世界遺産 ワルシャワ歴史地区(ポーランド)

ワルシャワ歴史地区は第二次世界大戦後に再建された歴史地区で、ヴィスワ川沿いのWybrzeże Gdańskie通り、およびGrodzka通り、Mostowa通り、Podwale通りに沿って位置するワルシャワ市の最も古い地区である。

エリアの中心は旧市街マーケットプレイスで、レストラン、カフェ、商店があり、通りを囲むように再現された中世の建造物がある。

世界遺産登録の際、破壊からの「復元文化財」は登録に値しないという理由から登録が危ぶまれたが、世界遺産登録の中心となったワルシャワ工科大学の関係者は「復元されたからこそ登録に値する。もしワルシャワ市街が破壊と復興の歴史がなく、残っていなければ登録しようとも思わない」と説得し、「ワルシャワ旧市街」は「破壊からの復元および維持への人々の営み」が評価された最初の世界遺産となった。

ワルシャワの旧市街は13世紀に建設され当初は土塁で囲まれていたが、1339年までに煉瓦の城壁による城郭都市とされた。

市街はマゾフシェ公の城の周りで独自に発展する。
市場広場 (Rynek Starego Miasta) は13世紀末から14世紀初頭には、城とワルシャワ新市街(Warsaw New Town)をつなげる、北へのびる主要な通り沿いに建設された。
1701年には広場がドイツ人のドイツのティルマンによって再建された。

19世紀以来、市場広場の四隅は、それぞれの角にかつて住んだ特筆すべきポーランド人の名前で呼ばれ、南側がIgnacy Zakrzewskiであり、西側がHugo Kołłątajであり、北側がJan Dekertであり、そして東側がFranciszek Barssである。

19世紀のワルシャワの急速な成長の時期、旧市街は、商業および行政の重要な中心としての地位を失った。旧市街の殆どは無視され、ワルシャワっ子のうちでも貧困層が集まるようになった。第一次世界大戦後ポーランドが独立を得るまでは、地方当局はこの町のこの地区のために注意を払うことをしようとしなかった。

1918年にワルシャワ王宮(Royal Castle, Warsaw)は再びポーランドの最上級の権威者、すなわちポーランド大統領やその首相の執務地になった。

1930年代後半、Stefan Starzyńskiの市政下、市当局は旧市街の一新を開始し、かつての栄光を復元しようとした。城楼と旧市街のマーケット・プレイスは部分的に修復された。しかし、これらの努力は 第二次世界大戦の勃発によって終わりへと追い込まれた。

ポーランド侵攻の間、旧市街地区の殆どがドイツ空軍によってひどいダメージを受けた。ドイツ空軍は、恐怖爆撃の際、街の王宮地区および歴史的ランドマークを標的に絞った。ワルシャワの戦いの後、旧市街の一部が再建されたが、1944年の8月から10月までのワルシャワ蜂起ののち再び、ドイツ陸軍によって計画的に爆破された。暴動を記念する彫像”the Little Insurgent” は現在旧市街の中世の城壁に建設されている。

第二次世界大戦の後、廃墟と化した旧市街は再びポーランド人自身によって厳密に再建された。もともとの建物に使用された煉瓦はできるだけ再利用された。破片はふるいにかけられ、再利用できる要素はもともとあった場所に再度挿入された。ベルナルド・ベッロットの18世紀のヴェドゥータ(都市風景画)は、戦間期に建築学科の生徒が描いた写生と同様、再建努力の根本的なよりどころとして使用された。

1971年まで爆破後の廃墟のままの姿であった王宮は、1970年代前半に再建が開始され、ワルシャワの戦いの最中に隠されていた美術品や装飾が再び配置され、1970年代半ばより国立博物館の一部や祭典会場として使われるようになった。

弦楽四重奏「皇帝」(ハイドン) 〜 世界遺産 ワルシャワ歴史地区(ポーランド)

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