慶良間諸島

沖縄本島には「キラマー ミーユシガ マチゲー ミーラン」(慶良間は見えるがまつ毛は見えない。遠くは見えても自分の近くは見えない、灯台下暗しの意。)という諺がある。沖縄本島の那覇市から西に約40kmの東シナ海に点在する慶良間諸島(けらましょとう)は沖縄県に属し沖縄諸島に含まれる。

島数は36島で、このうち有人島は5島。
主要な島は、渡嘉敷島(15.31km²)、座間味島(6.66km²)で、行政上は渡嘉敷島を中心とする渡嘉敷村、座間味島を中心とする座間味村の2村に分かれる。世界でも有数の透明度という海であるため、スクーバダイビングやホエールウォッチングのポイントとして人気が高い。

また、ケラマジカは慶良間諸島に固有のシカで、ここにしか生息しない。このうち屋嘉比島、慶留間島に棲むものは天然記念物に指定されている。

オーベルジュ豊岡 1925

お菓子の神様「田道間守(タジマモリ)」を祀る地、豊岡。登録文化財に登録されている近代化遺産、兵庫県農工銀行豊岡支店(旧豊岡市役所南庁舎)を再生した施設が「オーベルジュ豊岡1925」である。昭和初期の近代建築のしつらえを残し、シンプル、かつ温かみのある客室全5室を備え、地域の食材を生かした絶品フレンチを提供するオーベルジュで、スイーツショップやBARも併設している。

テレビも冷蔵庫もなく、便利すぎる日常から離れた時間を感じることができる。椅子に座り自分と向き合ったり、手紙を書いてみたり、ゆったりとした時が過ぎる。レストランでは、但馬の地元農家や香住漁港から毎日仕入れる旬の食材をフレンチの技法で仕上げた ”但馬キュイジーヌ” が味わえる。

田道間守(たじまもり)は、記紀に伝わる古代日本の人物で、『日本書紀』では「田道間守」、『古事記』では「多遅摩毛理」「多遅麻毛理」と表記される。天日槍の後裔で、三宅連(三宅氏)祖。現在は菓子の神・菓祖としても信仰される。

『日本書紀』垂仁天皇紀によれば、垂仁天皇90年2月1日に田道間守は天皇の命により「非時香菓(ときじくのかくのみ)」すなわちタチバナ(橘)を求めに常世国に派遣された。しかし垂仁天皇99年7月1日に天皇は崩御する。


翌年(景行天皇元年)3月12日、田道間守は非時香菓8竿8縵(やほこやかげ:竿・縵は助数詞で、葉をとった8枝・葉のついた8枝の意味)を持って常世国から帰ってきたが、天皇がすでに崩御したことを聞き、嘆き悲しんで天皇の陵で自殺したという。『古事記』垂仁天皇段によれば、多遅摩毛理は「登岐士玖能迦玖能木実(ときじくのかくのこのみ)」(同じく橘)を求めに常世国に遣わされた。

多遅摩毛理は常世国に着くとその実を取り、縵8縵・矛8矛を持って帰ってきた。しかしその間に天皇は崩御していたため、縵4縵・矛4矛を分けて大后に献上し、もう縵4縵・矛4矛を天皇の陵の入り口に供え置いて泣き叫んだが、その末に遂に死んだという。そのほか、『万葉集』巻18 4063番では田道間守の派遣伝承を前提とした歌が、巻 4111番(反歌4112番)では田道間守を題材とする歌が載せられている。

中嶋神社(兵庫県豊岡市)は、「田道間守命」の神名で菓子神として祀っている。この中嶋神社の分霊は、太宰府天満宮(福岡県太宰府市)、吉田神社(京都府京都市)など全国各地で祀られ、菓子業者の信仰を集めている。また、奈良県高市郡明日香村の橘寺の寺名は田道間守伝説に由来すると伝わるほか、田道間守の上陸地の伝承がある佐賀県伊万里市では伊萬里神社には田道間守命を祀る中嶋神社が鎮座し、和歌山県海南市の橘本神社の元の鎮座地「六本樹の丘」は田道間守が持ち帰った橘が初めて移植された地であると伝える。

白川郷

大野郡白川村と高山市荘川町および高山市清見町の一部に相当し、白川村を「下白川郷」、他を「上白川郷」と呼ぶが、今日では白川村のみを指すことが多い。

白川郷の荻町地区は合掌造りの集落で知られる。独特の景観をなす集落が評価され、1976年重要伝統的建造物群保存地区として選定、1995年には五箇山と共に白川郷・五箇山の合掌造り集落として、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。

白川郷の萩町地区は、今も実生活の場として使われているところに価値があり、それが他地域の合掌民家集落と違うところである。

「世界遺産白川郷合掌造り保存財団」などがその保存にあたっている。毎年2月頃の週末には夜間ライトアップが行われる。

大成丸 (独立行政法人海技教育機構が保有する船舶)

独立行政法人海技教育機構が保有する船舶で、現在は4代目が就航中である。大成丸 (初代) は、1904年就航の帆船で、旧制東京高等商船学校の6代目練習船である。

長さ84.14m、幅13.33m、総トン数2423.68tの4檣バーク型
終戦直後の1945年10月に神戸港で触雷して沈没した。

大成丸 (2代) は、日本郵船の貨客船「小樽丸」を改造した汽船。
船体を10m延長する大改造が行われ、1954年に練習船大成丸として就航し、1981年引退する。
この船の丸窓が2つ、現在の大成丸の船内に保存されている。

大成丸 (3代) は、蒸気タービンを備えた汽船で、フォクスルデッキが一段高く、ドッキングブリッジがある。
後部マストも煙突から独立していて、他の練習船と比較するとやや古い様式の外観である。2014年引退。

大成丸 (4代) は内航船教育を重点として建造、2014年竣工。
総トン数は、5,886.73トン。

川奈ホテル

静岡県伊東市川にある奈ホテルは、伊豆半島では数少ない歴史ある洋風ホテルで政治家・著名人の宿泊も多い。1998年(平成10年)4月18日、当時の内閣総理大臣・橋本龍太郎とロシア連邦大統領ボリス・エリツィンによる首脳会談が行われた場所としても知られる。明治時代、大倉喜七郎が大倉財閥の別荘として建設し、戦時中は海軍の病院となるが、戦後は進駐軍による接収を経て大倉財閥の元へ戻ることになった。

東京急行電鉄総帥の五島慶太から、ホテル前に伊豆急行線の駅を作る提案を受けたとき・・・
リゾートホテルの趣旨を理解された、それなりのステータスのお客様を対象で騒がしくなることはホテルの趣旨に反する・・・
と、断った逸話は有名で、ホテル前には駅は無く細い道路で来場するしかない。周囲とは隔絶されたホテルを守っている。

バブル景気時代、筆頭株主の大倉事業や大倉商事が株投機などを目的に、自社が保有する関係会社の株式や川奈ホテルの不動産を担保にして複数の都市銀行から融資を受けるが、1998年(平成10年)に大倉商事が自己破産する。この影響で一部の銀行が担保保全のため大倉事業が拠出した川奈ホテルの不動産抵当権(約340億円)の仮差押を実施し、大倉直系企業の経営危機が表面化する。

これにより資金繰りが悪化し、1984年(昭和59年)に募集した1口3,000万円のゴルフ会員権の逓減全額償還(譲渡禁止で30年間に亘り分割で預託金を満額償還し、権利が失効するもの)という川奈ホテル独自の方式について、償還の打ち止めを1999年(平成11年)に1年間、翌2000年(平成12年)に4年間延ばして実施したが、収支は好転せず、2002年(平成14年)5月21日に670億円の負債を抱えて東京地裁へ民事再生法を申請し経営破綻した。

1998年(平成10年)以来、川奈ホテルと水面下で交渉していたとされる堤義明が率いてきたコクド(2006年(平成18年)に(株)プリンスホテルへ事業承継)が再建スポンサーとして早期に名乗りを上げる。2つのゴルフ場を会員制からパブリック制に転換し、会員権の預託金の価値を大幅縮減することを条件として、同年8月1日付けでホテルとゴルフ場を併せて220億円で買収した(内160億円が銀行の抵当権解消に充当)。以後、コクド(現:プリンスホテル)子会社として運営されている。

ホテル ヴィブラント オタル

明治政府が北海道開拓のために設立した国営の銀行、旧北海道拓殖銀行の小樽支店は1923年に建築された。レトロ感あふれるホテルで、小樽運河に徒歩1分という最高のロケーションで、現在はリーズナブルなビジネスホテルとして利用されている。

歴史を感じさせる建物は、小樽市の歴史的建造物に指定されている。大正12年に建築された北海道拓殖銀行の小樽支店の設計者は、国会議事堂を設計したのと同じ矢橋賢吉、旧北海道拓殖銀行小樽支店には『蟹工船』や『不在地主』などを発表した小林多喜二が勤めていたという。

旧北海道拓殖銀行小樽支店がある周囲は、かつて多くの銀行が建ち並び北のウォール街とも呼ばれてたことがある。
この建物がある交差点の南側には三菱銀行、はす向かいは第一銀行があった。他にも日本銀行、三井銀行、北海道銀行等の銀行があった。

長篠城址

三河設楽郡長篠、現在は愛知県新城市長篠にあり、天正3年(1575年)の長篠の戦いに先立つ長篠城をめぐる激しい攻防戦で知られる。国の史跡に指定され、城跡として整備されている。

交通の要衝の地で寒狭川(現在「豊川)と大野川(現在の宇連川)が合流する場所に突き出した断崖絶壁の上で天然の要塞で、突き出した断崖の近くに本丸を置いている。南や東西から見れば断崖絶壁上の城であるが、北側から見た姿をもってして「平城」に分類されることもある。

永正5年(1508年)今川氏親に誼を通じた菅沼元成が築城。元亀2年(1571年)、武田信玄による三河侵攻の一端として、天野景貫によって攻められ武田軍の圧力に屈した。元亀4年(1573年)、武田家の当主であった武田信玄の病が悪化し武田軍は本国へ撤退。その間隙に徳川家康によって攻められ城主・正貞は天正元年8月(1573年)には開城退去。以後、武田軍の再侵攻に備えて、家康により城が拡張される。

天正3年5月21日(1575年6月29日)、武田勝頼が1万5千の兵を率いて奥平信昌が約五百の手勢で守る長篠城を攻め囲み、長篠の戦いが始まる。天正4年(1576年)前年の長篠城の攻防戦で城が大きく損壊し、奥平信昌は新城城を築城し、長篠城は廃城となった。

1929年(昭和4年)、城跡一帯が国の史跡に指定された。
その後、帯曲輪跡には新城市立長篠城址史蹟保存館が建設され、長篠の戦いの理解を助ける展示がされるようになった。2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(46番)に選定された。

犬山 寂光院の紅葉

寂光院は、愛知県犬山市にある真言宗智山派の寺院で、山号は継鹿尾山。継鹿尾山八葉蓮台寺寂光院(つがおざんはちようれんだいじじゃっこういん)と号し、通称継鹿尾観音(つがおかんのん)本尊は千手観音、随求堂の本尊は大随求菩薩である。

白雉5年(654年)に孝徳天皇の勅願により南都元興寺の道昭和尚の手によって建立、支院18、寺領500石を有する盛大な寺であった。永禄8年(1565年)には織田信長が参詣の折り、清州城の鬼門鎮護の霊刹として黒印50石、山林50町歩を寄進。江戸時代も寺領を持ち続けた。現在は寺域33万㎡(10万坪)を有する。参道は全て東海自然歩道。境内全域は飛騨木曽川国定公園。

本堂 本尊:千手観世音菩薩(秘仏)
現在の本堂は明治12年(1879年)、12代当主の時代に再建された。
装飾を押さえた伝統的形式になる本格的な仏堂建築。
平成17年(2005年)に国の登録有形文化財に登録されている。
本尊の千手観音は秘仏で60年に一度の甲子年に限って開帳される。
秘仏千手観音厨子の「お前立ち」の像は南北朝時代の作とされている。

随求堂 本尊:大随求菩薩(秘仏)
文化2年銘の擬宝珠、内部柱に天保年間の墨書があることなどから、文化2年の建築と思われる。
本堂西に東面して建ち、渡廊下で結ばれる。
平成17年(2005年)に国の登録有形文化財に登録されている。

弁天堂
本堂北方の高所にある。弁天像台座裏に文政3年(1820年)の墨書銘があるので同時期の建築と考えられる。
平成17年(2005年)に国の登録有形文化財に登録されている。

弁天堂
本堂北方の高所にある。弁天像台座裏に文政3年(1820年)の墨書銘があるので同時期の建築と考えられる。
平成17年(2005年)に国の登録有形文化財に登録されている。

徳川園の紅葉

徳川園は尾張藩2代藩主徳川光友の隠居所の大曽根御屋敷跡(当時の敷地は約44ha)に築造された。

池泉廻遊式の大名庭園で、園内に配置された山、大曽根の瀧、渓流、龍仙湖、牡丹園、菖蒲田はそれぞれ、木曽山脈、木曽三川、伊勢湾、濃尾平野に見立てられ自然の景観を凝縮している。

高低差の大きな地形、立体的な大きな岩組みが特徴で変化に飛んだ大胆な構成は荘厳さが漂う。名古屋を代表する有名な庭園であり、イロハモミジ、ヤマモミジ、ニシキギなど約300本の紅葉と、庭園の緑とのコントラストが美しく、紅葉の時期には3万5000人〜4万人ほどの観光客が訪れる。

白鳥庭園 (紅葉)

白鳥貯木場を埋め立てて、1983年(昭和58年)年から1991年(平成3年)年までかけて整備された、敷地面積約3.7ヘクタールと市内随一の規模を誇る池泉廻遊式庭園で、源流から大海までの“水の物語”がテーマとされる。

1989年(平成元年)開催された世界デザイン博覧会のパビリオン「日本庭園」として本格的に整備された。

閉幕後は、庭園専用の有料公園とするため継続整備され、1991年(平成3年)に完成・オープンした。池を中心に配置した「池泉回遊式」の日本庭園で、都市公園内の庭園としては東海地方随一の規模を誇り、東海三県を中心とした中部地方の地形をモチーフにしている。