世田谷美術館、ファッション史の愉しみ 石山彰ブック・コレクションより

世田谷美術館は東京都世田谷区の砧公園にあり1986年(昭和61年)3月30日開館、延床面積は8,223m²、建築面積4,882m²の鉄筋コンクリート造。建築家内井昭蔵の作品で、地下1階・地上2階で、公園の背の高い木々に埋まるように有機的な平面形状で展開される。この世田谷美術館1階展示室で、2016年2月13日~4月10日、西洋服飾史研究家・石山彰氏(1918-2011)のコレクションを中心に、16世紀から20世紀初頭にかけてのファッション・ブックとファッション・プレート、および服飾史研究書や明治時代の錦絵が紹介された。

展示の構成

第1章 ファッション史の始まり 16, 17, 18世紀の文献とファッション・プレート

16世紀後半、ファッション史の創成期には服装を描いた版画集に簡単な説明文を付けた本が出版されるようになる。ジャン=ジャック・ボワサールの『諸国民の服装』や、彩色されるようになったロココ時代末期(18世紀末)の『ギャルリー・デ・モード・エ・コスチューム・フランセ』。

第2章 ファッション・ブックの黎明期 革命期から1820年代まで

18世紀末のフランス革命勃発後、装いは貴族的なスタイルから軽やかなものへ変化する。情報発信の手段ともいえるファッション・ブックが誕生した。

第3章 ファッション・ブックの全盛期 1830年代から19世紀末まで

ファッション・ブックのサイズは大きくなり、人物だけでなく背景も詳しく描かれるようになる。
女性ファッションのシルエットは19世紀の間に5回大きく変化し、巨大化したスカートが特徴のクリノリン・スタイルやバスル・スタイルが流行した。

第4章 ファッション史研究の確立 19世紀のファッション史・民族服文献

16~18世紀の文献の復刻が相次ぎ、ファッション研究は舞台衣装や歴史学・民俗学的視点からも注目されるようになる。異国の衣装を描いた衣装図集『ギリシャの民族衣装』や、クリノリンの形の異様さを描写した風刺的な挿絵も展示される。

第5章 ポショワールのファッション・ブックと挿絵本

第一次世界大戦前、女性のファッションは解放されたスタイルへと変化してゆく。ジョルジュ・バルビエなどのイラストレーターによるファッション・プレートには浮世絵に影響を受けた技法が取り入れられ、鮮やかな色彩が実現した。手作りの版画を用いたファッション・ブックは芸術性を追求。

第6章 洋装化日本のファッション・プレート 楊州周延の錦絵を中心に

日本がヨーロッパの装いを取り入れようとした時代で、錦絵を代表する絵師の1人、楊州周延は文明開化が広まった19世紀後半、洋装姿の女性達を描く。

国吉康雄 (アメリカで蘇る日本人画家)

国吉康雄 (1889年9月1日 – 1953年5月14日)は、岡山県出身の20世紀前半にアメリカ合衆国を拠点に活動した洋画家。2015年ワシントンにあるスミソニアン美術館で、5か月におよぶ大回顧展が開かれ注目を集める。もの憂げな表情が印象的な代表作「もの思う女」は、世界恐慌に揺れる混乱のニューヨークで描かれた。

はかなげだが強い意志を秘めたその女性は、不安を抱えて生きる人々の心をつかんで離さなかった。1920年代から活発に作品を発表し始め、茶色を基調としながら、平面的で幻想的な画面のなかに、人物や動物が素朴な表情で描かれる。人種差別、太平洋戦争、戦後のいわゆる赤狩り、次々に押し寄せる苦難の中で、国吉は傑作を残す。

国吉康雄年譜

1889
岡山市中出石町に国吉宇吉、以豊の長男(一人子)として生まれる。
1896
岡山市弘西尋常小学校(4年制)に入学、卒業後内山下高等小学校(4年制)に進学。
小説家・随筆家である内田百閒と同級。
1904
岡山県立工業学校染織科に入学。日露戦争起こる。
1906
岡山県立工業学校を退学し、渡米。様々な肉体労働を重ねながら英語を学ぶ。
1910
飛行家を志し一時訓練を受けるが断念し、画家を志しニューヨークに移る。雑役労働に追われながらも美術学校を転々とし、断続的に勉強を続ける。
1914
インディペンデント・スクール・オブ・アーツに入学、2年聞学びヨーロッパ美術の新しい傾向に触れる。
1916
アート・ステューデンツ・リーグでケネス・ヘイズ・ミラーに師事。
1917
独立美術家協会第一回展に出品。前衛的な画家集団ペンギン・クラブに加わる。
1918
アメリカ現代美術のパトロン、ハミルトン・イースター・フィールドの援助を受ける。
1919
キャサリン・シュミットと結婚。生計を立てるため写真家としても働く。
1921
ニューヨークのダニエル画廊と契約。以後10年間、国吉は同画廊で作品を発表する。
1924
移民制限法が制定され、以後日本人の米国への移民は全くできなくなる。
1925
妻とともに渡欧。
1928
妻とともに再渡欧、石版リトグラフを制作。対象から直接描く方法へ転換。
1929
パスキンと交友するも、ニューヨークに戻る。ニューヨーク近代美術館の「19人の現代アメリカ作家展」の出品作家に選ばれ、アメリカ画壇での地位を確立。ウォール街の株価大暴落、大恐慌始る。
1931
病気の父を見舞うため日本へ帰る。岡山、東京、大阪で個展を開催。満州事変起こる。
1932
日本から帰国。キャサリンと離婚。
1933
アート・ステューデンツ・リーグの教授に就任、亡くなるまで20年間、この識にあった。
1935
サラ・メゾと結婚。35ミリ判ライカ・カメラを購入。
1936
アメリカ美術家会議が結成され重要なメンバーとして活動。
1939
進歩的美術家による非公式の協会「アン・アメリカン・グループ」の会長に選ばれる。第二次世界大戦勃発。
1941
大平洋戦争勃発、国吉の身分は「外国人居住者」から敵性外国人」となり、行動の自由を一時束縛される。西海岸の日系人は強制収容所に隔離される。
1942
日本に向けての戦争終結を呼びかける短波無線放送の原稿を書く。
1944
「合衆国の絵画1944」で≪110号室≫が一等賞を受賞。
1947
芸術家組合の初代会長に就任、1951年まで勤める。
1948
ウィットニー美術館で≪国吉康雄回顧展≫が開催される。
1952
ヴェネツィア・ビエンナーレのアメリカ代表に選出される。
1953
移民帰化法が議会を通過し、アメリカ市民権を得ることがてきるようになったが、市民権を得る直前の5月14日に胃癌のため死去。

ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ

ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(Michelangelo Merisi da Caravaggio、1571年9月28日 – 1610年7月18日)は、バロック期のイタリア人画家で、ルネサンス期の後に登場し、カラヴァッジョ(Caravaggio)という通称で広く知られる。

映像のように人間の姿を写実的に描く手法、光と陰の明暗を明確に分ける表現はバロック絵画の形成に大きな影響を与えた近代写実主義の先駆をなし、レンブラント、ベラスケス、フェルメールら17世紀のほとんどすべての芸術家に大きな影響を与えた。

カラヴァッジョは、父親が宮廷に使えていたため子供の頃は裕福に育ったようだ。父親の死後は遺産を食い潰した後、辛酸をなめながらも絵を描き、それを売ったお金が入ると放蕩三昧の繰り返す。後に枢機卿の庇護を受け宮殿に住まいするようになっても放蕩辟はおさまらない。

当時のキリスト教の支配のあり方が独断的で偏っていた、と感じたのか、あるいは罪もない人が処刑されるのを目の当たりにして苦悶したのか、青年時代にマルタ騎士団の騎士にもらった刀をいつも携え、刃傷事件を何度か起こす。

ある女性の名誉を守るため決闘をして相手を殺すが、絞首刑を逃れるべくローマをあとにした。コロンナ家の庇護のもとにマルタ島に渡る。その才能がマルタ騎士団でも認められ教皇から騎士になることを認可されるが、ここでも問題を起こし、シチリアへさらにはナポリへと逃れることとなる。

コロンナ家をはじめ多くの枢機卿たちが彼の罷免を教皇に嘆願し続ける。それは、彼が人並みはずれた天才だったということ、うそをつけない怯えた少年のイメージを持っていたことによるのかもしれない。ローマに帰るべく船に乗り、ローマの北160キロのエルコレ港にたどり着くも、患っていたマラリア病で熱にうなされながら浜辺をさまよい人知れず なくなった。享年38歳

世界遺産 オリンピアの考古遺跡

ギリシアのペロポネソス半島西部に位置する古代ギリシアの都市オリンピア(Ολυμπία)。古代オリンピックが行われた場所で、現在も数多くの遺跡が存在し、1989年世界遺産に登録された。フィロンによる世界の七不思議の一つであるゼウス像が存在したことでも知られる。

1950年代に作者のペイディアスの工房とされる遺跡がゼウス神殿付近で発見され、ゼウス像が実際に存在した可能性が強まっている。オリンピア周辺の遺跡の発掘は1829年にフランス人考古学者により始められた。

19世紀にはドイツの発掘隊も加わり、プラクシテレスによるヘルメス像などが発見された。20世紀半ばには競技場跡が発掘されている。遺跡の西側に、アルヘア・オリンビア(古代オリンピア)という名の人口1,400人ほどの町がある。町にはピルゴスとを結ぶ鉄道駅などがあり、20世紀にはいり観光が町の重要な産業となった。

古代オリンピックの始まりは紀元前8世紀にまでさかのぼり、伝染病の蔓延に困ったエリス王イフィトスが争いをやめ競技会を復活せよと言うアポロンの啓示を受けた事に由来すると伝えられている。

これがゼウスへの奉納競技の始まりで1000年以上、293回に渡って行われたが、394年にローマ帝国皇帝テオドシウス1世の異教神殿破壊令により廃止された。

競技会の発端となる「競技会を復活」と言う啓示のくだりは過去にも競技が存在したそれを示唆するものと考えられ、実際の競技の開始はもっと早かったのではと見られている。

房総フラワーライン

千葉県道257号と国道410号及び千葉県道297号の一部を指し、館山市伊戸から海岸線沿いに房総半島最南端を通り、南房総市白浜町の野島崎までのルート。ドライブやサイクリングに最適なシーサイドロードでもあり、「日本の道100選」にも選ばれている。競輪選手の練習地として使われたことにより競輪史の一部となっている。初夏からは花が両側に咲きこぼれ、1月~2月の平砂浦付近では菜の花畑が広がる。

第1フラワーライン
館山市館山の下町交差点から相浜交差点までの千葉県道257号南安房公園線。

第2フラワーライン
相浜以東の区間で、相浜から国道410号に入り、南へそのまま進むと南房総市白浜町根本で海沿い方向へ分岐する国道410号と分かれて南房総市道になる。

洲崎神社は房総屈指の名社で、源頼朝が妻・北条政子の安産を祈願したと伝えられる御手洗山にある。道路から太平洋を望むと、伊豆半島や伊豆大島を一望することができる。沿道には、植栽されたサザンカ、菜の花、アジサイ、カンナ等の四季折々の花々を見ることができる。また、吾谷山(あづちやま)の中腹には安房神社が建ち、安房自然村や館山野鳥の森が隣接する。

和田 英作 (黒田清輝創設の「白馬会」の初期メンバー)

和田英作(1874~1959)は、藤島武二と同時代の画家で、黒田清輝が創設した「白馬会」の初期メンバーで、画風は穏当、保守的で多くの後進を育てた。

明治天皇を記念する聖徳記念絵画館のために描かれた『憲法発布式』は歴史教科書にも掲載され、慶應義塾大学図書館ステンドグラス(原画)もよく知られている。

鹿児島県垂水市に和田秀豊の長男として生まれ、田村直臣牧師の自営館に寄宿しながら鞆絵小学校、明治学院を経て、東京美術学校で学ぶ。

原田直次郎、黒田清輝らに師事し、東京美術学校の洋画科が開設された際、助教授に就任するが、まもなく辞任し、同校4年に編入入学し、卒業。

1900年(1899年?)文部省留学生として欧州に留学。

1903年帰国し、東京美術学校教授となる。

1932年、30年以上校長を務めた正木直彦が辞任した後、東京美術学校校長に就任。

1934年12月3日帝室技芸員。

1943年文化勲章受章。

ダフニ修道院ほか(ギリシャ)

世界遺産 ダフニ修道院、オシオス・ルカス修道院、ヒオス島のネア・モニ修道院(英名 Monasteries of Daphni, Hosios Loukas and Nea Moni of Chios)は、ギリシャ共和国にある東ローマ帝国時代に建設されたギリシャ正教(正教会)の3つの修道院から構成されて1990年に世界遺産として登録される。

3つの修道院は地理的には離れた場所に所在しているが、いずれもビザンティン時代中期に建設された修道院である。これらの修道院の中央聖堂(カトリコン)など、主要な建物は中期ビザンティン建築に特徴的なスクィンチ式教会堂の形式で建てられる。

スクィンチ式教会堂とは、正方形平面の四隅に設けたスクィンチが形成する八角形平面の上に鼓胴壁付きのドームを架けたものを主屋とする教会堂形式を言う。ギリシャ共和国において11世紀に作成されたモザイクが残されているのはこの3つの修道院のみで、ネア・モニ以外の修道院については建設の過程は未知である。

ダフニ修道院
アテネ近郊のダフニにあり修道院の設立に関する書類は全く残っていないが、中央聖堂のモザイクの様式から11世紀の設立と考えられている。
中央聖堂は、複合型スクィンチ式の教会堂で成熟した中期ビザンティンのモザイクを見ることができる。

オシオス・ルカス修道院
中央ギリシャ地方・ヘリコン山の麓にある修道院で、9世紀に現れた奇跡を起こす克肖者ルカのために建設されたと伝わるが、ダフニ修道院と同様に建設の経緯などの資料は残っていない。
中央聖堂は、複合型スクィンチ式の教会堂で、4円柱式内接十字型の教会堂、生神女聖堂(テオトコス聖堂)があるが、生神女聖堂のほうが建設時期は古いようで966年頃に、中央聖堂は1048年に完成したものと伝わる。

ネア・モニ修道院
東エーゲ海のヒオス島にある修道院で、建設の経緯や年代がある程度判明している。起原はヒオス島の修道士ニケタスとヨアンニスが、追放中であったコンスタンティノス・モノマコスが皇帝になると予言し、後に、彼がコンスンティノス9世として即位したことに始まる。
コンスタンティノス9世は、2人のために修道院を建設し、寄進と多くの特権を与えたという。中央聖堂は単純型スクィンチ式教会堂と呼ばれる形式である。

吉田博 明治、大正、昭和にかけて風景画家の第一人者

日本の洋画家、版画家の吉田 博(1876年(明治9年)9月19日 – 1950年(昭和25年)4月5日)は、自然と写実、時代を超えた描写力、詩情を重視した作風で、明治、大正、昭和にかけて風景画家の第一人者として活躍した。

旧久留米藩士・上田束秀之の次男として、久留米市に生まれる。
1888年、福岡県立修猷館に入学。
1891年、修猷館の図画教師であった洋画家・吉田嘉三郎に画才を見込まれ、吉田家の養子となる。
1893年、修猷館を卒業し、京都で洋画家田村宗立に師事。
1894年、三宅克己と知り合いその影響で水彩を描き始め、三宅の勧めで上京して小山正太郎が主催する不同舎に入門し、後に明治美術会の会員となる。
1898年、明治美術会10周年記念展に、『雲叡深秋』、『雲』などを出品。

1899年、中川八郎と共に渡米し、デトロイト美術館で「日本画家水彩画展」を開催。
翌1900年には、ボストン美術館で2人展を開催し成功。その後渡欧して、イギリス、フランス、ドイツ、イタリアなどを巡歴し、パリ万博において、日本現代画家作品展示『高山流水』が褒状を受けている。米国へ戻り、満谷国四郎、河合新蔵、鹿子木孟郎、丸山晩霞、中川八郎などと、ボストン・アート・クラブで「日本画家水彩画展」を開催。

1902年、前年に解散した明治美術会を引き継ぐ形で、吉田の発案により、満谷国四郎、石川寅治、中川八郎らと太平洋画会(現・太平洋美術会)を結成。同年、第1回太平洋画会展を開催し、『榛名湖』など13点を出品。

1903年の第2回展では『昨夜の雨』など21点を出品している。後に、太平洋画会は黒田清輝らが創設した白馬会とともに、明治時代の画壇を二分する団体として発展していく。

1903年、2度目の渡米で、ボストンを拠点に展覧会を開催し、1904年、セントルイス万博に、『雨後の桜』、『昨夜の雨』など3点を出品し、銅賞碑を受賞。この2度にわたる渡米により、画風の基礎が出来上がり、かつ豊かになった。その後、ニューヨーク、フィラデルフィア、ワシントンDCなどで展覧会を開催し、欧州諸国、及びモロッコ、エジプトを巡歴して、1906年帰国。

1907年、東京府勧業博覧会で『紐育ブルックリンの夕景』が2等賞を受賞。第1回文部省美術展覧会(文展)で、『ピラミッドの月夜』、『新月』などを出品、後者が3等賞を受賞し、文部省買い上げとなる。

1908年、第2回文展で『雨後の夕』が2等賞(最高賞)を受賞。
1909年、第3回文展で『千古の雪』が2等賞(最高賞)を連続受賞。1910年には、第4回文展の審査員に任命され、1913年まで務めている。

その後は、無鑑査(鑑査なしで出品できる資格)として毎年文展に出品し、1919年の帝国美術院創立後も、その展覧会である帝国美術院展覧会(帝展)に作品を発表し続けており、1924年以降、数回にわたり帝展の委員や審査員を務めている。早くから風景画を題材とし、特に山岳と建物を好んでモチーフに選んだ。夜の光のもつ情趣を扱った作品も多い。

1920年、新版画の版元の渡辺庄三郎と出会い、渡辺木版画舗から木版画の出版を開始し、1921年、『牧場の午後』及び『帆船』のシリーズを出版。しかし、1923年、関東大震災により木版画と版木を全て焼失し、三度目の渡米。この時、渡辺木版画舗により制作した木版画7種を持参していくと好評を得ており、これ以降、温和な画風の木版画の作品が多くなっていった。特大判のもので、数十度摺りとなったものもあった。数多くの富士山を描いた作品を見ると、葛飾北斎から刺激を受けていたと考えられる。ボストンを拠点に、フィラデルフィア、デトロイトなどで展覧会を開催。

1925年、欧州歴訪の後に帰国し、新宿区下落合に吉田版画スタジオを創設、木版画『アメリカ・シリーズ』、『ヨーロッパ・シリーズ』を自ら版元となり出版を開始。1927年、日本およびハンガリー現代版画展に40点を出品。1936年、日本山岳画協会を結成。1937年、第1回文部省美術展覧会(新文展)に『利尻姫沼』を出品し、李王家買上げとなる。戦時中は従軍画家として中国へ赴いている。

戦後は、欧米での知名度が高かったせいか、吉田のアトリエは進駐軍の芸術サロンのようになった。敗戦直後の1945年(昭和20年)の秋には、いち早くダグラス・マッカーサー夫人も、下落合のアトリエを訪問している。米軍のバンカースクラブ(将校クラブ)での版画講習会や、参加者をつのってアトリエ見学会が毎月開かれるなど、吉田作品の人気はきわめて高かった。1947年、太平洋画会会長に就任し、第3回日本美術展覧会(日展)の審査員をつとめ、『初秋』を出品。

1950年4月5日、新宿区の自宅で老衰のため死去。享年74。

アラブ・ノルマン様式のパレルモと、チェファル、モンレアーレの大聖堂

アラブ・ノルマン時代の栄華の跡が今も残るシチリア北部のパレルモでは、西洋とイスラム・ビザンチン文化圏の、社会・文化要素が融合し全く新しい空間、構造、装飾様式が誕生した。

当時、異なる宗教をもつ異民族(イスラム、ビザンチン、ラテン、ユダヤ、ロンゴバルド、フランス)が共存を果たしたことがうかがわれる。古代、パレルモはフェニキア人によって築かれ、当時の名はジズ Ziz (花の意)と言った。

まもなくギリシア人の航海者や商人と交流がされ、ギリシア語名パノルモス、ラテン語名パノルムス(Panormus)が生まれた。これは、ギリシア語で「すべてが港」を意味する語がラテン語化したものである。

第一次ポエニ戦役(紀元前264年~241年)でローマの手に落ちる西ローマ帝国滅亡後は東ローマ帝国領となる。9世紀、イスラム勢力が北アフリカからシチリア島に侵入しパレルモが陥落しシチリア全島がイスラムの手に落ちる。イスラム王朝の首都はパレルモに移され、絢爛たるイスラム文化が花開く。

当時のパレルモの人口は30万、モスクの数は300余、キリスト教徒やユダヤ教徒も共存して繁栄を極める。11世紀に南イタリアに到来したノルマン人が、イスラム支配下のシチリアを征服し、1091年にはシチリア全島がノルマン人の手に落ちる。フランス文化とイスラム文化が融合した独自の都市文化を形成し、その後シチリア王国の支配権は神聖ローマ帝国のホーエンシュタウフェン家に移り、アラビア語にも堪能な異色の皇帝フェデリーコ2世が生まれた。

13世紀にはフランスの王弟シャルル・ダンジューに征服され、アンジュー家の支配下に入るが、シチリア島民の反乱によってアンジュー家はナポリへ移り、シチリアはスペインのアラゴン家に支配される。
1479年以降はパレルモにスペイン副王が駐在する。

近代・現代
18世紀、スペイン継承戦争の結果、シチリアは一時オーストリアに渡る。
1734年、スペイン・ブルボン家の王子カルロスによってナポリと共に征服され王宮はナポリに移りパレルモは地方都市に転落する。
19世紀始め、ナポレオン軍の南イタリア侵攻によってナポリのブルボン家が一時パレルモに逃れてくるが、ウィーン条約体制下で王宮は再びナポリに戻り、両シチリア王国が成立する。

移り、シチリアはスペインのアラゴン家に支配される。
1479年以降はパレルモにスペイン副王が駐在する。

近代・現代
18世紀、スペイン継承戦争の結果、シチリアは一時オーストリアに渡る。
1734年、スペイン・ブルボン家の王子カルロスによってナポリと共に征服され王宮はナポリに移りパレルモは地方都市に転落する。
19世紀始め、ナポレオン軍の南イタリア侵攻によってナポリのブルボン家が一時パレルモに逃れてくるが、ウィーン条約体制下で王宮は再びナポリに戻り、両シチリア王国が成立する。

パレルモの守護聖人は1624年の黒死病から町を救ったと伝えられる聖ロザリアとされ、毎年7月14日に盛大な祭が行われる。

ノルマン王国のシチリア統治時代(1130年~1194年)の教会や建造が
イタリア、51番目の世界遺産、『アラブ・ノルマン様式のパレルモと、チェファル、モンレアーレの大聖堂』として登録される。

今回登録された遺産

1) ノルマン王宮とパラティーナ礼拝堂 Palazzo dei Normanni e Cappella Palatina

歴史・芸術的にパレルモで最も重要なモニュメント。
9世紀にアラブ人が建築した城を、12世紀にノルマン王達が拡大強化して、要塞であり荘厳な王宮とし、フェデリコ2世の統治時代には王宮は国の政治・経済だけでなく、ヨーロッパの文明の中心となる。
パラティーナ礼拝堂はキリストをはじめ聖書の様々な場面が描かれたまばゆいばかりの黄金のモザイクで装飾されている

2)サン・ジョヴァンニ・デリ・エレミティ教会 Chiesa di San Giovanni degli Eremiti

ノルマン王ルッジェーロ2世統治下の1136年、修道院跡に建てられたパレルモのシンボルともいえる記念的建造物。
四角の立方体のような本体部分の上に赤い丸屋根という形式はイスラム風。
アラブ風貯水槽を囲むように造られた小回廊は、ノルマン人支配後期のもので、美しく調和した2本の柱が支える小アーチが整然と並び、南国情緒が漂う。

3)サンタ・マリア・デッランミラリオ教会(マルトラーナ教会)

Chiesa di Santa Maria dell’Ammiraglio (Chiesa della Martorana )
1143年ノルマン王ルッジェーロ2世の海軍大将ジョルジョ・ディ・アンティオキアが建てた。
現在外観でノルマン王朝時代のものは鐘楼などだけ、内部を飾るビザンチン様式のモザイクには、キリストにより戴冠されるルッジェーロ2世や、聖母マリアの足元にいる海軍大将などが描かれる。

4)サン・カタルド教会 Chieda di San Cataldo小)サン・カタルド教会とマルトラーナ教会外観

ノルマン王グリエルモ1世の12世紀後半に建設され、19世末に大幅に修復。
ノルマン風の特徴がみられる教会として簡素な形態ながら重要な建築。

5)パレルモ大聖堂 (カッテドラーレ)  Cattedrale

7世紀の教会がアラブ支配時代に回教寺院となり、ノルマン王により再びキリスト教の手に返され、現存の建物は12世紀グリエルモ2世の時代に創建された。
14~16世紀にかけて手が加えられたが大聖堂は創建当初からパレルモとシチリアの歴史の舞台となった。
内部には各時代の皇帝や王の霊廟がある。

6)ジーザ宮殿 The Castello della Zisa
宮殿名は、アラビア語で素晴らしいを意味するAzizに由来。
ノルマン王グリエルモ1世が、王の別邸として創建。
イスラム建築の宝石ともいえる館。

7)アンミラリオ橋 Ponte dell’Ammiraglio

ルッジェーロ2世の海軍大将ジョルジョ・ディ・アンティオキアにより1130~1140年に造られた橋。
ノルマン統治時代の高い技術的・文化的レベルを示す橋。

8) チェファルー大聖堂 Duomo di CefaluDuomo di Cefalu

チェファルは海に面する岩山の斜面や麓に広がる街。
ルッジェーロ2世が嵐の海で助かったことを聖母に感謝するため、1131年に建設が開始された大聖堂は、ノルマン時代の最も壮大なモニュメントのひとつ。

9) モンレアーレ大聖堂 Duomo di Monreale

モンレアーレの大聖堂ドゥオーモは、1172年から1176年にかけてノルマン王グリエルモ2世の命により建設される。
外観は、正面の頑強な2基の鐘楼塔、そして3つのアプシス(後陣部)壁面には、イスラム職人の参加による多色象眼細工に装飾される。
内部の壁面はビザンチン様式のモザイク装飾。
中央内陣には巨大な『全能のキリスト』を中心に、旧・新約聖書の一連の物語やエピソードが描かれる。
回廊は完全な正方形で、モザイクや象眼装飾が施された小円柱が連続性を保ち並ぶ。
アーチで囲まれた小さな噴水は東方の楽園の庭を思わせる。

ブルゴーニュのブドウ畑のクリマ

ブルゴーニュ地域圏(Bourgogne)は、パリの東南部、リヨンの北部に位置するかつて存在した地域圏(région) で、セーヌ川に注ぐヨンヌ川とローヌ川に注ぐソーヌ川の上流部にあたる。


1832年に完成したブルゴーニュ運河によりヨンヌ川とソーヌ川が結ばれて大西洋と地中海が連絡するようになる。ブルゴーニュ地方はボルドーと同様にぶどう栽培に理想的な気候条件でワインの銘醸地であるが、ボルドーと比べると小規模な個人経営の農園が多い。

非常に古いぶどう品種の発祥の地でもあり、全体の80%以上がシャルドネ/Chardonnayとピノ・ノワール/Pinot Noirで占められ、その他ガメイ/Gamayとアリゴテ/Aligotéが栽培されている。「ブルゴーニュのブドウ畑のクリマ Les Climats du vignoble de Bourgogne」は「人類が2千年をかけて育み、世界に伝播した他所にはないブドウ栽培のモデル」として<文化遺産>分野での登録を受けた。黄金の丘と呼ばれる地域を中心に開墾されたブドウ畑は、キリスト教、ブルゴーニュ地方を核とした修道院制度とともに発展した。

ブルゴーニュの特徴
Climatクリマと呼ばれる「細分化された区画畑」に格付けされ、畑が分割所有されている場合は、同じ畑のワインでも造り手によって格付けが違ってくる。

特級 Grand Cru
ブルゴーニュで、最も格が高く特定の区域が格付けの対象となり、ラベル表示は、「畑名」で表示される。
「シャンベルタン」(ジュヴレ・シャンベルタン村のシャンベルタン畑)
「モンラッシェ」(ピュリニー・モンラッシェ村のモンラッシェ畑)

第1級 Premier Cru
特級と同様、畑の中の特定の区域が対象で、その畑でとれたブドウだけを使ったワインで、ラベル表示は、その村の名前を表記し、その下に小さく「Premier Cru」「1er Cru」と付けるか、「畑名」を付ける。
「ジュヴレ・シャンベルタン・クロ・サン・ジャック」
(ジュヴレ・シャンベルタン村のクロ・サン・ジャック畑)
「ピュリニー・モンラッシェ・フォラティエール」
(ピュリニー・モンラッシェ村のフォラティエール畑)
ボルドーの第1級との混同を避けるため、「プルミエ・クリュ」と呼ぶ。

村名ワイン AOC Communal
同じ村の畑でとれたブドウを使い、同じ村の範囲であればブレンドしてもよいが、他の村との混合は許されない。
「ジュヴレ・シャンベルタン」
(ジュヴレ・シャンベルタン村の産)
「ピュリニー・モンラッシェ」
(ピュリニー・モンラッシェ村の産)

一般広地域名ワイン AOC Bourgogne
ブルゴーニュ全域で造られるワイン。
「ブルゴーニュ」
「ブルゴーニュ・パストゥグラン」(ガメイ種とピノ種のブレンド)、「ブルゴーニュ・アリゴテ」(アリゴテ種を使った白)