国吉康雄 (アメリカで蘇る日本人画家)

国吉康雄 (1889年9月1日 – 1953年5月14日)は、岡山県出身の20世紀前半にアメリカ合衆国を拠点に活動した洋画家。2015年ワシントンにあるスミソニアン美術館で、5か月におよぶ大回顧展が開かれ注目を集める。もの憂げな表情が印象的な代表作「もの思う女」は、世界恐慌に揺れる混乱のニューヨークで描かれた。

はかなげだが強い意志を秘めたその女性は、不安を抱えて生きる人々の心をつかんで離さなかった。1920年代から活発に作品を発表し始め、茶色を基調としながら、平面的で幻想的な画面のなかに、人物や動物が素朴な表情で描かれる。人種差別、太平洋戦争、戦後のいわゆる赤狩り、次々に押し寄せる苦難の中で、国吉は傑作を残す。

国吉康雄年譜

1889
岡山市中出石町に国吉宇吉、以豊の長男(一人子)として生まれる。
1896
岡山市弘西尋常小学校(4年制)に入学、卒業後内山下高等小学校(4年制)に進学。
小説家・随筆家である内田百閒と同級。
1904
岡山県立工業学校染織科に入学。日露戦争起こる。
1906
岡山県立工業学校を退学し、渡米。様々な肉体労働を重ねながら英語を学ぶ。
1910
飛行家を志し一時訓練を受けるが断念し、画家を志しニューヨークに移る。雑役労働に追われながらも美術学校を転々とし、断続的に勉強を続ける。
1914
インディペンデント・スクール・オブ・アーツに入学、2年聞学びヨーロッパ美術の新しい傾向に触れる。
1916
アート・ステューデンツ・リーグでケネス・ヘイズ・ミラーに師事。
1917
独立美術家協会第一回展に出品。前衛的な画家集団ペンギン・クラブに加わる。
1918
アメリカ現代美術のパトロン、ハミルトン・イースター・フィールドの援助を受ける。
1919
キャサリン・シュミットと結婚。生計を立てるため写真家としても働く。
1921
ニューヨークのダニエル画廊と契約。以後10年間、国吉は同画廊で作品を発表する。
1924
移民制限法が制定され、以後日本人の米国への移民は全くできなくなる。
1925
妻とともに渡欧。
1928
妻とともに再渡欧、石版リトグラフを制作。対象から直接描く方法へ転換。
1929
パスキンと交友するも、ニューヨークに戻る。ニューヨーク近代美術館の「19人の現代アメリカ作家展」の出品作家に選ばれ、アメリカ画壇での地位を確立。ウォール街の株価大暴落、大恐慌始る。
1931
病気の父を見舞うため日本へ帰る。岡山、東京、大阪で個展を開催。満州事変起こる。
1932
日本から帰国。キャサリンと離婚。
1933
アート・ステューデンツ・リーグの教授に就任、亡くなるまで20年間、この識にあった。
1935
サラ・メゾと結婚。35ミリ判ライカ・カメラを購入。
1936
アメリカ美術家会議が結成され重要なメンバーとして活動。
1939
進歩的美術家による非公式の協会「アン・アメリカン・グループ」の会長に選ばれる。第二次世界大戦勃発。
1941
大平洋戦争勃発、国吉の身分は「外国人居住者」から敵性外国人」となり、行動の自由を一時束縛される。西海岸の日系人は強制収容所に隔離される。
1942
日本に向けての戦争終結を呼びかける短波無線放送の原稿を書く。
1944
「合衆国の絵画1944」で≪110号室≫が一等賞を受賞。
1947
芸術家組合の初代会長に就任、1951年まで勤める。
1948
ウィットニー美術館で≪国吉康雄回顧展≫が開催される。
1952
ヴェネツィア・ビエンナーレのアメリカ代表に選出される。
1953
移民帰化法が議会を通過し、アメリカ市民権を得ることがてきるようになったが、市民権を得る直前の5月14日に胃癌のため死去。

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