平均律クラヴィーア曲集(ヨハン・ゼバスティアン・バッハ)BWV 846 前奏曲

平均律クラヴィーア曲集(原題:独: Das Wohltemperirte Clavier、現代のドイツ語表記では独: Das Wohltemperierte Klavier)は、ヨハン・ゼバスティアン・バッハが作曲した鍵盤楽器のための作品集。
1巻と2巻があり、それぞれ24の全ての調による前奏曲とフーガで構成されている。
第1巻 (BWV 846〜869) は1722年、第2巻 (BWV 870〜893) は1742年に完成した。

原題の”wohltemperierte”は、鍵盤楽器があらゆる調で演奏可能となるよう「良く調整された(well-tempered)」という意味であり、広い意味で転調自由な音律を指す。しかし和訳ではいまだに「平均律」が用いられている。鍵盤楽器奏者の武久源造は、2019年に自らの全曲CDをリリースした際、従来誤訳ではないかとして議論されてきた《平均律》を《適正律》と改め、「適正律クラヴィーア曲集」とした。

バッハは第1巻の自筆譜表紙に、流麗な渦巻き模様の装飾を施し、その下に次のように記した:
指導を求めて止まぬ音楽青年の利用と実用のため、又同様に既に今迄この研究を行ってきた人々に特別な娯楽として役立つために(徳永隆男訳)

第2巻には「24の前奏曲とフーガ」とだけ記した。
調律を変更せずに、あらゆる調で演奏可能な音律として、当時鍵盤楽器では平均律よりもむしろ様々な不等分音律が開発・提唱されていた。バッハが意図した音律については諸説あり、20世紀の研究ではヴェルクマイスターの調律法などがそれに当たると比定されていたが、1999年ドイツの数学者アンドレアス・シュパルシューによって、バッハが曲集第1巻自筆譜表紙に、渦巻装飾を通じて音律と調律法に対する指示を出していたという説が提出されて以来、アメリカのチェンバロ奏者ブラッドリー・レーマンや著名なクラヴサン製作者でパリ音楽院の古楽学教授のエミール・ジョバンらがさらなる研究を発表している。

バッハ以前にも何人かの作曲家が多くの長短調を駆使した作曲を試みている。中でもヨハン・カスパール・フェルディナント・フィッシャーの「アリアドネ・ムジカ」は、20の調による前奏曲とフーガを含んでいる。

またバッハが第1巻を記した1722年に、ドレスデン近郊のオルガン奏者フリードリヒ・ズーピヒが31平均律の鍵盤楽器を用いて24の調すべてに転調する長大な「ラビュリントス・ムジクスのファンタジア」を作曲し、ヨハン・マッテゾンがドイツ最初の音楽批評誌である「音楽批評(Critica musica,1722)」でズーピヒの作品を紹介していること、またズーピヒの論文「カルキュルス・ムジクス」の表紙にはバッハの第1巻の表紙とよく似た手書きの渦巻き模様が描かれていることから、ジョン・チャールズ・フランシスをはじめとする研究者たちはバッハがこれらにヒントを得て、息子たちの教育用に書き溜めていた曲を中核として第1巻を完成させ、翌1723年にライプツィヒの聖トーマス教会カントルへの就職試験に提出したと考えている。

逆に、フレデリック・ショパンの「24の前奏曲」や、ショスタコーヴィチの「24の前奏曲とフーガ」は、バッハの曲集から直接に触発されたものである。

バッハのこの曲集は、現代においてもピアノ演奏を学ぶものにとって最も重要な曲集の一つである。ピアニスト・指揮者のハンス・フォン・ビューローは、この曲集とルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンのピアノソナタを、それぞれ「ピアノの旧約聖書と新約聖書」と呼び、賛賞した。

第2巻の『前奏曲とフーガ ハ長調 BWV870』のグレン・グールドによる演奏の録音は、人類を代表する文化的作品の一つとして、ボイジャーのゴールデンレコードに収録されている。

第1巻(Erster Teil, BWV 846〜869)

長短24調による前奏曲(Preludium)とフーガ(Fuga)からなる曲集。1722年成立。

単独に作曲された曲集ではなく、その多くは既存の前奏曲やフーガを編曲して集成されたものである。特に前奏曲の約半数は、1720年に息子の教育用として書き始められた「ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハのためのクラヴィーア小曲集」に初期稿が「プレアンブルム」として含まれている。

様々な様式のフーガが見られ、中でも3重フーガ(嬰ハ短調 BWV849)や拡大・縮小フーガ(嬰ニ短調 BWV853)は高度な対位法を駆使した傑作とされる。

  1. BWV 846 前奏曲 – 4声のフーガ ハ長調(Präludium und Fuge C-Dur BWV 846)
    前奏曲はシャルル・グノーがアヴェ・マリアの伴奏として用いた。

サルヴァドール(Salvador)

Prelude No. 5 (Villa-Lobos)

Prelude No. 5 is a guitar piece written by Brazilian composer Heitor Villa-Lobos.
The piece is subtitled “Homenagem à vida social” (Homage to Social Life), is in the key of D major, marked “Poco animato”, and is the second of the Five Preludes, written in 1940. The others are in E minor, E major, A minor, and E minor. It was first performed, together with its four companions, by Abel Carlevaro in Montevideo on 11 December 1943.

キューバの世界遺産「オールド・ハバナ」にあるハバナ大聖堂

バリオスの「大聖堂」

アグスティン・バリオス・マンゴレ(パラグアイ1885-1944エルサルバドル)。
パラグアイが生んだ最高のクラシック・ギタリスト兼作曲家と言われています。
1970年代、幅広い活動で著名なギタリスト、ジョン・ウィリアムスの演奏により、世界的に知られるようになりました。
1976年頃にロンドンで録音されたウィリアムスのオール・バリオスによるリサイタルLPが決定的な役割を果たしたと言われています。

パラグアイは南米の中央よりちょっと南、ブラジルとアルゼンチン、ボリビアにはさまれています。

「大聖堂」はバリオスの代表的なソロ・ギター作品でクラシック・ギターの最重要レパートリーのひとつとも言われ、
(1)プレルディオ(2)アンダンテ(3)アレグロの三楽章から成ります。
アンダンテとアレグロはウルグアイのモンテビデオの大聖堂で着想(オルガンでバッハが演奏されていたという)し、1921年に作曲。

プレルディオはキューバのハバナの大聖堂で着想し1938年に作曲。

アンダンテは大聖堂に集まった信徒たちの祈りの念、アレグロは祈りを終えて外の通りへ出て行く人々の感動の余韻をとどめた足取りを表現。
プレルディオ(プレリュード)は前奏曲の意でサウダーデ(郷愁)の副題を持ちます。

アイルランド ダブリン > ベルファスト > ジャイアンツコーズウェイ

Geminiさんに尋ねてみました

ゲイリームーアのSpanish Guitar を演奏した音源を入れて、映像動画を作りたいのです、北アイルランドの都市、自然を入れるとすると、対象は何が良いでしょうか

Geminiさんの回答は

ゲイリームーアの「Spanish Guitar」を題材にした映像制作ですね!

北アイルランドの美しい風景を取り入れるとのこと、素晴らしいアイデアです。

北アイルランドの都市・自然の選定について、いくつか提案させていただきます。

都市

* ベルファスト: 北アイルランド最大の都市で、歴史的な建物や活気ある街並みが魅力です。タイタニック・ベルファストなど、観光スポットも豊富です。

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* ダーリー: 北アイルランド北海岸の美しい町。ギネスの本社があることでも知られています。

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(ダーリーから近いジャイアンツ・コーズウェイは、世界遺産にも登録された壮大な自然景観です。)

自然

* ジャイアンツ・コーズウェイ: 玄武岩の柱が規則正しく並ぶ、世界遺産にも登録された自然の造形美。

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* カラントージー湖: 北アイルランド最大の湖。美しい湖水と周囲の山々が織りなす風景は、まさに絶景です。

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* ローン・パインズ森林公園: 広大な森林公園で、様々な種類の樹木や野生動物が生息しています。

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(ローン・パインズ森林公園を含むモーヌ山脈は、ハイキングやトレッキングに人気のスポットです。)映像のイメージ * 夕焼け: ゲイリームーアの哀愁漂うメロディと夕焼けの風景は、相性が良いでしょう。

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* 雨上がりの風景: しっとりとした雰囲気を出すために、雨上がりの風景もおすすめです。

* イメージ: * モノクロ: ノスタルジックな雰囲気を出すために、モノクロ映像も効果的です。

映像構成のアイデア

* 都市の風景から自然へ: ベルファストのような都市の風景から、徐々に自然へと移り変わる様子を映し出すことで、曲の雰囲気を表現できます。

* 自然のダイナミックな変化: ジャイアンツ・コーズウェイの波打ち際やカラントージー湖の波紋など、自然のダイナミックな変化を捉えることで、視覚的な面白さを加えられます。

* 演奏シーンの挿入: ギター演奏のシーンを、自然の風景と重ね合わせることで、音楽と映像の一体感を高められます。

その他

* 季節: 季節によって、全く異なる表情を見せる北アイルランド。どの季節の風景をメインにするかによっても、映像の雰囲気が変わります。

* 時間帯:

夕焼け、夜、朝など、時間帯によっても雰囲気が大きく変わります。

* カメラワーク:

ドローンを使った空撮や、手持ちカメラによる臨場感あふれる映像など、様々なカメラワークを試してみるのも良いでしょう。

これらの要素を組み合わせることで、オリジナリティあふれる映像作品を作り上げることができます。

さらに、以下のような点も考慮してみてください。

* 楽曲のどの部分を映像で表現したいか: ソロパート、サビ、イントロなど、楽曲のどの部分を映像のメインにしたいかを明確にすることで、映像構成がスムーズになります。

* 映像の雰囲気: 落ち着いた雰囲気、躍動感あふれる雰囲気など、どのような雰囲気の映像にしたいかをイメージすることが大切です。

ぜひ、これらのアイデアを参考に、あなただけのオリジナルな映像作品を作成してください。

もし、具体的な映像のイメージが固まったら、再度ご相談いただければ、より詳細なアドバイスをさせていただきます。(注:上記はあくまで一例です。あなたの感性やアイデアを大切に、自由に映像制作を楽しんでください。)

何か他に知りたいことがあれば、お気軽にご質問ください。

ですって、数秒でこの回答、

1382文字原稿用紙なら3枚とちょいかな

Geminiさんって、スゴイね w

オリエント急行

1872年、ベルギーの銀行家の息子であるジョルジュ・ナゲルマケールスは国際寝台車会社を設立した。彼は1868年にアメリカを旅行し、アメリカのプルマン社の寝台車に感銘を受け、ヨーロッパでの寝台車会社の設立を思い立った。アメリカ人の大富豪、ウィリアム・ダルトン・マンもこの会社の設立を支援し、当時大陸ヨーロッパに進出しようとしていたプルマン社との参入競争を繰り広げていた。

西ヨーロッパとオリエントを結ぶオリエント急行は同社の看板列車として計画されており、1880年代初めにはパリ・ウィーン間で食堂車や豪華寝台車の運行が始まっていた。

開通記念列車

オリエント急行の開通記念列車は1883年10月4日夜にパリ・ストラスブール駅(現・パリ東駅)を発車し、6日かけてコンスタンティノープル(イスタンブール)に到着した。なおオスマン帝国では首都の市名を「イスタンブール」と称していたが、西ヨーロッパでは旧名の「コンスタンティノープル」が使われており、「オリエント急行」の行き先も旧名で表記されていた。

経路はパリ(フランス) – シュトラスブルク(ドイツ帝国、現・ストラスブール) – ミュンヘン – ウィーン(オーストリア=ハンガリー帝国) – ブダペスト – オルソヴァ(ルーマニア王国) – ブカレスト – ジュルジュ – ルセ(ブルガリア公国) – ヴァルナ – コンスタンティノープル(オスマン帝国)である。ただしこのときにはコンスタンティノープルまでの線路は全通しておらず、国際寝台車会社の車両で運行されたのはジュルジュまでで、ドナウ川を船で渡り、ルセ – ヴァルナ間はイギリス資本のブルガリアの鉄道の通常の客車を利用、ヴァルナ – コンスタンティノープル間は汽船で黒海を渡った。

記念列車は寝台車2両、食堂車1両、荷物車(兼車掌車)2両の編成であった。寝台車と食堂車はボギー台車を使用しており、国際寝台車会社創業時の二軸車や三軸車からは大幅に乗り心地が向上していた。

記念列車には沿線各国の高官や鉄道関係者、ジャーナリストなどが招待されたほか、ナゲルマケールスをはじめとする国際寝台車会社の幹部も乗車した。途中ルーマニアでは国王カロル1世自ら離宮に招待するなど、沿線各国で歓迎を受けた。招待客の中にはアルザス出身でパリ在住の作家エドモン・アブー(en:Edmond François Valentin About)と、ロンドン・タイムズ紙のパリ支局長アンリ・ステファン・オペル・ドブラヴィッツ(en:Henri Blowitz)[6]が含まれており、新列車は彼らの筆により西ヨーロッパに紹介された。ドブラヴィッツはさらに到着地のイスタンブールでスルタンアブデュルハミト2世と西ヨーロッパのジャーナリストとしては初の単独会見に成功している。

ウズベキスタンの都市ブハラ

ブハラ

ブハラ(ウズベク語: Buxoro;ロシア語: Бухара́;タジク語: Бухоро)は、ウズベキスタンの都市で、ブハラ州の州都。

ザラフシャン川下流域に古代より栄えたオアシス都市で、1993年には、旧市街地がユネスコの世界遺産に登録されている。

人口は約28万人(2020年)。

都市名は、ソグド語では、pwγ’r/puχār と呼ばれていたようで、イスラーム時代以降、アミール国期までこの地域の伝統的な書写言語であった近世ペルシア語・チャガタイ語ではبُخارا (Bukhārā; ブハーラー)と表記される。

諸外国語による表記ではBukharaあるいはBokharaとされることが多く、古くは日本語でもボハラと書かれることがあった。

「ブハーラー」とは元来サンスクリット語で「僧院」を意味する Vihāra ないし Vihāraḥ に由来すると考えられている。

古代からサマルカンドと並ぶいわゆるソグディアナの中心都市であり、

イスラーム時代以降、特にサーマーン朝の首都となってからもイラン・中央アジアにおける最も重要な都市のひとつであった。

また近代でも20世紀の初頭までブハラ・アミール国(ブハラ・ハン国)の首都が置かれ、西トルキスタンにおける政治・文化の中心都市であった。

特にサーマーン朝にはじまる近世ペルシア語文学の発信源としてこの都市が残した足跡は大きい。また、シャイバーニー朝やジャーン朝においてはブハラの宮廷でペルシア語に加え、チャガタイ語文芸運動を隆盛させその中心都市としても発展した。

このような歴史背景から、現在は住民の大多数が民族籍上ウズベク人とされているものの、住民の間ではペルシア語系のタジク語が広く話され、タジク人としてのアイデンティティを有する者も数多く存在する複雑な民族構成をもつ。

日光江戸村

ダンスはうまく踊れない

「ダンスはうまく踊れない」は、シンガーソングライター・井上陽水作詞・作曲の楽曲である。

井上陽水の妻となる石川セリと付き合い始めの頃、気を引くために目の前で30分ほどで作ってプレゼントした曲。当初、井上もディレクターの前田一郎も「気まぐれ」のB面のつもりだったが、最終的には「ダンスはうまく踊れない」をA面として発売され、ヒットした。後年、高樹澪がカバーしリバイバル・ヒット。ほかにも日野美歌、中森明菜、徳永英明、稲葉浩志らがカバーしている。

ルンダーレ宮殿  ラトビア

ルンダーレ宮殿はラトビアで最も素晴らしいバロック-ロココ様式の記念建造物の一つです。1736−40年にビロン公の夏の宮殿として、ロシアの宮殿を手 掛けたラストレッリにより建てられました。彼の作品はヤルガヴァやサンクト・ペテルブルグでもご覧いただけます。宮殿全体は16の建物で構成され、その総面積は14249,2m2です。フランス式庭園(10ヘクタール)と森林公園(32ヘクタール)を含む全領土は85ヘクタールをカバーしています。

中央部分は公爵の営舎で、東側は黄金の広間、白の広間、グレート・ギャラリーなどを含む代表的な部分です。西側は公爵や支配者階級の家族の住居に使われています。

ルンダーレ宮殿の博物館はただ単に宮殿の維持管理をしているだけではなく、豊富なコレクションや絵画、応用美術を所有し、また様々な展示会で目にすること ができる重要なラトビアの教会芸術を保有しています。バロック時代の城はフランス庭園なしには考えられません。庭園は城の南側に広がり、城と一緒にデザイ ンされました。

博物館では「16世紀から18世紀にかけての応用芸術」「ゴシックからアールヌーボーまで」が常設展示されています。2007年にはルンダーレ城はヨーロッパの遺産に登録されました。

城の庭は緑の劇場を彷彿させ、パルテール庭園特有の池や噴水がレイアウトされている。2005年にはローズガーデンの造園が始まり、現在もおこなわれています。ローズガーデンの大きさは9,000平方メートルで、バラの種類はラトビアで最大のコレクションを誇ります。

パルテール庭園の周囲の空間は、東西の境界に沿って、昔から受け継がれている種のバラや、現代種、野バラなどで囲いがなされています。またガーデン ハウスやブルーローズガーデンの正面にもアレンジされています。バロック様式の庭には、ピクニックガーデンに小さなパビリオンがあるように様々な建造物が レイアウトされています。

ニューヨーク マンハッタン

マンハッタンの区間の全長は13 mi (21 km)、ブロンクスの区間は2 mi (3.2 km)、ウエストチェスターの区間は18 mi (29 km)である。ニューヨーク市にはブロードウェイという名前の通りが他にも4つあるので、混同しないように注意が必要である。ブルックリン区のブロードウェイ、クイーンズ区の2つのブロードウェイ(アストリアとエルムハーストを結ぶものと、ハミルトン・ビーチを走るもの)、およびスタテンアイランド区のブロードウェイである。

ニューヨーク市の全ての行政区にはブロードウェイという名の通りがあることになる。また、マンハッタン内にはイースト・ブロードウェイおよびウエスト・ブロードウェイという通りもある。歴史もとはマンハッタン島の低木・沼地・岩場の中を通る、アメリカ先住民の使っていた道 Wickquasgeck Trail (ウィクカスゲック・トレイル)であったが、マンハッタン南端にニューアムステルダム植民地を作ったオランダ人が農場への往還などに利用した。

オランダ人探検家・起業家 David de Vries が1642年に書いた記録には、「日頃インディアンたちが通る Wickquasgeck Road」という記述が見られる。オランダ人はこの道に Heerestraat と命名した。1776年のニューヨーク市の地図では、ブロードウェイは現在のように単にBroadwayではなく”Broadway Street”と記載されている。

18世紀半ば頃には、イギリス人はロウワー・マンハッタンの市街地を貫く部分にグレート・ジョージ・ストリート (“Great George Street”) と名付けていた。18世紀のブロードウェイはウォール街の少し北の現在のシティ・ホール・パークあたりの公園までで、その先はマンハッタン島の西部を走るブルーミングデール・ロード(Bloomingdale Road) と名付けられていた。ブルーミングデール・ロードは独立戦争の際には英軍に敗れた独立軍撤退の道となった。

農場や森が残っていたマンハッタン中央部や北部は次第に都市化されていったが、19世紀初頭の1811年委員会計画で、マンハッタン全体に格子状の街路を作るという都市計画が立てられた。以後、まだ都市化されていなかったマンハッタンエリアの従来の野道は格子状街路に置き換えられて消えていったが、ブルーミングデール・ロードだけは残ることになる。ブルーミングデール・ロードは19世紀の間に拡張・舗装され、コロンバス・サークルより北の区間は19世紀後半にはザ・ブールバード (“The Boulevard”) と名付けられる。

1899年2月14日に”Broadway”はかつてのBroadway/Bloomingdale/Boulevardをつなげた全区間を指すようになった。現在はジョージ・ワシントン橋より北の区間は国道9号線が合流している。1902年2月3日付けのen:New York Evening Telegramによってブロードウェイのタイムズスクエアあたりは “Great White Way” と呼ばれるようになり、劇場街としてエンターテイメント産業が隆盛を誇った。

多くのきらびやかな劇場が建ち並び、イルミネーション、看板(マーキー)、ビルボードや広告がこのエリアを飾った。家族連れや子供連れでも楽しめる街だったが、1970年代から80年代にかけて舞台演劇の衰退とともにポルノ産業が進出して治安が悪化した。1990年代に入り、市長であるルドルフ・ジュリアーニの提唱により情報・音楽・娯楽関連企業の大型店舗が誘致され、治安が回復した。治安悪化に悩む自治体のモデルともなった。

ブロードウェイの基点となる公園ボウリング・グリーンから、市庁舎前のシティ・ホール・パークまでの、フィナンシャル・ディストリクトを貫く部分は、両側を金融機関などの超高層ビルが立ち並ぶ。この区間は、兵士やスポーツチームなどの凱旋行進が行われることが多く「英雄たちの峡谷」(“Canyon of Heroes”) の異名でも呼ばれる。こうしたパレードは「ティッカーテープ・パレード」と呼ばれ、もとは銀行員らが電信用のティッカーテープの紙吹雪を両側のビルからパレードの主役や観客の上に降らせた。現在もシュレッダーをかけた紙束などが紙吹雪として使われている。

パリの3区 バスティーユ広場界隈

アントーン・カラス(Anton Karas、1906年7月7日 – 1985年1月10日)は、オーストリアのツィター奏者、作曲家。


映画『第三の男』のテーマ曲(『ハリー・ライムのテーマ』の名でも知られる)で有名。

ツィター(独: Zither、仏: Cithare、伊: Centra da Travola)は、主にドイツ南部、オーストリア、スイスなどでよく使用される弦楽器(弦鳴楽器)。チターとも。

日本の箏(琴)に似た形状をしているが、長さは短い。約30本の伴奏用弦と5、6本の旋律用のフレット付き弦が張られている。これを親指につけたプレクトラムと呼ばれる爪を使って弾く。

ソードマンデル(スワルマンダル)と呼称される楽器と極めて近い構造を持っており、一般的には明確に分類されていない。

ヨハン・シュトラウス2世のワルツ『ウィーンの森の物語』の冒頭と末尾で演奏されるソロが有名であり、映画『第三の男』のテーマソングをアントーン・カラスが弾いた楽器としても知られている。

中東からヨーロッパにかけ、類似した楽器がある。特にアラビアやトルコのカーヌーンは有名。