北野天満宮

菅原道真は893年参議、左大弁に至り、中央政界に強い影響力を持つに至る。894年遣唐大使に任じられるが、道真は遣唐使の廃止を訴える。宇多天皇は信頼する道真の進言を受け入れ、ここに260年あまり続いた遣唐使が廃止された。897年宇多天皇は上皇という自由な立場から藤原氏をけん制するため13歳の醍醐天皇に譲位し上皇となる。

899年藤原時平が左大臣に、道真が右大臣に任じられる。
菅原道真は吉備真備につぐ学者出身の大臣となる。

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「藤原氏でも無い者が大臣の位につくなど、ありえぬ。このままでは藤原氏を越して太政大臣にもなりかねない…」と、藤原時平は醍醐天皇に道真を讒言する。

901年1月25日に大宰権帥に左遷された菅原道真公一行は古船で海路を通り、55日間程度かかり太宰府に着く。

子供連れで家財道具を運ぶなら海路を選ぶのが妥当で、道真公が廃止した遣唐使とほぼ同じような航路となっているのは、風向きや海流、同程度の舟と航海技術による。

都から遠く離れた大宰府、浄妙院(榎寺)に謹慎すること二年。
延喜3年(903年)2月25日菅原道真は失意のうちに没した。

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道真の死後、都では異常な出来事が相次ぐ。飢饉や干ばつ、道真の左遷にかかわった人々が次々と謎の死を遂げる。延長8年(930年)6月26日。重要な朝議が行なわれていた宮中の清涼殿に落雷し、3ケ月後、醍醐天皇は崩御。このようなことが重なり、朝廷では道真の左遷を撤回する決議がされた。死後20年目の名誉回復、正二位、左大臣についで太政大臣の位が道真に贈られる。947年、京都に道真を祀る北野天満宮が建立される。

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