ジェロニモス修道院(Monastery of the Hieronymites) 登録面積は2.57 ha、緩衝地域 51.5 ha である。ボイタクに建設を命じたポルトガル王マヌエル1世の目的は、エンリケ航海王子の業績を称揚する意図などが込められていた。ボイタクが指揮を執ったのは1516年までで、それを引き継いだのはジョアン・デ・カスティーリョである。繊細な彫刻に飾られた回廊や、彫像で飾られた南門柱廊を備えた修道院付属のサンタ・マリア聖堂などの評価が高い。
ベレンの塔(Tower of Belem)世界遺産登録面積は 0.09 ha、緩衝地域は 51.5 ha である。正式名は「サン・ヴィセンテの塔」で、建造は1515年から1521年、指揮したのはフランシスコ・デ・アルダであった。ジェロニモス修道院と同じく、建設を命じたのはマヌエル1世である。ヴァスコ・ダ・ガマの業績をたたえる目的をこめた灯台だが、テージョ川河口を見張る要塞としての機能も備えていた。当時のリスボンでは、英国やオランダの海賊に対する備えが必要だったのである。1755年にリスボンを襲った大地震では多くの建物が被災したが、ジェロニモス修道院とベレンの塔があるベレン地区は難を逃れ、さして損壊を被らなかった。ただし、その地震で川の流れが変わったことで、ベレンの塔は中洲から川岸へと、位置関係を変えた。航海に関する事物をモチーフとした装飾があしらわれたマヌエル様式建築の傑作のひとつで、作家司馬遼太郎はその優雅さを「テージョ川の貴婦人」と評した。
市街はマゾフシェ公の城の周りで独自に発展する。 市場広場 (Rynek Starego Miasta) は13世紀末から14世紀初頭には、城とワルシャワ新市街(Warsaw New Town)をつなげる、北へのびる主要な通り沿いに建設された。 1701年には広場がドイツ人のドイツのティルマンによって再建された。
ポーランド侵攻の間、旧市街地区の殆どがドイツ空軍によってひどいダメージを受けた。ドイツ空軍は、恐怖爆撃の際、街の王宮地区および歴史的ランドマークを標的に絞った。ワルシャワの戦いの後、旧市街の一部が再建されたが、1944年の8月から10月までのワルシャワ蜂起ののち再び、ドイツ陸軍によって計画的に爆破された。暴動を記念する彫像”the Little Insurgent” は現在旧市街の中世の城壁に建設されている。