大垣市、守屋多々志美術館

岐阜県大垣市出身の日本画家、守屋多々志 (1912年(大正元年)8月10日 – 2003年(平成15年)12月22日)。

日本美術院において、昭和から平成にかけて活躍し、戦争従軍時、イタリア留学時を除いてほぼ毎年の出品。

作風は歴史と古典への深い教養に根ざした「歴史画」で、武者絵を中心に背景に金泥を使うなど豪壮な作品も見受けられる。

イタリア留学以前は日本古来の大和絵を意識した構成、筆遣いで描き、留学後しばらくは洋画を意識した重厚なマチエールで描き、以後も絵具を厚塗りした作品を多く描く。

名古屋広小路通りの今昔

名古屋のメインストリートとも言える広小路、その名称は、1660年(万治3年)の「万治の大火」を教訓にして、道幅を3間(約5m)から約15間(約27m)に広げた事から付いたという。

今の道幅はこの頃から変わっていないようだ。当時は見世物小屋や茶屋が並び、大道芸人も出て大変賑わった事がうかがい知れる。

「広ぶらHISTORY」という広小路の歴史が書かれた案内板が設けられている。
かつては市電が走り、歩行者で混雑した広小路も、今では地下鉄や地下街の整備により歩行者も減少した。

道路の中央分離帯の照明塔は、昭和40年代に設置され、通称「ねぎぼうず」と呼ばれる。かつては広小路全体に設置されていたが、現在はその一部がシンボルとして残され、照明はLED化されている。

栄交差点から約300m程歩いた所にある「朝日神社」は、1611年(慶長16年)、
清州城から名古屋城に城下町ごと移転した「清州越し」の際に朝日村から移転されてきた。以来、広小路神明宮として親しまれ、広小路に面して立つ透垣は、向かい側にあった尾張藩牢屋の「不浄除け」として建てられたと言われる。

2009年まで三菱東京UFJ銀行貨幣資料館として利用されていた鉄骨鉄筋コンクリート造・5階建のビルは、1926年(大正15年)に建てられた名古屋銀行本店(東海銀行の前身の一つである、現在の名古屋銀行(旧・名古屋相互銀行)とは別会社)であるが、名古屋市都市景観重要建築物に指定されている。

伏見交差点の東、三井住友銀行伏見支店は1935年(昭和10年)に三井銀行名古屋支店として建てられた新古典主義の銀行建築で、花崗岩でできた外観は荘厳な感じがする。都市景観重要建築物に指定されている。

道路を隔て西側には、現在、経営上の問題から建て替え中の「御園座」がある。1896年(明治28年)に設立された名古屋劇場株式会社の劇場で「芸どころ名古屋」の象徴的存在と言える。
「御園」の名前は古く、1611年(慶長16年)の「清州越し」の際、清洲城下の「御簾野町」が移転した後に、初代藩主・徳川義直公の命により表記を改めたと伝えられる。

栗林公園 (香川県高松市)

香川県営の都市公園、栗林公園は、国の特別名勝にも指定される歴史公園、回遊式大名庭園である。

2009年3月16日発売の『ミシュラン観光ガイド』で、「わざわざ訪れる価値のある場所」として最高評価3つ星に選定された。

ソメイヨシノを中心に約330本の桜があり、県下屈指の花見どころでもあり「桜と松」の調和が美しいことでも有名である。

桜の種類も多く、ソメイヨシノ、ヒガンザクラ、ヤマザクラや、春と秋の2回花をつける十月桜などがある。

栗林公園は、16世紀後半、元亀天正の頃、当地の豪族佐藤氏によって築庭されたのに始まる。

寛永年間、1625年頃に、当時の讃岐国領主・生駒高俊公によって南湖一帯が造園され、現在の公園の原型が形作られた。

その後、生駒氏の転封に伴い入封した初代高松藩主・松平頼重公(水戸光圀公の兄君)に引き継がれ、さらに100年以上経た延享2年(1745年)、5代頼恭公の時に、園内六十景命名をもって完成。

以来歴代藩主が修築を重ね、明治維新に至るまでの228年間、松平家11代の下屋敷として使用された。

明治4年、1871年に高松藩が廃せられ、新政府の所有となり、明治6年1月公布された「公園に関する太政官布告」に基づき、明治8年(1875年)3月16日に県立公園として一般に公開されるようになる。

昭和28年3月には、文化財保護法による「特別名勝」に指定され今日に至る。

札幌市時計台

1878年(明治11年)、札幌農学校敷地内に演武場(武芸練習場・屋内体育館)として建設され、1906年(明治39年)に移設されるまで、現在の位置よりおよそ130m北東に位置した。

札幌市の歴史的建造物であり、国の重要文化財に指定されて、正式名称は「旧札幌農学校演武場」と称され、通称として「札幌時計台」単に「時計台」と呼ばれることも多い。

非公式キャラクターとして「時計大臣」があり、さっぽろテレビ塔の非公式キャラクター「テレビ父さん」の仲間である。

現在は鐘の音も高層ビルに阻まれ、時計台周辺でしか聞こえない。

周囲をビルに囲まれているため、その景観などの理由により「日本三大がっかりスポット」と称されることもあるという。

軍艦島(端島:長崎県長崎市)

長崎県長崎市(旧高島町)にある端島は軍艦島の通称で知られる。

明治時代から昭和時代にかけて海底炭鉱によって栄え、東京以上の人口密度を有していたが、1974年(昭和49年)の閉山にともない島民が島を離れてからは無人島である。

端島の名がいつごろから用いられるようになったのか正確なところは不明だが、『正保国絵図』には「はしの島」、『元禄国絵図』には「端島」、『天保国絵図』にも「端島」とある。

端島での石炭の発見は、一般に1810年(文化7年)のこととされるが、江戸時代の終わりまでは漁民が漁業の傍らに「磯掘り」と称し、ごく小規模に露出炭を採炭する程度であったという。

1890年(明治23年)、端島炭鉱の所有者であった鍋島孫太郎が三菱社へ譲渡し、端島はその後100年以上にわたり三菱の私有地となり、この頃から基本的な居住環境が整備され、島の周囲が段階的に埋め立てられた。

1916年(大正5年)には、日本で最初の鉄筋コンクリート造の集合住宅「30号棟」が建設され、「軍艦島」の通称は大正時代ごろから用いられるようになったとみられる。

1970年代以降のエネルギー政策の影響を受け、1974年(昭和49年)1月15日に閉山し、端島は無人島となった。

「九州・山口の近代化産業遺産群」の一部として、世界遺産暫定リストに追加記載されることが決まり、2009年(平成21年)1月に記載された。

島内全域を撮影した端島のGoogle ストリートビューが、2013年6月28日に公開された。

車折神社(くるまざきじんじゃ)


嵐山、渡月橋から徒歩で15分ほどの処、京都市右京区嵯峨朝日町23に車折神社(くるまざきじんじゃ)がある。「車裂」「車前」とも書き、祭神は、平安時代後期の著名な漢学者・儒学者の清原頼業とされる。

頼業が文治5年(1189年)に亡くなると、清原家の領地であった現在の鎮座地に廟が設けられ、後に、頼業の法名にちなみ「宝寿院」という寺が建立され、後に天龍寺の末寺となる。

社名の「車折」については、ある人が牛車に乗ったまま社前を通った所、突然車が裂けてしまったためとか、後嵯峨天皇の大堰川遊幸の際、社前で突然車が前に進まなくなったので不思議に思って社の者に問うた所、頼業公を祀ると答えがあったので還御の後に「車折大明神」の神号と正一位の神階を贈ったためとかの説がある。

境内社の芸能神社は、日本最古の踊り子と言われる「岩戸隠れ」のくだりなどに登場する芸能の女神、天宇受売命を祀っていて、芸能、芸術の分野で活動する人々より崇敬を受けている。

山崎川 (名古屋市)

山崎川は、延長12.4 kmの二級水系山崎川の本流で、千種区の平和公園内にある猫ヶ洞池などに源を発し南西方向の昭和区、瑞穂区、南区へと流れ、港区で名古屋港へ注ぐ。

最上流部の千種区池上町から千種区本山付近までは昭和50年代初頭に暗渠化され、その後鏡池通付近の区間も暗渠化され、川が姿をあらわすのは、千種区本山から鏡池通までの稲舟通沿い、田代本通を越えた大島町付近以降である。

瑞穂公園のある中流域までの川沿いに広範囲に渉って桜の木が植えられ「山崎川四季の道」として日本さくら名所100選にも選ばれ、市内屈指の桜の名所である。

1987年(昭和62年)には旧・建設省から「ふるさとの川モデル河川」に選ばれている。

約1万年前の縄文時代は、現在の瑞穂陸上競技場付近が河口であったが海面の後退や土砂の堆積によって、平安時代には現在の新瑞橋付近が河口になっていたと推定されている。
江戸時代には下流部で新田開発が進んで次第に流路が延長された。

1959年(昭和34年) – 伊勢湾台風で破堤
1987年(昭和62年)- 「ふるさとの川モデル河川」に認定
1995年(平成7年) – 「山崎川親水広場」を整備

小豆島

瀬戸内海に浮かぶ温暖な気候の小豆島。日本のオリーブ発祥の地、小豆島オリーブ公園は「ギリシャ風車」がシンボルで、 オリーブ記念館の2階のハーブカフェオリヴァスでは、オリーブオイルやハーブをふんだんに使った料理が楽しめる。

寒霞渓は、「日本三大渓谷美」のひとつに数えられる名勝地で、垂直にそそりたつ岩壁は大自然の造形美の極地、ロープウェイでの空中散歩は小豆島観光のハイライトコースで春は新緑、秋は紅葉と、四季を通じて多くの人が訪れる。

小豆島の醤油は長い歴史を持つ伝統産業で、昔ながらの黒い板壁の醤油蔵や佃煮工場がずらりと並ぶ「醤(ひしお)の郷」では、醤油や佃煮のソフトクリームも。

1日2回の干潮時に現れる砂州の道、「天使の散歩道」エンジェルロードで大切な人と手をつないで渡ると願いがかなうとか?

映画「二十四の瞳」のロケ用オープンセットを改築した二十四の瞳映画村では
昭和初期にタイムスリップしたかのような懐かしい時が流れる。

三重県津市、偕楽公園、津城

偕楽公園

1859年(安政6年)、津藩第11代の藩主、藤堂高猷の別荘「御山荘」を起源とする。自然そのままの起伏に池や橋、岩を配して回遊路がつけられ、古くからミツバツツジの名所として知られる。

津市の古称は安濃津で、別名を安濃津城と言われ城郭構造は輪郭式平城である。津は平安時代より伊勢国政治経済の中心地で、鎌倉時代は藤原南家の流れの工藤氏を祖とする長野氏が支配した。

津城の起源時代、永禄年間(1558年 – 1569年)に長野氏の一族の細野藤敦が小規模な安濃津城を構えたことに始まる。

慶長13年(1608年)、伊予今治藩より藤堂高虎が入城し城の大改修に着手し、輪郭式の城郭に変貌させて城下町を整備した。以後、明治維新まで藤堂氏の居城となる。

明治4年(1871年)、廃藩置県により廃城となり建造物は破却され、その後、「お城公園」として本丸跡に日本庭園が整備される。
本丸跡の日本庭園入口には、藩校有造館の正門の入徳門が移築現存する。

金沢城公園

天正11(1583)年に前田利家が金沢城に入ると、その直後から本格的な城づくりが始められ、高山右近を招いて築城の指導を仰いだと伝えらる。この頃に西丁口から尾坂口へと大手が変更された。当時は城内に重臣たちの屋敷があり広い城ではなかった。

慶長7(1602)年に落雷により天守閣が焼失した後は天守閣は再建されることはなく、本丸には三階櫓、二の丸には御殿が建てられた。

寛永8(1631)年の火災の後は、二の丸の拡大や辰巳用水の通水などにより城のし、武家屋敷も城外へと出され、。内堀を掘り、土を掻き上げて各曲輪が区画されていった。

宝暦9(1759)年の火災で城のほとんどが焼失し、実用性を重んじて二の丸を中心とした整備が行われ、本丸の櫓は再建されなかった。現存する石川門は、この後、天明8(1788)年に再建された。

文化5(1808)年、二の丸火災の後再建され明治14(1881)年の火災で焼失した菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓は平成13年に復元され、安政の頃の景観を再現した。