晴明神社

京都市上京区、一条戻橋のたもと(北西)にあった安倍晴明の屋敷跡に鎮座し、安倍晴明を祀る。1005年に晴明が亡くなると、時の天皇、一条天皇は晴明の遺業を賛えその屋敷跡に晴明を祀る神社を創建した。

当時の境内は、東は堀川通り、西は黒門通り、北は元誓願寺通り、南は中立売通りまであり、かなり広大であったと云う。度重なる戦火、豊臣秀吉の都市整備などで次第に縮小し社殿も荒れたままの状態となった。

幕末以降、氏子らが中心となって社殿・境内の整備が行われ、1950年には堀川通に面するように境内地が拡張された。本殿の北には、晴明井といわれる井戸がある。この井戸は五芒星(晴明紋}を描き、取水口がその星型の頂点の一つにある。

立春には、晴明神社の神職がその晴明井の上部を回転させ、その年の恵方に取水口を向けるのが、慣わしとなっている。ここから湧く水は晴明水と呼ばれ、晴明の陰陽道の霊力により無病息災のご利益があるといわれる。千利休が茶会において、この井戸から汲んだ水を沸かし、茶の湯として利用していたといわれ、豊臣秀吉もその茶を服されたとの伝承がある。

富山 上市町

冬季にはアルピニスト、夏季にはロッククライマーで賑わう剱岳は日本百名山の一つ。上市警察署は富山県警察の山岳警備隊が勤務し、山岳遭難救助やパトロール活動の拠点となっている。

大岩山日石寺

「大岩不動」の通称で知られ、別名・金剛不壊寺、真言密宗大本山で、本尊は磨崖仏の不動明王像(国の重要文化財)。

毎年1月大寒の日に「大岩日石寺大寒修行」が開催され、境内の六本滝において「瀧打ちの業」が催される。

毎年7月1日は「大岩山日石寺滝開き」、毎年8月下旬は「大岩日石寺不動まつり」が開催される。

名物の大岩そうめんは、富山のおいしい水で作られ喉越しもよい。
百段坂沿いにはお食事処や旅館があり、「旅館 大岩館」は、2009年に公開された映画『劔岳 点の記』のロケ地になった。

湯神子(ゆのみこ)温泉

立山連峰・剱岳のふもとの山里にたたずむ湯宿で、三百余年前、須山川沿いに湧きでたといわれる。

あるひとりの神子がその湯に身をひたしたという伝説を由来にもち、江戸時代よりながらく近在の人々が馬や農具の洗い場だった。
昭和27年に開湯し、県内有数の温泉場となる。

眼目山立山寺

眼目山立山寺は、立山権現がきこりの姿となって褝師を導き寺院の建立をすすめたと伝えられ、通称「さっかのてら」と呼ばれる。

1370年に大徹宗令褝師により創建された曹洞宗の名刹で、参道のトガ並木は有名である。

眼目地区は森林セラピー基地に認定され、森林浴を目的に訪れる人も増えている。

穴の谷(あなんたん)の霊水

アルプスの剱岳に抱かれた山間に湧く水で、江戸時代、美濃国の白心(はくしん)法師がこの地で修業して以来、霊場として知られるようになる。

4年間腐らないといわれるほど不純物の少ない水で、環境省の名水百選にも選定される。

参道から108段の石段を下った谷間には薬師如来堂があり、薬師如来像右横から湧き出る清水は飲みやすいように蛇口まで引かれている。

二条城

かつて、二条大路は朱雀大路が廃れた後は、都一の大路で、足利尊氏から義満まで3代の将軍が二条に屋敷を構えた。室町時代には、平安京の左京にあった唯一の城で、右京には、「西院城」があり、二条城と西院城を平安京の両城ともいう。

二条城は京都市街の中にある平城で、足利氏、織田氏、豊臣氏、徳川氏によるものがある。現在見られるものは徳川家康によって創建された。幕府は二条城と呼んだが、朝廷は二条亭と呼んだ。城内全体が国の史跡に指定されていて、二の丸御殿(6棟)が国宝に、22棟の建造物と二の丸御殿の障壁画計1016面が重要文化財に指定され、二の丸御殿庭園は特別名勝に指定されている。1994年(平成6年)に、ユネスコの世界遺産(世界文化遺産)に「古都京都の文化財」として登録される。

日本の歴史書における複数の「二条城」

1,室町幕府13代将軍足利義輝の居城を「二条御所武衛陣の御構え」

2.室町幕府15代将軍足利義昭の居城として、織田信長によって作られた城は、二条通からは遠く離れていたが、平安京条坊制の「二条」に城域の南部分がわずかに含まれるので、義輝の「二条御所」とともに「二条」の名を冠して呼ばれる

3.織田信長が京に滞在中の宿所として整備し、後に皇太子に献上した邸である「二条新御所」は、二条通にも面さず条坊制の二条にも属していないが、二条家の屋敷跡に設けられたためこの呼称が使われる

4.徳川家康が京に滞在中の宿所として造った城が、現存する二条城である。家康がこの地を選んだ理由としては、この地が比較的人家がまばらであったこと、信長の二条新御所と秀吉の妙顕寺城が並ぶ東西のラインと秀吉の聚楽第から真南に延ばしたラインの交差する場所、であったという説があり、堀川西域に立ち御所に向けて門を開けていた聚楽第を意識していたことが伺われる。

万延元年(1860年)
京都地震で、御殿や各御門、櫓などが傾くなど、大きな被害を受ける

文久2年(1862年)
14代将軍徳川家茂の上洛にそなえ二条城の改修が行われる
二の丸御殿は全面的に修復し、本丸には仮御殿が建てられた

文久3年(1863年)3月
家茂は朝廷の要請に応えて上洛をする

慶応元年(1865年)
家茂は再度上洛し二条城に入るが、すぐに第二次長州征伐の指揮を執るため大坂城へ移るも、病に倒れ、翌慶応2年に死去する

慶応2年(1866年)
幕閣によって次の将軍は一橋慶喜と決定されるが、慶喜は就任を拒絶。幕府関係者のみならず朝廷からの度重なる説得の末、12月に二条城において15代将軍拝命の宣旨を受ける

慶応3年(1867年)9月
慶喜が宿所を若狭小浜藩邸から二条城に移す
10月には大政奉還、将軍職返上
12月には朝廷より辞官納地命令が二条城に伝達される
軍事衝突を避けるため、慶喜は二条城から兵を連れて大坂城へ向かう

慶応4年(1868年)1月
朝廷(新政府)の命を受けた議定・徳川慶勝に引き渡され、太政官代が設置

北野天満宮

菅原道真は893年参議、左大弁に至り、中央政界に強い影響力を持つに至る。894年遣唐大使に任じられるが、道真は遣唐使の廃止を訴える。宇多天皇は信頼する道真の進言を受け入れ、ここに260年あまり続いた遣唐使が廃止された。897年宇多天皇は上皇という自由な立場から藤原氏をけん制するため13歳の醍醐天皇に譲位し上皇となる。

899年藤原時平が左大臣に、道真が右大臣に任じられる。
菅原道真は吉備真備につぐ学者出身の大臣となる。

・・・

「藤原氏でも無い者が大臣の位につくなど、ありえぬ。このままでは藤原氏を越して太政大臣にもなりかねない…」と、藤原時平は醍醐天皇に道真を讒言する。

901年1月25日に大宰権帥に左遷された菅原道真公一行は古船で海路を通り、55日間程度かかり太宰府に着く。

子供連れで家財道具を運ぶなら海路を選ぶのが妥当で、道真公が廃止した遣唐使とほぼ同じような航路となっているのは、風向きや海流、同程度の舟と航海技術による。

都から遠く離れた大宰府、浄妙院(榎寺)に謹慎すること二年。
延喜3年(903年)2月25日菅原道真は失意のうちに没した。

・・・

道真の死後、都では異常な出来事が相次ぐ。飢饉や干ばつ、道真の左遷にかかわった人々が次々と謎の死を遂げる。延長8年(930年)6月26日。重要な朝議が行なわれていた宮中の清涼殿に落雷し、3ケ月後、醍醐天皇は崩御。このようなことが重なり、朝廷では道真の左遷を撤回する決議がされた。死後20年目の名誉回復、正二位、左大臣についで太政大臣の位が道真に贈られる。947年、京都に道真を祀る北野天満宮が建立される。

松江城

宍道湖北側湖畔の亀田山に築かれ、日本三大湖城の一つで、別名は千鳥城と言われ、城の周りを囲む堀川は宍道湖とつながり、薄い塩水(汽水域)となっている。軍学者の小瀬甫庵らが設計に携わり南に流れる京橋川を外堀とした、輪郭連郭複合式平山城で、本丸を中心に据え、東に中郭、北に北出丸、西に後郭、東から南にかけ外郭、西から南にかけ二の丸が囲む構造である。軟弱地盤の上に建てられたため、建築から数十年ほどで傾きだしたと言われる。現存天守は国宝に、城跡は国の史跡、日本さくら名所100選、都市景観100選にも選ばれている。

人柱伝説
小泉八雲の作品では、人柱にされた娘として描かれる。天守台の石垣を築くことができず、何度も崩れ落ちた。人柱がなければ工事は完成しないと、工夫らの間から出た。そこで、盆踊りを開催し、その中で最も美しく、もっとも踊りの上手な少女が生け贄にされた。娘は踊りの最中にさらわれ、事情もわからず埋め殺されたという。石垣は見事にでき上がり城も無事落成したが、城主の父子が急死し改易となった。人々は娘の無念のたたりであると恐れたため、天守は荒れて放置された。その後、松平氏の入城まで天守からはすすり泣きが聞こえたという城の伝説が残る。また、城が揺れるとの言い伝えで城下では盆踊りをしなかった。

松江城略史
鎌倉時代から戦国時代かけて末次城(末次の土居)が置かれた

1600年(慶長5年)
関ヶ原の戦いで戦功のあった堀尾忠氏(堀尾吉晴の子)が、24万石を得て月山富田城に入城し松江藩が成立

1607年(慶長12年)
末次城のあった亀田山に築城を開始

1611年(慶長16年)
松江城が落成

1633年(寛永10年)
堀尾忠晴没、嗣子なく堀尾氏は3代で改易

1634年(寛永11年)
京極忠高が若狭国小浜藩より出雲・隠岐両国26万石で入封し、三の丸を造営し松江城の全容が完成

1637年(寛永14年)
忠高が嗣子なく没し京極氏は一時廃絶

1638年(寛永15年)
信濃国松本藩より松平直政が18万6千石で入封、以後、明治維新まで続く。

1871年(明治4年)
廃藩置県により廃城となる

1873年(明治6年)
出雲郡の豪農の勝部本右衛門や元藩士の高木権八により、城は買い戻され保存される

1934年(昭和9年)
国の史跡に指定

1935年(昭和10年)
天守が当時の国宝保存法に基づく国宝(旧国宝。現行法の重要文化財に相当)に指定

1950年(昭和25年)
文化財保護法の施行に伴い天守は重要文化財に指定

1950年(昭和25年)
天守の解体修理が行われる

1960年(昭和35年)
本丸一ノ門と南多聞の一部を復元

1992年(平成4年)
都市景観100選に選ばれる

1994年(平成6年)
三の丸と二の丸を結ぶ廊下門(千鳥橋)と二の丸下段の北惣門橋(旧眼鏡橋)を復元

2000年(平成12年)
二の丸南櫓と塀(40m)を復元

2001年(平成13年)
二の丸に中櫓・太鼓櫓と塀(87m)を復元

2006年(平成18年)
日本100名城(64番)に選定される

2007年(平成19年)4月~2011年(平成23年)12月
「松江開府400年祭」が行われた

2015年(平成27年)7月8日
天守が国宝に指定
国内の城跡で天守が国宝に指定されるのは63年ぶり5件目

姫路城西御屋敷跡庭園「好古園」

姫路公園(姫路城)内にある日本庭園で、正式名は姫路城西御屋敷跡庭園、江戸時代に現在の庭園入口付近に存在した藩校「好古堂」に因み好古園と呼ばれる。古地図『姫路侍屋敷図』を基にした姫路城西御屋敷跡発掘調査により確認された西御屋敷(1618年〈元和4年〉造営)・武家屋敷等の遺構をそのまま生かして作庭された総面積3.5ヘクタールの池泉回遊式庭園群である。庭園設計は中村一、運営管理は姫路市で、姫路市制100周年にあたる1992年(平成2年)4月29日に開園。

9つの日本庭園で構成され、其々が屋敷割遺構どおり築地塀等で仕切られている。各庭園入口には長屋門・屋敷門、園内には渡り廊下など江戸時代の建築が再現されている。水戸黄門、暴れん坊将軍、大岡越前、るろうに剣心など、時代劇や大河ドラマの撮影地でもある。本園最大の池泉回遊式庭園は姫山原生林を借景とし、250匹の錦鯉が生息する大池は瀬戸内海の風景を表すとされる。

しなの鉄道株式会社、観光列車「ろくもん」

長野県上田市に本社を置くしなの鉄道株式会社は、県内で北陸新幹線の並行在来線を経営する第三セクター鉄道事業者である。北陸新幹線高崎駅 – 長野駅間の先行開業に際して、東日本旅客鉄道(JR東日本)から並行在来線として経営移管されることとなった、信越本線の軽井沢駅 – 篠ノ井駅間を経営する会社として設立され、同区間は1997年(平成9年)10月1日、新幹線開業と同時にしなの鉄道に移管され、しなの鉄道線として開業した。全線でワンマン運転のため、「ろくもん」を除く全ての編成に、ドア開閉や自動放送等を運転士が操作するための対応設備が搭載される。2013年3月16日のダイヤ改正実施時から2両編成の運用が開始され、3両編成のうち1本は、観光列車「ろくもん」として編成される。2015年(平成27年)3月14日時点で保有している車両は、JR東日本から譲り受けた国鉄形電車の115系のみで、3両編成15本、2両編成7本の、計59両22本が配備される。

観光列車「ろくもん」

しなの鉄道は輸送人員の減少傾向や施設・設備の更新費用の増加
経営基盤の強化などが課題となっていた。

2013年(平成25年)8月、新たな営業戦略の一環として観光列車「ろくもん」を導入し、2014年(平成26年)夏から運行開始する。

列車の愛称は沿線地域ゆかりの真田氏の「六文銭(六連銭)」に因む「ろくもん」とされる。

「ろくもん」は115系電車3両編成を改造した観光列車で、編成は軽井沢方から1号車(クモハ115-1529)・2号車(モハ114-1052)・3号車(クハ115-1021)。

内外装のデザインは、JR九州の800系新幹線や豪華寝台列車『ななつ星 in 九州』などを手がけたことで知られるデザイナーの水戸岡鋭治氏が担当した。

車体は真田幸村の武具をイメージしたという濃い赤に塗られ、内装にはカラマツやヒノキなど長野県産の木材が使用される。

1号車
ファミリーやグループ向けの車両で、中央に子供の遊び場(木のプール)を設置。

2号車
沿線地域の景観を楽しみながら食事ができるカウンター席とソファ席を配置しているほか、様々な交流や情報提供が可能となるサロンスペース、最低限の食事サービスを提供できるキッチンを設置。

3号車
2人組の旅客が個室的な空間の中で、食事を楽しむことができる車両となっている。

川から誕生した大阪

大阪平野、かつてこの地は海の底。大阪の歴史は、平野を形成し豊かな恵みを与えてきた淀川を抜きには語れない。肥沃な土地を生んだ淀川は、全流域面積八千二百四十平方キロ、琵琶湖などを源流として近畿二府四県一千六百万人の暮らしを支える。大阪・京都府境界で桂川、宇治川、木津川の三川が合流して大河・淀川となる。ひとたび氾濫すれば大きな被害を生み、古代から為政者たちは、淀川をコントロールしようと治水に力を注ぐ。

かつて縄文時代、大阪平野の大部分は広大な湾で、瀬戸内海沿いに湾を隔てるように南から北へ突出していたのが現在の上町台地。琵琶湖を源流とする現在の淀川や大和川など、周囲から流れ込む大量の土砂が次第に湾を埋め、湾は淡水が交じり潟に縮小し、五世紀ごろには湖になり現在の大阪平野の姿となる。

七四四(天平十六)年、難波宮を都と定める聖武天皇の勅令が発布される。難波宮跡は現在の大阪城と並び、上町台地の北端部分で国内外を結ぶ交通の要衝だった。難波宮は遷都する際に解体されたが、材料は船で淀川をさかのぼり新都の長岡京に運んで移築されたという。

仁徳天皇が築造を命じたという「茨田堤(まんだのつつみ)」は、大河の中洲に堤防をめぐらせて川の流れを分断し、氾濫原の農地開拓と用水確保を可能にした。「難波の堀江」開削の記述も日本書紀にある。豊臣秀吉は、一五九四(文禄三)年にまず宇治川と巨椋池を堤防で分離し、京都-大坂間に文禄堤を築造した。堤防は街道としても整備が進み、中心地の都と大坂を直結する京街道と淀川の舟運で水陸の大動脈をなした。

京阪間には、淀川に三十石船と呼ばれる貨客船が往来し、江戸末期ごろは一日平均約千五百人と八百トンの貨物を運んでいたという。人や物資だけでなく文化や情報も伝える役割も担っていた。
八百八橋と呼ばれた大坂は、水路が縦横無尽に張り巡らされ、沿岸部の干拓も進み、明治以降の人口増加とともに町は海に向かって町は伸び、巨大都市・大阪を形成していく。

オランダから外国人技師のヨハネス・デ・レーケらを招き、
淀水の流れを川の中央に集め、船の航行を可能にするケレップ水制をはじめ、大規模な淀川改修工事や大阪港築港に力を注いだ。
水路に曲線を多く取り、遊水効果を持たせたデレーケ案は結局採用されず、より直線的な水路を提案した案が新淀川となった。だが、オランダから持ち込んだ技術は近代における治水の礎となった。デ・レーケの残した水制は、現在、川沿いの水たまり、つまりワンドとなって大阪市旭区の河川敷などに残るが、天然記念物に指定され絶滅の危機にひんする淡水魚・イタセンパラの国内最大の繁殖地としても知られる。

京都御所と花の御所

花の御所は、京都府京都市上京区にあった足利将軍家の邸宅の通称で、東側を烏丸通、南側を今出川通、西側を室町通、北側を上立売通に囲まれた東西一町南北二町を占めた。京都御所がある京都御苑の北西、烏丸今出川交差点を挟んで斜め向かいの一角、現在の同志社大学今出川校地の烏丸通を挟んで向かい側の場所にある同志社大学・寒梅館以南に位置していた。

上杉本陶版『洛中洛外圖』に描かれた「花の御所」、絵の右側が北。(京都アスニー収蔵)

室町通に面して正門が設けられたことから室町殿、室町第とも呼ばれた。足利将軍の事を「室町殿(室町家)」と呼び、足利家の政権を「室町幕府」と呼称するのはこれに由来する。

六曲一双 狩野永徳筆 国宝『洛中洛外図屏風』・左隻(米沢市上杉博物館所蔵)、花の御所は中央左下に描かれている。右が北。

後醍醐天皇と対立して京都に武家政権を開いた足利尊氏は、北朝を後見するため二条高倉に住み、2代将軍の足利義詮は鎌倉から京都に戻った際に足利直義が住んでいた三条坊門第に入った。将軍就任後、元の三条坊門第は直義の鎮魂のために八幡宮とすることになり、自分はその東隣に新たな三条坊門第を造営した。八幡宮は現在の御所八幡宮のこと。義詮は、室町季顕から、その邸宅である花亭を買上げて別邸とし、のちに足利家より崇光上皇に献上された。花の御所と足利家との関係は足利義詮に始まり、崇光上皇の御所となったことにより花亭は「花の御所」と呼ばれるようになった。3代将軍足利義満は、1378年(天授4年/永和4年)、北小路室町の崇光上皇の御所跡と今出川公直の邸宅である菊亭の焼失跡地を併せた敷地に足利家の邸宅の造営を始めた。
後にこの新しい邸宅を「上御所」、従来の坊門三条殿を「下御所」とも称するようになった。義満は将軍職を息子の足利義持に譲ると、新築した北山第(現鹿苑寺)へ移る。

龍安寺

京都市右京区、臨済宗妙心寺派の寺院で妙心寺との関係が深い。
本尊は釈迦如来、開基は細川勝元、開山は義天玄承、山号は大雲山と号し石庭で知られ「古都京都の文化財」として世界遺産に登録される。


当時、龍安寺の鏡容池はオシドリの名所として知られ、池を中心とした池泉回遊式庭園の方が今日の「石庭」より有名であった。衣笠山山麓一円は、永観元年(984年)に建立された円融天皇の御願寺である円融寺の境内地であった。円融寺は徐々に衰退し、平安時代末には藤原北家の流れを汲む徳大寺実能が山荘を建立する。

宝徳2年(1450年)、この山荘を室町幕府の管領守護大名である細川勝元が譲り受け、寺地とし初代住職として妙心寺8世(5祖)住持の義天玄承(玄詔)を迎え創建した。創建当初の寺地は現在よりはるかに広く、京福電鉄の線路の辺りまでが境内であったと云われる。龍安寺は応仁の乱(1467-1477年)によって焼失するが、勝元の子の細川政元と4世住持・特芳禅傑によって明応8年(1499年)に再興される。


その後、織田信長、豊臣秀吉らから寺領を付与されている。寛政9年(1797年)の火災で、方丈、仏殿など主要伽藍が焼失し、塔頭の西源院の方丈を移築して龍安寺の方丈(本堂)として現在にいたる。明治初期の廃仏毀釈によって衰退するが、イギリスのエリザベス女王が1975年に日本を公式訪問した際に龍安寺の拝観を希望し、石庭を絶賛し海外のマスコミでも報道され、日本のZEN(禅)ブームと相俟って、世界的にも知られるようになる。

石庭

方丈庭園、「龍安寺の石庭」は幅 25 メートル、奥行 10 メートルほど。
白砂を敷き詰め、東から5個、2個、3個、2個、3個の合わせて15の大小の石を配置する。

これらの石は3種類に大別できる。
各所にある比較的大きな4石はチャートと呼ばれる龍安寺裏山から西山一帯に多い山石の地石。
塀ぎわの細長い石他2石は京都府丹波あたりの山石。
その他の9石は三波川変成帯で見られる緑色片岩。

室町末期(1500年頃)特芳禅傑らの禅僧によって作庭されたと伝えられるが諸説あって定かではない。

この庭の石の配置から、中国の説話(虎、彪を引いて水を渡る)に基づき「虎の子渡しの庭」、あるいは、東から5、2、3、2、3の5群で構成される石組を、5と2で七石、3と2で五石、そして3で三石と、七・五・三の3群とも見られることにより「七五三の庭」とも呼ばれる。

石庭は、どの位置から眺めても必ずどこかの1つの石が見えないように配置されていることでも有名。

襖絵の帰還

明治初期の廃仏毀釈により海外に流出していた方丈襖絵のうち6面が
2010年10月に帰還した。

他に所在の確認されているものは、米国メトロポリタン美術館所蔵の8面(襖4枚の表裏)、シアトル美術館所蔵の4面、イギリス個人所蔵の9面の計21面である。