オリエント急行

1872年、ベルギーの銀行家の息子であるジョルジュ・ナゲルマケールスは国際寝台車会社を設立した。彼は1868年にアメリカを旅行し、アメリカのプルマン社の寝台車に感銘を受け、ヨーロッパでの寝台車会社の設立を思い立った。アメリカ人の大富豪、ウィリアム・ダルトン・マンもこの会社の設立を支援し、当時大陸ヨーロッパに進出しようとしていたプルマン社との参入競争を繰り広げていた。

西ヨーロッパとオリエントを結ぶオリエント急行は同社の看板列車として計画されており、1880年代初めにはパリ・ウィーン間で食堂車や豪華寝台車の運行が始まっていた。

開通記念列車

オリエント急行の開通記念列車は1883年10月4日夜にパリ・ストラスブール駅(現・パリ東駅)を発車し、6日かけてコンスタンティノープル(イスタンブール)に到着した。なおオスマン帝国では首都の市名を「イスタンブール」と称していたが、西ヨーロッパでは旧名の「コンスタンティノープル」が使われており、「オリエント急行」の行き先も旧名で表記されていた。

経路はパリ(フランス) – シュトラスブルク(ドイツ帝国、現・ストラスブール) – ミュンヘン – ウィーン(オーストリア=ハンガリー帝国) – ブダペスト – オルソヴァ(ルーマニア王国) – ブカレスト – ジュルジュ – ルセ(ブルガリア公国) – ヴァルナ – コンスタンティノープル(オスマン帝国)である。ただしこのときにはコンスタンティノープルまでの線路は全通しておらず、国際寝台車会社の車両で運行されたのはジュルジュまでで、ドナウ川を船で渡り、ルセ – ヴァルナ間はイギリス資本のブルガリアの鉄道の通常の客車を利用、ヴァルナ – コンスタンティノープル間は汽船で黒海を渡った。

記念列車は寝台車2両、食堂車1両、荷物車(兼車掌車)2両の編成であった。寝台車と食堂車はボギー台車を使用しており、国際寝台車会社創業時の二軸車や三軸車からは大幅に乗り心地が向上していた。

記念列車には沿線各国の高官や鉄道関係者、ジャーナリストなどが招待されたほか、ナゲルマケールスをはじめとする国際寝台車会社の幹部も乗車した。途中ルーマニアでは国王カロル1世自ら離宮に招待するなど、沿線各国で歓迎を受けた。招待客の中にはアルザス出身でパリ在住の作家エドモン・アブー(en:Edmond François Valentin About)と、ロンドン・タイムズ紙のパリ支局長アンリ・ステファン・オペル・ドブラヴィッツ(en:Henri Blowitz)[6]が含まれており、新列車は彼らの筆により西ヨーロッパに紹介された。ドブラヴィッツはさらに到着地のイスタンブールでスルタンアブデュルハミト2世と西ヨーロッパのジャーナリストとしては初の単独会見に成功している。

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