宍道湖北側湖畔の亀田山に築かれ、日本三大湖城の一つで、別名は千鳥城と言われ、城の周りを囲む堀川は宍道湖とつながり、薄い塩水(汽水域)となっている。軍学者の小瀬甫庵らが設計に携わり南に流れる京橋川を外堀とした、輪郭連郭複合式平山城で、本丸を中心に据え、東に中郭、北に北出丸、西に後郭、東から南にかけ外郭、西から南にかけ二の丸が囲む構造である。軟弱地盤の上に建てられたため、建築から数十年ほどで傾きだしたと言われる。現存天守は国宝に、城跡は国の史跡、日本さくら名所100選、都市景観100選にも選ばれている。
人柱伝説
小泉八雲の作品では、人柱にされた娘として描かれる。天守台の石垣を築くことができず、何度も崩れ落ちた。人柱がなければ工事は完成しないと、工夫らの間から出た。そこで、盆踊りを開催し、その中で最も美しく、もっとも踊りの上手な少女が生け贄にされた。娘は踊りの最中にさらわれ、事情もわからず埋め殺されたという。石垣は見事にでき上がり城も無事落成したが、城主の父子が急死し改易となった。人々は娘の無念のたたりであると恐れたため、天守は荒れて放置された。その後、松平氏の入城まで天守からはすすり泣きが聞こえたという城の伝説が残る。また、城が揺れるとの言い伝えで城下では盆踊りをしなかった。
松江城略史
鎌倉時代から戦国時代かけて末次城(末次の土居)が置かれた
1600年(慶長5年)
関ヶ原の戦いで戦功のあった堀尾忠氏(堀尾吉晴の子)が、24万石を得て月山富田城に入城し松江藩が成立
1607年(慶長12年)
末次城のあった亀田山に築城を開始
1611年(慶長16年)
松江城が落成
1633年(寛永10年)
堀尾忠晴没、嗣子なく堀尾氏は3代で改易
1634年(寛永11年)
京極忠高が若狭国小浜藩より出雲・隠岐両国26万石で入封し、三の丸を造営し松江城の全容が完成
1637年(寛永14年)
忠高が嗣子なく没し京極氏は一時廃絶
1638年(寛永15年)
信濃国松本藩より松平直政が18万6千石で入封、以後、明治維新まで続く。
1871年(明治4年)
廃藩置県により廃城となる
1873年(明治6年)
出雲郡の豪農の勝部本右衛門や元藩士の高木権八により、城は買い戻され保存される
1934年(昭和9年)
国の史跡に指定
1935年(昭和10年)
天守が当時の国宝保存法に基づく国宝(旧国宝。現行法の重要文化財に相当)に指定
1950年(昭和25年)
文化財保護法の施行に伴い天守は重要文化財に指定
1950年(昭和25年)
天守の解体修理が行われる
1960年(昭和35年)
本丸一ノ門と南多聞の一部を復元
1992年(平成4年)
都市景観100選に選ばれる
1994年(平成6年)
三の丸と二の丸を結ぶ廊下門(千鳥橋)と二の丸下段の北惣門橋(旧眼鏡橋)を復元
2000年(平成12年)
二の丸南櫓と塀(40m)を復元
2001年(平成13年)
二の丸に中櫓・太鼓櫓と塀(87m)を復元
2006年(平成18年)
日本100名城(64番)に選定される
2007年(平成19年)4月~2011年(平成23年)12月
「松江開府400年祭」が行われた
2015年(平成27年)7月8日
天守が国宝に指定
国内の城跡で天守が国宝に指定されるのは63年ぶり5件目