お菓子の神様「田道間守(タジマモリ)」を祀る地、豊岡。登録文化財に登録されている近代化遺産、兵庫県農工銀行豊岡支店(旧豊岡市役所南庁舎)を再生した施設が「オーベルジュ豊岡1925」である。昭和初期の近代建築のしつらえを残し、シンプル、かつ温かみのある客室全5室を備え、地域の食材を生かした絶品フレンチを提供するオーベルジュで、スイーツショップやBARも併設している。
テレビも冷蔵庫もなく、便利すぎる日常から離れた時間を感じることができる。椅子に座り自分と向き合ったり、手紙を書いてみたり、ゆったりとした時が過ぎる。レストランでは、但馬の地元農家や香住漁港から毎日仕入れる旬の食材をフレンチの技法で仕上げた ”但馬キュイジーヌ” が味わえる。
田道間守(たじまもり)は、記紀に伝わる古代日本の人物で、『日本書紀』では「田道間守」、『古事記』では「多遅摩毛理」「多遅麻毛理」と表記される。天日槍の後裔で、三宅連(三宅氏)祖。現在は菓子の神・菓祖としても信仰される。
『日本書紀』垂仁天皇紀によれば、垂仁天皇90年2月1日に田道間守は天皇の命により「非時香菓(ときじくのかくのみ)」すなわちタチバナ(橘)を求めに常世国に派遣された。しかし垂仁天皇99年7月1日に天皇は崩御する。
翌年(景行天皇元年)3月12日、田道間守は非時香菓8竿8縵(やほこやかげ:竿・縵は助数詞で、葉をとった8枝・葉のついた8枝の意味)を持って常世国から帰ってきたが、天皇がすでに崩御したことを聞き、嘆き悲しんで天皇の陵で自殺したという。『古事記』垂仁天皇段によれば、多遅摩毛理は「登岐士玖能迦玖能木実(ときじくのかくのこのみ)」(同じく橘)を求めに常世国に遣わされた。
多遅摩毛理は常世国に着くとその実を取り、縵8縵・矛8矛を持って帰ってきた。しかしその間に天皇は崩御していたため、縵4縵・矛4矛を分けて大后に献上し、もう縵4縵・矛4矛を天皇の陵の入り口に供え置いて泣き叫んだが、その末に遂に死んだという。そのほか、『万葉集』巻18 4063番では田道間守の派遣伝承を前提とした歌が、巻 4111番(反歌4112番)では田道間守を題材とする歌が載せられている。
中嶋神社(兵庫県豊岡市)は、「田道間守命」の神名で菓子神として祀っている。この中嶋神社の分霊は、太宰府天満宮(福岡県太宰府市)、吉田神社(京都府京都市)など全国各地で祀られ、菓子業者の信仰を集めている。また、奈良県高市郡明日香村の橘寺の寺名は田道間守伝説に由来すると伝わるほか、田道間守の上陸地の伝承がある佐賀県伊万里市では伊萬里神社には田道間守命を祀る中嶋神社が鎮座し、和歌山県海南市の橘本神社の元の鎮座地「六本樹の丘」は田道間守が持ち帰った橘が初めて移植された地であると伝える。