田信長によって作られた城は、二条通からは遠く離れていたが、平安京条坊制の「二条」に城域の南部分がわずかに含まれるので、義輝の「二条御所」とともに「二条」の名を冠して呼ばれる

3.織田信長が京に滞在中の宿所として整備し、後に皇太子に献上した邸である「二条新御所」は、二条通にも面さず条坊制の二条にも属していないが、二条家の屋敷跡に設けられたためこの呼称が使われる

4.徳川家康が京に滞在中の宿所として造った城が、現存する二条城である。家康がこの地を選んだ理由としては、この地が比較的人家がまばらであったこと、信長の二条新御所と秀吉の妙顕寺城が並ぶ東西のラインと秀吉の聚楽第から真南に延ばしたラインの交差する場所、であったという説があり、堀川西域に立ち御所に向けて門を開けていた聚楽第を意識していたことが伺われる。

万延元年(1860年)
京都地震で、御殿や各御門、櫓などが傾くなど、大きな被害を受ける

文久2年(1862年)
14代将軍徳川家茂の上洛にそなえ二条城の改修が行われる
二の丸御殿は全面的に修復し、本丸には仮御殿が建てられた

文久3年(1863年)3月
家茂は朝廷の要請に応えて上洛をする

慶応元年(1865年)
家茂は再度上洛し二条城に入るが、すぐに第二次長州征伐の指揮を執るため大坂城へ移るも、病に倒れ、翌慶応2年に死去する

慶応2年(1866年)
幕閣によって次の将軍は一橋慶喜と決定されるが、慶喜は就任を拒絶。幕府関係者のみならず朝廷からの度重なる説得の末、12月に二条城において15代将軍拝命の宣旨を受ける

慶応3年(1867年)9月
慶喜が宿所を若狭小浜藩邸から二条城に移す
10月には大政奉還、将軍職返上
12月には朝廷より辞官納地命令が二条城に伝達される
軍事衝突を避けるため、慶喜は二条城から兵を連れて大坂城へ向かう

慶応4年(1868年)1月
朝廷(新政府)の命を受けた議定・徳川慶勝に引き渡され、太政官代が設置

北野天満宮

菅原道真は893年参議、左大弁に至り、中央政界に強い影響力を持つに至る。894年遣唐大使に任じられるが、道真は遣唐使の廃止を訴える。宇多天皇は信頼する道真の進言を受け入れ、ここに260年あまり続いた遣唐使が廃止された。897年宇多天皇は上皇という自由な立場から藤原氏をけん制するため13歳の醍醐天皇に譲位し上皇となる。

899年藤原時平が左大臣に、道真が右大臣に任じられる。
菅原道真は吉備真備につぐ学者出身の大臣となる。

・・・

「藤原氏でも無い者が大臣の位につくなど、ありえぬ。このままでは藤原氏を越して太政大臣にもなりかねない…」と、藤原時平は醍醐天皇に道真を讒言する。

901年1月25日に大宰権帥に左遷された菅原道真公一行は古船で海路を通り、55日間程度かかり太宰府に着く。

子供連れで家財道具を運ぶなら海路を選ぶのが妥当で、道真公が廃止した遣唐使とほぼ同じような航路となっているのは、風向きや海流、同程度の舟と航海技術による。

都から遠く離れた大宰府、浄妙院(榎寺)に謹慎すること二年。
延喜3年(903年)2月25日菅原道真は失意のうちに没した。

・・・

道真の死後、都では異常な出来事が相次ぐ。飢饉や干ばつ、道真の左遷にかかわった人々が次々と謎の死を遂げる。延長8年(930年)6月26日。重要な朝議が行なわれていた宮中の清涼殿に落雷し、3ケ月後、醍醐天皇は崩御。このようなことが重なり、朝廷では道真の左遷を撤回する決議がされた。死後20年目の名誉回復、正二位、左大臣についで太政大臣の位が道真に贈られる。947年、京都に道真を祀る北野天満宮が建立される。

マニエリスム

ミケランジェロに代表される盛期ルネサンス時代に、芸術は頂点を極め今や完成されたと考えられた。ミケランジェロの弟子ヴァザーリは、ミケランジェロの「手法(マニエラ maniera)」を高度の芸術的手法と考え、マニエラを知らない過去の作家より優れていると説いた。

ヴァザーリは普遍的な美の存在を前提とし、「最も美しいものを繋ぎ合わせて可能な限りの美を備えた一つの人体を作る様式」として、「美しい様式(ベルラ・マニエラ)」と定義づけた。1520年頃から中部イタリアでは、巨匠たちの様式の模倣が目的である芸術が出現し「マニエラ」は芸術作品の主題となる。

その結果、盛期ルネサンス様式の再解釈が行われ、盛期ルネサンス様式は極端な強調、歪曲が行われるようになった。一方で、古典主義には入れられなかった不合理な諸原理を表現する傾向も表れるようになる。

16世紀中頃からのマニエリスム期にはミケランジェロの「マニエラ」を変形させて用いた作品が特徴的 となる。20世紀になって、マニエリスムも独立した表現形態であり、抽象的な表現に見るべきものがある、と再評価されるようになる。1956年にオランダのアムステルダムで催された『ヨーロッパ・マニエリスムの勝利』である。

ルネサンス期のイタリア絵画

ルネサンスは、黎明期(1300年 – 1400年)、初期(1400年 – 1475年)、盛期(1475年 – 1525年)、後期のマニエリスム期(1525年 – 1600年)に大別できる。

イタリアでのルネサンス絵画の黎明期はジョット(1267年頃 – 1337年)に始まる。ジョルジョ・ヴァザーリの著書『画家・彫刻家・建築家列伝』によると、フィレンツェ北部出身の羊飼いの少年で、チマブーエに弟子入りし、それまでの伝統的絵画表現の因習にとらわれず、写実的な作品を描き、当時主流のビザンティン絵画とは異なり三次元的に描写した。

描く人物の表情には、喜び、怒り、失望、恥じらい、悪意、愛などが表現、描写されて当時の他の画家の作品とは異なる。盛期ルネサンスでは著名な画家は特定の宮廷、都市と強く結びつくこともあったが、多くの画家はイタリア中を訪れ外交特使の役目を担い芸術と哲学の伝播に重要な役割を果たす。メディチ家による銀行の創設により、貿易の隆盛でフィレンツェに莫大な富をもたらすことになる。

それまで芸術家の重要なパトロンは教会や君主だったが、メディチ家当主コジモ・デ・メディチが新たな芸術パトロン像を確立する。

メディチ家の他には、サセッティ家、ルッチェライ家、トルナブオーニ家など、メディチ家と関係の深い一族が知られる。

マニエリスム期の重要な画家としては、アンドレア・デル・サルト、ポントルモ、ティントレットらである。

ルネサンス期に描かれた絵画作品は、ローマ・カトリック教会からの依頼で制作されたものが多い。

他にも、ルネサンス全期を通し、都市国家からの絵画制作依頼も重要で、公的な建造物の内装はフレスコ画などの美術品で装飾された。

当時の風俗、暮らしぶりを描いた絵画作品もあり、何らかの寓意を意味する作品や、純粋に装飾用に描かれた作品などがある。