八島太郎 (日本とアメリカで活躍した日本人画家、絵本作家)

八島太郎(1908-1994)本名、岩松惇は、日本とアメリカで活躍した日本人画家で、絵本作家でもある。

鹿児島県立第二鹿児島中学校から東京美術学校に進むが、軍事教練をボイコットしたため退学処分を受ける。その後、日本でイラストレーター・漫画で成功するが、日本の軍国主義に反対したため10回に渡り投獄される。

友人であった作家小林多喜二が特高の拷問で死亡した際には、多喜二の死に顔をスケッチする。その後、1939年、芸術を学ぶためニューヨークに渡る。

世界遺産 ・リスボンのジェロニモス修道院とベレンの塔(ポルトガル)

リスボンのジェロニモス修道院とベレンの塔は、16世紀ポルトガルで栄えたマヌエル様式の代表的傑作で、かつての大航海時代とポルトガル海上帝国の栄華の記憶をとどめ、ポルトガルで最初に登録された世界遺産である。その壮麗さは、大航海時代に貿易による巨富を手にしたポルトガルの繁栄ぶりを伝える。付近のモニュメント(1960年)は世界遺産関連文献で一緒に触れられることがしばしばあるが、世界遺産登録対象ではなく、インペリオ広場、ベレン文化センターなどとともに、緩衝地域に含まれている。

ジェロニモス修道院(Monastery of the Hieronymites)
登録面積は2.57 ha、緩衝地域 51.5 ha である。ボイタクに建設を命じたポルトガル王マヌエル1世の目的は、エンリケ航海王子の業績を称揚する意図などが込められていた。ボイタクが指揮を執ったのは1516年までで、それを引き継いだのはジョアン・デ・カスティーリョである。繊細な彫刻に飾られた回廊や、彫像で飾られた南門柱廊を備えた修道院付属のサンタ・マリア聖堂などの評価が高い。

ベレンの塔(Tower of Belem)世界遺産登録面積は 0.09 ha、緩衝地域は 51.5 ha である。正式名は「サン・ヴィセンテの塔」で、建造は1515年から1521年、指揮したのはフランシスコ・デ・アルダであった。ジェロニモス修道院と同じく、建設を命じたのはマヌエル1世である。ヴァスコ・ダ・ガマの業績をたたえる目的をこめた灯台だが、テージョ川河口を見張る要塞としての機能も備えていた。当時のリスボンでは、英国やオランダの海賊に対する備えが必要だったのである。1755年にリスボンを襲った大地震では多くの建物が被災したが、ジェロニモス修道院とベレンの塔があるベレン地区は難を逃れ、さして損壊を被らなかった。ただし、その地震で川の流れが変わったことで、ベレンの塔は中洲から川岸へと、位置関係を変えた。航海に関する事物をモチーフとした装飾があしらわれたマヌエル様式建築の傑作のひとつで、作家司馬遼太郎はその優雅さを「テージョ川の貴婦人」と評した。

現代フランス絵画の巨匠・ポール アイズピリ(Paul Aizpiri)

ポール・アイズピリ(Paul AÏZPIRI、享年96歳)、2016年1月22日老衰のため逝去。葬儀は1月26日午後3時よりNotre Dame des Champs(ノートルダム・デ・シャン)にて執り行われた。

アイズピリは1919 年パリに生まれる。父親はバスク人の血をひく彫刻家で、息子を象嵌学校に入学させるが、アイズピリは画家になる夢を捨てきれず、1936 年にパリ国立美術学校に再入学する。1943 年パリで初個展を開催し、具象画家として実績を積み重ねる。

1945 年サロン・ドートンヌ会員となり、1946 年にはパリの新人画家の登竜門として名高い、権威ある「青年絵画展」で受賞。1951 年ベニスのビエンナーレでナショナル大賞を受賞し、フランス画壇に確固たる地位を築き、名声を高め現在に至る。

日本では、1963年の第2回国際形象展に初出品、以後は毎回同展に出品。作品は、フランスではパリ市立美術館をはじめとする美術館、そしてベルギー、オランダなど欧米各地の美術館に所蔵され、日本では山形美術館(山形)、ニューオータニ美術館(東京)、なかた美術館(別称:アイズピリ美術館、尾道)など、有数の美術館に蒐集されている。人々の目を楽しませるパブリックスペースにも作品を収め、ホテル二ューオータニ東京のメインバーの壁面を彩る7部作の油彩『カプリ島シリーズ』、ホテルニューオータニ博多のロビーを飾る全長12メートルの巨大フレスコ画『博多の祭り(博多どんたく)』などが有名。

世界遺産 ワルシャワ歴史地区(ポーランド)

ワルシャワ歴史地区は第二次世界大戦後に再建された歴史地区で、ヴィスワ川沿いのWybrzeże Gdańskie通り、およびGrodzka通り、Mostowa通り、Podwale通りに沿って位置するワルシャワ市の最も古い地区である。

エリアの中心は旧市街マーケットプレイスで、レストラン、カフェ、商店があり、通りを囲むように再現された中世の建造物がある。

世界遺産登録の際、破壊からの「復元文化財」は登録に値しないという理由から登録が危ぶまれたが、世界遺産登録の中心となったワルシャワ工科大学の関係者は「復元されたからこそ登録に値する。もしワルシャワ市街が破壊と復興の歴史がなく、残っていなければ登録しようとも思わない」と説得し、「ワルシャワ旧市街」は「破壊からの復元および維持への人々の営み」が評価された最初の世界遺産となった。

ワルシャワの旧市街は13世紀に建設され当初は土塁で囲まれていたが、1339年までに煉瓦の城壁による城郭都市とされた。

市街はマゾフシェ公の城の周りで独自に発展する。
市場広場 (Rynek Starego Miasta) は13世紀末から14世紀初頭には、城とワルシャワ新市街(Warsaw New Town)をつなげる、北へのびる主要な通り沿いに建設された。
1701年には広場がドイツ人のドイツのティルマンによって再建された。

19世紀以来、市場広場の四隅は、それぞれの角にかつて住んだ特筆すべきポーランド人の名前で呼ばれ、南側がIgnacy Zakrzewskiであり、西側がHugo Kołłątajであり、北側がJan Dekertであり、そして東側がFranciszek Barssである。

19世紀のワルシャワの急速な成長の時期、旧市街は、商業および行政の重要な中心としての地位を失った。旧市街の殆どは無視され、ワルシャワっ子のうちでも貧困層が集まるようになった。第一次世界大戦後ポーランドが独立を得るまでは、地方当局はこの町のこの地区のために注意を払うことをしようとしなかった。

1918年にワルシャワ王宮(Royal Castle, Warsaw)は再びポーランドの最上級の権威者、すなわちポーランド大統領やその首相の執務地になった。

1930年代後半、Stefan Starzyńskiの市政下、市当局は旧市街の一新を開始し、かつての栄光を復元しようとした。城楼と旧市街のマーケット・プレイスは部分的に修復された。しかし、これらの努力は 第二次世界大戦の勃発によって終わりへと追い込まれた。

ポーランド侵攻の間、旧市街地区の殆どがドイツ空軍によってひどいダメージを受けた。ドイツ空軍は、恐怖爆撃の際、街の王宮地区および歴史的ランドマークを標的に絞った。ワルシャワの戦いの後、旧市街の一部が再建されたが、1944年の8月から10月までのワルシャワ蜂起ののち再び、ドイツ陸軍によって計画的に爆破された。暴動を記念する彫像”the Little Insurgent” は現在旧市街の中世の城壁に建設されている。

第二次世界大戦の後、廃墟と化した旧市街は再びポーランド人自身によって厳密に再建された。もともとの建物に使用された煉瓦はできるだけ再利用された。破片はふるいにかけられ、再利用できる要素はもともとあった場所に再度挿入された。ベルナルド・ベッロットの18世紀のヴェドゥータ(都市風景画)は、戦間期に建築学科の生徒が描いた写生と同様、再建努力の根本的なよりどころとして使用された。

1971年まで爆破後の廃墟のままの姿であった王宮は、1970年代前半に再建が開始され、ワルシャワの戦いの最中に隠されていた美術品や装飾が再び配置され、1970年代半ばより国立博物館の一部や祭典会場として使われるようになった。

弦楽四重奏「皇帝」(ハイドン) 〜 世界遺産 ワルシャワ歴史地区(ポーランド)

ルアンパバーン郡・ラオス北部に位置する古都

ルアンパバーン郡、Luang Phabang(Luang Prabang) は、ラオス北部に位置する古都で、タイ語からのローマ字表記が使われていたため、ルアンプラバンあるいはルアンプラバーンとも表記されることがある。

ラオスの首都ビエンチャンからメコン川を約 400 キロメートル上流にさかのぼったカーン川との合流場所に位置し、人口は約 60,000 人。1995年に市街地自体が文化遺産としてユネスコの世界遺産(ルアン・パバンの町)に登録される。

歴史的建造物として、1560年にセーターティラート王によって建てられたワット・シエントーン、1513年に建立されたラオス最古の寺ワット・ウィスナラート、町を一望できるプーシーの丘には1804年にアヌルット王によって建立されたタート・チョムシーと呼ばれる仏塔などがある。町の中心部に位置する旧王宮は、ルアンパバーン国立博物館として利用されている。

略史

古くは「ムアン・スワー(英語版)」と呼ばれた

698年、ムアン・タンに攻められ、初代クーン・ロー王がスワー候国を建国。

11世紀頃よりタイ名「シエンドーンシエントーン と呼ばれる。

1353年にラーンサーン王国の初代ファー・グム王によって首都とされ、ラーンサーン王国の中心として栄え、この時、パバーン仏が贈られた。

1479年8月にベトナム後黎朝の黎聖宗がラーンサーン王国へ親征し、5方向から軍を進め、王都ルアンパバーンを破壊、現在のジャール平原にあたる地域に鎮寧府を設置し、7県を置いて統治する。

1548年にラーンナー王国のセーターティラート王がラーンサーン王国の王にもなり、1551年にエメラルド仏を首都へ運ぶ。

1560年にセーターティラート王がヴィエンチャンに遷都し、シエンドーンシエントーンは「ルアンパバーン」に改称された。パバーン仏とエメラルド仏もヴィエンチャンに移される。

1707年からルアンパバーン王国の首都として栄える。

1777年にトンブリー王朝がヴィエンチャンに侵攻し、シャムの属領とされ、パバーン仏とエメラルド仏を略奪してバンコクへ持ち帰る。

1782年にチャクリー王朝がパバーン仏のみを返還する。

1828年に再びシャムが侵攻して来て、パバーン仏を略奪してバンコクへ持ち帰る。

1867年にパバーン仏が返還される。

1885年にフランスがルアンパバーンに副領事館を開設。

1887年に黒旗軍により壊滅的な打撃を受け、それをきっかけにルアンパバーン王国はフランスの保護を受け入れる。

1905年にフランスによるルアンパバーン王国再編。

1945年3月9日、日本によるラオス進駐が開始される。

1945年8月15日、日本の武装解除を求めた中華民国のラオス進駐開始。

1946年5月13日、フランスがルアンパバーンを占領。

1975年のパテート・ラオによる共産主義革命が起こるまで王宮が置かれ、首都として機能する。

主な観光地

王宮博物館
当時の調度品、贈答品、国のシンボルであるパバーンが保存される。

サッカリン通り
寺院が集中し、早朝には僧侶による托鉢が見られる。

ワット・シェントーン
ルアンパバーンのシンボルにもなっている寺院で16世紀建立。

ワット・マイ
王宮博物館に隣接する大きな寺院。

プーシーの丘
王宮博物館の向かいの小高い丘、300段以上の階段を登りつめれば小さな寺院があり、タート・チョムシーと呼ばれる金色に輝く仏塔が建つ。夜間はライトアップされ、小さな丘の頂上からは町が360度一望できる。

バーン・サーンハイ
メコン川沿いの酒造りの村、壷造りでも有名。

パークウー洞窟
メコン川を27kmほど遡行したところにある洞窟で、約4000体もの新旧入り交ざった仏像が安置される。

クアンシーの滝
市内から約30kmメコン川の下流側にある美しい滝。

ナイトバザール
シーサワンウォン通り入り口付近に毎日18時頃から22時頃開催される市で、飲食の屋台のほか、観光客向けのみやげ物などが多い。

クエンティン・マセイス (初期ネーデルラントの画家)

クエンティン・マサイス(蘭: Quentin Massys、1465/66年 – 1530年)はフランドルの画家で、生涯を通じて、主に宗教画、風俗画、肖像画等を多く描き、作風はイタリア・ルネサンスと北方ルネサンスとの融合といえる。

1465年あるいは1466年にルーヴェンで生まれるが、1507年に完全に独立した画家となるまでのマサイスの経歴には不明な点が多い。1491年にアントワープに移り同地の画家組合に親方として登録し大画家としての名声を得る。

宗教改革を経た16世紀ヨーロッパでは、教会の注文が減少する一方で、市井の名もない人々の日常生活を描く世俗的な主題の絵画の需要が増大した。マサイスの風俗画には道徳教訓的な内容がしばしば見られる。人間の不徳、生命の儚さの告発で、マサイスは絵画史におけるこのジャンルの開拓者とみなされる。

代表作『聖なる親族祭壇画』(1507年-1509年)ブリュッセル王立美術館『キリストの哀悼の祭壇画』(1480年-1511年)アンドウェルペン王立美術館『醜女の肖像』(1513年頃)ナショナル・ギャラリー(ロンドン)『聖母子と子羊』(1513年頃)ポズナン国立美術館(英語版) – ダ・ヴィンチの影響が見られる『両替商とその妻』(1514)ルーヴル美術館『エラスムスの肖像』(1517年)バルベリーニ美術館『ペトルス・アエギディウスの肖像』(1517年以降)ロング・フォード(アイルランド)、ラドノール・コレクション『不釣り合いなカップル』(1520年代)ナショナル・ギャラリー(ワシントン)

名所江戸百景

広重最晩年、死の直前まで制作が続けられた代表作で、最終的に完成せず、二代広重の補筆が加わって、「一立斎広重 一世一代 江戸百景」として刊行される。版元は魚屋栄吉。

江戸末期の名所図会の集大成で、幕末から明治にかけての図案家梅素亭玄魚の目録1枚と、118枚の図絵から成る。何気ない江戸の風景を、近景と遠景の極端な切り取り方、俯瞰、鳥瞰などを駆使した視点、ズームアップを多岐にわたって取り入れる。

多版刷りの技術も工夫を重ね、風景浮世絵としての完成度は随一ともいわれている。江戸の人々を魅了し当時のベストセラーとなり、どの絵も1万から1万5千部の後摺りを要したほどと云う。

江戸は安政2年(1854年)の安政の大地震で被害を受け、この名所江戸百景は、災害からの復興を祈念した世直しも意図もあったと云う。ゴッホは「大はしあたけの夕立」や「亀戸梅屋舗」を模写し、ホイッスラーは「京橋竹河岸」に触発され『青と金のノクターン-オールド・バターシー・ブリッジ』を描いた。日本的、「ジャポニスム」の代表作として西洋の画家に多大な影響を与えたシリーズでもある。