三河設楽郡長篠、現在は愛知県新城市長篠にあり、天正3年(1575年)の長篠の戦いに先立つ長篠城をめぐる激しい攻防戦で知られる。国の史跡に指定され、城跡として整備されている。
交通の要衝の地で寒狭川(現在「豊川)と大野川(現在の宇連川)が合流する場所に突き出した断崖絶壁の上で天然の要塞で、突き出した断崖の近くに本丸を置いている。南や東西から見れば断崖絶壁上の城であるが、北側から見た姿をもってして「平城」に分類されることもある。
永正5年(1508年)今川氏親に誼を通じた菅沼元成が築城。元亀2年(1571年)、武田信玄による三河侵攻の一端として、天野景貫によって攻められ武田軍の圧力に屈した。元亀4年(1573年)、武田家の当主であった武田信玄の病が悪化し武田軍は本国へ撤退。その間隙に徳川家康によって攻められ城主・正貞は天正元年8月(1573年)には開城退去。以後、武田軍の再侵攻に備えて、家康により城が拡張される。
天正3年5月21日(1575年6月29日)、武田勝頼が1万5千の兵を率いて奥平信昌が約五百の手勢で守る長篠城を攻め囲み、長篠の戦いが始まる。天正4年(1576年)前年の長篠城の攻防戦で城が大きく損壊し、奥平信昌は新城城を築城し、長篠城は廃城となった。
1929年(昭和4年)、城跡一帯が国の史跡に指定された。
その後、帯曲輪跡には新城市立長篠城址史蹟保存館が建設され、長篠の戦いの理解を助ける展示がされるようになった。2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(46番)に選定された。