山崎川 (名古屋市)

山崎川は、延長12.4 kmの二級水系山崎川の本流で、千種区の平和公園内にある猫ヶ洞池などに源を発し南西方向の昭和区、瑞穂区、南区へと流れ、港区で名古屋港へ注ぐ。

最上流部の千種区池上町から千種区本山付近までは昭和50年代初頭に暗渠化され、その後鏡池通付近の区間も暗渠化され、川が姿をあらわすのは、千種区本山から鏡池通までの稲舟通沿い、田代本通を越えた大島町付近以降である。

瑞穂公園のある中流域までの川沿いに広範囲に渉って桜の木が植えられ「山崎川四季の道」として日本さくら名所100選にも選ばれ、市内屈指の桜の名所である。

1987年(昭和62年)には旧・建設省から「ふるさとの川モデル河川」に選ばれている。

約1万年前の縄文時代は、現在の瑞穂陸上競技場付近が河口であったが海面の後退や土砂の堆積によって、平安時代には現在の新瑞橋付近が河口になっていたと推定されている。
江戸時代には下流部で新田開発が進んで次第に流路が延長された。

1959年(昭和34年) – 伊勢湾台風で破堤
1987年(昭和62年)- 「ふるさとの川モデル河川」に認定
1995年(平成7年) – 「山崎川親水広場」を整備

小豆島

瀬戸内海に浮かぶ温暖な気候の小豆島。日本のオリーブ発祥の地、小豆島オリーブ公園は「ギリシャ風車」がシンボルで、 オリーブ記念館の2階のハーブカフェオリヴァスでは、オリーブオイルやハーブをふんだんに使った料理が楽しめる。

寒霞渓は、「日本三大渓谷美」のひとつに数えられる名勝地で、垂直にそそりたつ岩壁は大自然の造形美の極地、ロープウェイでの空中散歩は小豆島観光のハイライトコースで春は新緑、秋は紅葉と、四季を通じて多くの人が訪れる。

小豆島の醤油は長い歴史を持つ伝統産業で、昔ながらの黒い板壁の醤油蔵や佃煮工場がずらりと並ぶ「醤(ひしお)の郷」では、醤油や佃煮のソフトクリームも。

1日2回の干潮時に現れる砂州の道、「天使の散歩道」エンジェルロードで大切な人と手をつないで渡ると願いがかなうとか?

映画「二十四の瞳」のロケ用オープンセットを改築した二十四の瞳映画村では
昭和初期にタイムスリップしたかのような懐かしい時が流れる。

クロード・モネ(Claude Monet )

時間や季節とともに、移りゆく光と色彩の変化を生涯にわたり追求し、「光の画家」の別称があるる。

印象派グループの画家のなかでは最も長寿を全うし、20世紀に入っても『睡蓮』の連作をはじめとした多数の作品を残した。

他の印象派の画家は、やがて印象派の技法を離れて独自の道を進んだが、終生印象主義の技法を追求し続けた典型的な印象派の画家と言われる。

1840年11月14日、パリに生まれるも、父とともにノルマンディー地方の港町ル・アーヴルに移住し、早くから画才を示しデッサンや諷刺画を描く。

1859年、本格的な絵画修行をするためにパリに戻り、ピサロ、バジール、ルノワール、シスレーらと交遊し、印象主義の揺籃の地であるパリ北郊のセーヌ河畔で戸外制作に励む。

1874年、「画家・彫刻家・版画家等無名芸術家協会」(第1回印象派展)を開催。
モネの《印象・日の出》に対する揶揄から「印象派」の呼称が誕生する。

1883年、ジヴェルニーに定住し、《積み藁》《ポプラ並木》など、数々の連作を制作。

最晩年には眼病と戦いながらオランジュリー美術館で睡蓮の大作と取り組、1926年12月5日、ジヴェルニーにて没。

三重県津市、偕楽公園、津城

偕楽公園

1859年(安政6年)、津藩第11代の藩主、藤堂高猷の別荘「御山荘」を起源とする。自然そのままの起伏に池や橋、岩を配して回遊路がつけられ、古くからミツバツツジの名所として知られる。

津市の古称は安濃津で、別名を安濃津城と言われ城郭構造は輪郭式平城である。津は平安時代より伊勢国政治経済の中心地で、鎌倉時代は藤原南家の流れの工藤氏を祖とする長野氏が支配した。

津城の起源時代、永禄年間(1558年 – 1569年)に長野氏の一族の細野藤敦が小規模な安濃津城を構えたことに始まる。

慶長13年(1608年)、伊予今治藩より藤堂高虎が入城し城の大改修に着手し、輪郭式の城郭に変貌させて城下町を整備した。以後、明治維新まで藤堂氏の居城となる。

明治4年(1871年)、廃藩置県により廃城となり建造物は破却され、その後、「お城公園」として本丸跡に日本庭園が整備される。
本丸跡の日本庭園入口には、藩校有造館の正門の入徳門が移築現存する。

金沢城公園

天正11(1583)年に前田利家が金沢城に入ると、その直後から本格的な城づくりが始められ、高山右近を招いて築城の指導を仰いだと伝えらる。この頃に西丁口から尾坂口へと大手が変更された。当時は城内に重臣たちの屋敷があり広い城ではなかった。

慶長7(1602)年に落雷により天守閣が焼失した後は天守閣は再建されることはなく、本丸には三階櫓、二の丸には御殿が建てられた。

寛永8(1631)年の火災の後は、二の丸の拡大や辰巳用水の通水などにより城のし、武家屋敷も城外へと出され、。内堀を掘り、土を掻き上げて各曲輪が区画されていった。

宝暦9(1759)年の火災で城のほとんどが焼失し、実用性を重んじて二の丸を中心とした整備が行われ、本丸の櫓は再建されなかった。現存する石川門は、この後、天明8(1788)年に再建された。

文化5(1808)年、二の丸火災の後再建され明治14(1881)年の火災で焼失した菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓は平成13年に復元され、安政の頃の景観を再現した。

カナリア諸島 テネリフェ島

1年中温暖な気候で豊かな自然が残り、ハワイ、ガラパゴス諸島に並ぶ自生種が生息する。

ローマ時代からすでにカナリア諸島の存在は知られ、15世紀までヨーロッパ最古の石器文化を営むグアンチェ族(北アフリカのベルベル系の部族)が原住民として暮らした。

コロンブスも寄港し、アメリカ大陸への中継地として発展し、15世紀の旧都ラ・ラグーナとガラホナイ国立公園の世界遺産、その他歴史ある街、カナリア音楽や、舞踊など独自の文化や習慣が存続した。

テネリフェ島は諸島最大の島で、スペイン最高峰のテイデ山(3,718m)がそびえるテイデ国立公園がある。

サンタ・クルス・デ・テネリフェはラ・ラグーナという世界遺産の旧都で、現在は大学の街、産業の中心地であり活気にあふれる。
緑が多くワインの生産が盛んで、豪華客船も寄港する。

カナリア諸島 グラン・カナリア島

「常春の楽園」、「大西洋のハワイ」と言われるカナリア諸島は、スペイン本土から南に約1,000km、モロッコやサハラが近い北アフリカ大西洋沖に位置し、奄美大島とほぼ同緯度に並ぶ。

スペインの自治州で、総面積は約7447k㎡、ほぼ宮城県と同じ大きさで人口は約190万人ほどの火山性の7つの島々から構成される。

グラン・カナリア島のラテン語名は「Insula Canaria」で、「犬の島」の意であり、複数形「Insulae Canariae」で諸島全体を表す。州の紋章には、7つの島々をはさんで一対の犬が描かれる。

「犬の島」の由来としては、かつて生息していたアザラシ(ラテン語で「海の犬」と呼ばれる)に由来するとする説、古代ローマの学者大プリニウスが、島に多くの野犬がうろついていることを最初に伝えたことによるとする説など諸説ある。
鳥の一種カナリアも原産地のひとつである本島に因むという。

行政的には西側4島、(テネリフェ島、ラ・パルマ島、ラ・ゴメラ島、エル・イエロ島)のサンタ・クルス・デ・テネリフェ県と、東側3島(グラン・カナリア島、フエルテベントゥーラ島、ランサローテ島)のラス・パルマス県の2県に分かれ、両県でカナリア自治州を構成し、州都は、サンタ・クルス・デ・テネリフェ、および ラス・パルマス・デ・グラン・カナリアの二つ。

自由貿易港や高級リゾートとして発展し、日本の重要な遠洋漁業基地、日本領事館もあり、非核地帯を宣言をしたグランカナリア島のテルデ市の広場には、スペイン語で書かれた日本国憲法第9条の碑が建てられている。

カナリア諸島の他に、カーボベルデ、マデイラ諸島、アゾレス諸島なども含めたこの地域は通例マカロネシアと呼ばれる。

釧路湿原

釧路平野に位置する日本最大の湿原で面積は18,290ha、湿原の中を釧路川が大きく蛇行しながら流れる。

湿原の大部分はヨシ、スゲ湿原でミズゴケ湿原も一部あり、食虫植物のモウセンゴケやコタヌキモが生育する。

タンチョウやエゾセンニュウ、ベニマシコなど、多くの鳥類の繁殖地・休息地となっていて、タンチョウは冬には釧路湿原へ戻ってきて越冬する。

日本最大の淡水魚であるイトウやキタサンショウウオなどの希少な動物も多くい自然の残る領域である。

JR釧網本線は一部の区間が湿原内を通るので、列車に乗車したまま湿原の観察ができる。