日本最西端の島、与那国島

与那国島の観光資源としてはカジキ釣り、ダイビングがある。

人気のあるダイビング・スポットで、現在「遺跡ポイント」と呼ばれている新川鼻沖の海底で、1986年にダイバーによって海底に巨大な一枚岩が発見された。

周囲数百メートルに及ぶ巨大なもので人工的に切り出したような跡も認められ、人が歩くことができそうな通路状の隙間、階段状の壁、柱が立っていたと思わせる穴など、加工しなければできないかのように思われる形状を備えているという。

道路、石組み、敷石、排水溝などと推定される地形で、巨石の組み合わせが存在するため遺跡とする説もある。

一方、与那国島では焚火跡、石器、土器を含む紀元前2500年-2000年の小規模な居住地の遺跡が発見されてはいるが、その当時の住民には石造記念物を建造する余力はなかったであろうと考え、岩が侵食されてできた自然地形であるとする説もある。

いずれにしても与那国島の重要な観光資源である。

安里屋ユンタ・・・与那国島を一周

長久手古戦場公園

1584年、秀吉と家康の間で行われた戦、小牧・長久手の戦い。
史跡は広範囲にわたるが、その主戦場跡地の公園である。
池田恒興とその長男の元助の戦死の場で大きな塚が造られている。

戦死した将兵に心を痛めた僧侶が屍を集めて塚を築き供養した。
毎年合戦の日に香華がたむけられ法要が営まれたという。

合戦の後、血の付いた愛刀や槍を洗い清めた池という血の池は埋め立てられ、緑も美しい公園に姿を変えた。

さとうきび畑・・・長久手古戦場公園

東谷山、東谷山フルーツパーク

標高198 mの東谷山(とうごくさん)は、名古屋市守山区と瀬戸市との境界に位置した名古屋市最高峰の山で、2010年4月には国の特別天然記念物であるニホンカモシカの生息が確認された。

山頂には延喜式記載の古社である尾張戸神社、また熱田神宮の奥の院として古来より信仰を集めた。

山麓には尾張戸神社古墳・中社古墳・南社古墳・白鳥塚古墳など、東谷山古墳群・上志段味古墳群と総称される尾張地区最大規模の古墳群がある。

南山麓には愛知県森林公園の丘陵地、南西山麓には東谷山フルーツパークがある。東谷山フルーツパークは、果樹を中心とした植物観察や散策、果樹栽培の講習・相談など、多目的な利用がされ、春や秋には各種イベントも行われる。

1980年4月開園で、世界の熱帯果樹温室、果樹園(アンズ、イチジク、ウメ、カキ、キーウィ、クリ、スモモ、ナシ、ビワ、ブドウ、ブルーベリー、モモ、ミカン、リンゴの各園)があり、約1000本のシダレザクラもある。

 
ムーンライトセレナーデ・・・東谷山フルーツパークから瀬戸に

旧本多忠次邸・岡崎東公園

本多 忠勝、(通称を平八郎、本姓は藤原氏)は徳川氏の家臣で、徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられる。
上総大多喜藩初代藩主、伊勢桑名藩初代藩主で、忠勝系本多家宗家初代である。

旧岡崎藩主、本多家(忠勝系)の子孫である本多忠次(1896‐1999)が、昭和7年に東京世田谷に建築した住宅を岡崎東公園に移築して復原した。日本の伝統と西洋への憧れの美意識が混在した建物である。当時の最新であった和洋折衷の間取り、オリジナルの家具や照明、ステンドグラス、タイル装飾は日常と非日常の世界を織りなしノスタルジックでもある。

今の東京世田谷は、お洒落な住宅地だが、戦前、この屋敷の完成した昭和7年は、田園風景も残り当時の都会人の間の田園ブームに乗って建てたのか。
この忠次なる人は、卓越したセンスの持ち主のようで、屋敷、家の設計、家具調度の隅々に至るまで本人のデザインという。
イスラム文化の影響も混在するスパニュッシュ様式を基調とし、屋敷と噴水がセットになっている。

岡崎東公園は、面積26.91ヘクタールで、およそナゴヤドーム約5個分の敷地の公園で動物園、花菖蒲園が設置されている。
岡崎市出身の世界的な地理学者志賀重昮ゆかりの釈迦堂、南北亭、三河男児の歌碑や、鋼鉄研究の世界的権威者である本多光太郎の勉強部屋も、この公園内に移築されている。

Adagio de la sonate pathetique L.V.Beethoven・・・旧本多忠次邸・岡崎東公園

旧東海道、有松宿

有松の町並みは東のまつのね橋から西の祇園寺までで、殆ど直線的であるが大きく緩く蛇行する。約800mの旧東海道に沿う商家町でどれも平入りで大きく重厚。 東海道53次の宿駅、池鯉鮒宿(知立)と鳴海宿の間は僅かに12kmだが、松林が茂り、人家もなく、追い剥ぎ、強盗などが出たため、尾張藩は旅人の安全を図るため、「間の宿」として造った。

慶長13年(1608)に免税の特権をつけ移住者を募り、最初の移住者は知多郡阿久比村からきた竹田庄九郎以下8人で有松は誕生する。 名古屋城の築城に豊後国から来ていた人たちが着用していた絞り染めの着物をヒントに竹田庄九郎は絞りの技法を研究する。 豊後高田藩主の侍医三浦玄忠の妻により豊後絞りの技法が伝授されて、今に伝わる三浦絞り(有松絞り)となる。

尾張藩の保護のもと元禄年間(1688~1704)以降絞り業はめざましく発展し藩の特産品として東海道を代表する名物となり、東海道を行き来する人々に売り込んだ。格子前の広い空間が、店頭販売で栄えた面影を残している。 十辺舎一九の東海道中膝栗毛の中では、やじさん、きたさんが有松で買い物をしたと書かれ、語り継がれている。 正式な宿場ではない有松は、旅人の停留する所ではないので、東海道五十三次の一つであった鳴海宿においても販売が行われ、江戸では専ら「鳴海絞り」と呼ばれていた。

天明4年(1784)の大火で、殆ど全戸が焼失する。これを機会に防火建築が取り入れられ、屋根を茅葺きから瓦葺に、塗り込め造りのナマコ壁とした。 この結果、豪壮な商家が建ち並ぶ町並みが形成された。

Raindrops keep fallin on myhead・・・東海道、有松宿

岐阜歴史公園、金華山

岐阜市にある金華山、旧名稲葉山は標高329m。 地質的には古生代のペルム紀から中生代の三畳紀に堆積したチャートで形成され、非常に固い。 岐阜市は標高10m程度の平野だが、そびえ立つ山となって残ったと考えられている。

金華山山麓にある都市公園の岐阜公園には、岐阜城・金華山、金華山ロープウェー、岐阜市歴史博物館、加藤栄三・東一記念美術館、名和昆虫博物館、円空美術館があり、2006年に「日本の歴史公園100選」に選ばれている。

岐阜事件 1882年(明治15年)4月6日に岐阜で、自由党党首板垣退助が暴漢、相原尚褧に襲われた。「板垣死すとも自由は死せず」の由来となった事件として知られる。

織田信長は、斎藤龍興から奪取した稲葉山城の縄張りを破却し、新たに岐阜城を造営した。城跡は岐阜城跡として国の史跡に指定されている。

『信長公記』に、「尾張国小真木山より濃州稲葉山へ御越しなり。井口と申すを今度改めて、岐阜と名付けさせられ」と記載されている。

金華山の登山道

  • 七曲り:家族向き、金華山ドライブウエー入口から登りはじめ、距離は約1500m。
  • 百曲り:健脚者向け、距離は約1100m。
  • 馬の背:健脚者向け、距離は約1000m。途中四つん這いになって登らなくてはならないところがあり、下りは危険を伴う。
  • めい想の小径:眼下に長良川を、北方には北アルプス・御嶽山を眺めながらの登山。距離は約2300m。
  • 東坂:健脚者向け、距離は約1000m。
  • 達目洞:距離は800m、道は広くない。
  • 鼻高:健脚者向け、距離は約1500m。

Prelude en de J.S.bach・・・岐阜歴史公園、金華山登山(めい想の小径),天守閣からの眺望、金華山ロープウェイ、柳ヶ瀬

旧東海道、御油 赤坂宿

付近の案内図

「姫街道」の案内標識があります。

「姫街道」の正式名は「本坂通」で、東の見付宿から西の御油追分まで、浜名湖の北側を通るルートで、古代は官道でもあった。

延暦20年(801)には、征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷征服のために浜名湖北側を通った記述もあるという。

また、延元4年(1339)に足利尊氏、天正元年(1573)には武田信玄が、徳川家康も遠州攻略の為の軍勢が通過している。

三代将軍徳川家光も2度通っていて、東海道の「脇往還」と言われているが、この「姫街道」は「脇街道」ではなく、海路の「七里の渡」に対する陸路の「佐屋路」と同様に、東海道の付属街道と考察される。

江戸時代、主街道の管理・支配は幕府、道中奉行、勘定奉行が行い、 「姫街道」は五街道と同じく、道中奉行が管理していた重要な道。

御油宿は東海道五十三次の35番目の宿場町で、本陣4、旅篭62、本陣が4軒もあり、東海道の宿場のなかでも大きな宿場であった。

御油の松並木は、慶長9年(1604)、徳川家康が植樹させたもので御油宿と赤坂宿の間の600mに現存する。

松の本数は当初推定650本であったが、次第に減少し今では百数十本まで落ち込んだ。

松並木の保護育成が行われ、「日本の名松百選」にも選ばれている。

昭和19年(1944)11月7日、国指定の天然記念物となる。

大橋屋は赤坂宿の佇まいを今に伝える老舗、創業江戸中期とされる宿。

安藤広重の「東海道五十三次・赤坂宿舎招婦図」のモデル。

芭蕉が宿泊し、句を読んだともいわれている。

元の屋号は「伊右ェ門鯉屋」、市指定文化財となっている。

平成27年3月1日より宿泊できなくなる予定。

夏の月 御油より出でて 赤坂や

延宝4年作、芭蕉33歳。

Sans toi m’amie・・・旧東海道、御油 赤坂宿

国営木曽三川公園 中央水郷地区(中流)

国営木曽三川公園は、木曽三川下流域一帯、愛知県・岐阜県・三重県にわたる、日本最大の国営公園。佐屋から西方に4キロほどに、1987年10月に開設された国営木曽三川公園の木曽三川公園センターがある。

三派川地区(上流)
138タワーパーク(三派川地区センター・愛知県一宮市)
ツインアーチ138(有料)
かさだ広場・各務原アウドドアフィールド(岐阜県各務原市)
芝生広場、野草広場、ネット広場
河川環境楽園(岐阜県各務原市)
木曽川水園・自然発見館
岐阜県営公園 世界淡水魚園(オアシスパーク)
フラワーパーク江南(江南花卉園芸公園)(愛知県江南市)

中央水郷地区(中流)
ワイルドネイチャープラザ(愛知県稲沢市)
長良川サービスセンター(岐阜県海津市)
アクアワールド水郷パークセンター(岐阜県海津市)
木曽三川公園センター(岐阜県海津市)
水と緑の館(有料、ジオラマ小劇場、特別展示室、展望タワー)
花壇
水屋(輪中の農家)
東海広場(愛知県愛西市)
船頭平河川公園(船頭平閘門一帯・愛知県愛西市)
カルチャービレッジ(三重県桑名市長島町)
輪中ドーム
輪中の郷
桜提サブセンター(仮称)(岐阜県羽島市)

河口地区(下流)
(施設は未設置)

太古の地形

長島から大垣市や岐阜市まで、自然の坂道のない、平らな地面が広がっている。大昔、濃尾平野の西南部は伊勢湾が入り込んでいた海だった。

浅い海に土や砂が運ばれて山沿いに平らな土地が広がり、川の中州や海の中に島のようなものができた。

木曽三川下流に住む人が、堤防を守ったり、水の管理をするための輪中。
100年以上前には80以上の輪中があったという。
田畑を守るために堤防を作りまわりの地面よりも高く安全な堤防の上に家を建て、堤防以外の土地はほとんどが田になる。
今も輪中地域の家のほとんどは、昔堤防だった高いところに列状に並ぶ。

輪中がいつ作られたかについては、千年以上も前という説、七百年ほど前という説、四百年ほど前という説などある。
長島では四百年ほどの前の地図が残っているので、少なくともそれよりも前には輪中が作られていたことが分かる。

太陽がいっぱい・・・国営木曽三川公園 中央水郷地区(中流)

水の都、大垣

大垣城は、1500年(明応9年)に竹腰尚綱によって揖斐川(牛屋川)東河岸にあった牛屋に築かれたと伝わり、当時は、牛屋城と呼ばれていたとされる。

織田氏、斎藤氏、織田氏と支配権が移り、1588年(天正16年)、若しくは 1596年(慶長元年)頃、改築が行われ天守が築かれたとされる。

1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いの際には、当時城主であった伊藤盛宗は西軍に属したため、石田三成らが入城して西軍の根拠地となる。

関ヶ原の本戦で西軍が敗北すると東軍に攻囲され落城し、そのときの逸話が『おあむ物語』として残っている。

江戸時代に入り、譜代大名として石川康通が城主となり、その後1635年(寛永12年)に戸田氏鉄が城主となって以降、明治に至るまで大垣藩、戸田氏の居城となる。

明治29年(1896年)7月21日の洪水で、木曽三川沿岸で堤防破堤が生じなかったのは、加納輪中・森部輪中・牧輪中の三輪中のみで、最大の湛水深さは14尺(4.2m)に及び、大垣城天守の石垣も水没した。

おくの細道むすびの地

芭蕉は元禄2年9月6日、大垣で「おくの細道」を結ぶ。
木因亭前で乗船、如行始め大垣俳人に送られ「蛤のふたみに別れ行く秋ぞ」の句をのこした。

元禄7年10月、「病中吟」と称して、「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」

この句が事実上最後の俳諧となる。

夜ごとの夢・・・水の都、大垣

桑名城址、九華公園

熱田・宮の渡しを出て海路を七里、東海道の42番目の宿場町、桑名宿に着く。桑名市街の東端で、揖斐川に臨む水城は交通の要所であった。

この大鳥居は、これより伊勢路に入ることから、「伊勢国一の鳥居」と称され周辺の街並みは今も港宿場街の面影を残す。

歌川広重の東海道五十三次「桑名」には、往時の城が描かれているが、城跡には現存する建造物はなく石垣、堀が残るのみで、現在は桑名城址九華公園として整備されている。

かつて戦国時代の桑名の地には土豪が蟠踞し、伊藤武左衛門の東城、樋口内蔵の西城、矢部右馬允の三崎城と、桑名三城と呼ばれる城があった。現在の桑名城址九華公園は東城があった辺りとされる。

桑名城の略史

天正2年(1574年)、織田信長がこの地を征し、武将の滝川一益が三城を配下に置く。
豊臣秀吉の時代は、神戸信孝、天野景俊、服部一正、一柳直盛、氏家貞和、松平家乗と、支配者は目まぐるしく入れ替わる。

慶長6年(1601年)、徳川家康により、徳川四天王の一人本多忠勝が桑名10万石に封じられ、忠勝は揖斐川沿いに城郭を建造し船着場も整備した。4重6階の天守、51基の櫓、46基の多聞が立ち並んだという。

元和3年(1617年)、松平定勝が入城する。
元禄14年(1701年)、松平定重の時代には桑名市街地の過半を焼く大火。
これにより天守を焼失する。
宝永7年(1710年)、松平(奥平)忠雅が入城し7代続く。
文政6年(1823年)松平(久松)定永が入城し久松家の再入城となる。

幕末には、松平容保の実弟、松平定敬が藩主となり、兄と共に京都の治安を預かるが、慶応4年(1868年)鳥羽・伏見の戦いに敗れた旧幕府軍と共に、定敬も江戸に向かった。

かくして、藩主不在の桑名城では、抗戦か恭順か激論となるが、結局は無血開城する。政府軍はこの際に桑名城を全て焼き払い開城の証とした。

ひき潮・・・桑名城址、九華公園