かつて、二条大路は朱雀大路が廃れた後は、都一の大路で、足利尊氏から義満まで3代の将軍が二条に屋敷を構えた。室町時代には、平安京の左京にあった唯一の城で、右京には、「西院城」があり、二条城と西院城を平安京の両城ともいう。
二条城は京都市街の中にある平城で、足利氏、織田氏、豊臣氏、徳川氏によるものがある。現在見られるものは徳川家康によって創建された。幕府は二条城と呼んだが、朝廷は二条亭と呼んだ。城内全体が国の史跡に指定されていて、二の丸御殿(6棟)が国宝に、22棟の建造物と二の丸御殿の障壁画計1016面が重要文化財に指定され、二の丸御殿庭園は特別名勝に指定されている。1994年(平成6年)に、ユネスコの世界遺産(世界文化遺産)に「古都京都の文化財」として登録される。
日本の歴史書における複数の「二条城」
1,室町幕府13代将軍足利義輝の居城を「二条御所武衛陣の御構え」
2.室町幕府15代将軍足利義昭の居城として、織田信長によって作られた城は、二条通からは遠く離れていたが、平安京条坊制の「二条」に城域の南部分がわずかに含まれるので、義輝の「二条御所」とともに「二条」の名を冠して呼ばれる
3.織田信長が京に滞在中の宿所として整備し、後に皇太子に献上した邸である「二条新御所」は、二条通にも面さず条坊制の二条にも属していないが、二条家の屋敷跡に設けられたためこの呼称が使われる
4.徳川家康が京に滞在中の宿所として造った城が、現存する二条城である。家康がこの地を選んだ理由としては、この地が比較的人家がまばらであったこと、信長の二条新御所と秀吉の妙顕寺城が並ぶ東西のラインと秀吉の聚楽第から真南に延ばしたラインの交差する場所、であったという説があり、堀川西域に立ち御所に向けて門を開けていた聚楽第を意識していたことが伺われる。
万延元年(1860年)
京都地震で、御殿や各御門、櫓などが傾くなど、大きな被害を受ける
文久2年(1862年)
14代将軍徳川家茂の上洛にそなえ二条城の改修が行われる
二の丸御殿は全面的に修復し、本丸には仮御殿が建てられた
文久3年(1863年)3月
家茂は朝廷の要請に応えて上洛をする
慶応元年(1865年)
家茂は再度上洛し二条城に入るが、すぐに第二次長州征伐の指揮を執るため大坂城へ移るも、病に倒れ、翌慶応2年に死去する
慶応2年(1866年)
幕閣によって次の将軍は一橋慶喜と決定されるが、慶喜は就任を拒絶。幕府関係者のみならず朝廷からの度重なる説得の末、12月に二条城において15代将軍拝命の宣旨を受ける
慶応3年(1867年)9月
慶喜が宿所を若狭小浜藩邸から二条城に移す
10月には大政奉還、将軍職返上
12月には朝廷より辞官納地命令が二条城に伝達される
軍事衝突を避けるため、慶喜は二条城から兵を連れて大坂城へ向かう
慶応4年(1868年)1月
朝廷(新政府)の命を受けた議定・徳川慶勝に引き渡され、太政官代が設置