パリ、サン・ラザール駅(Gare Saint-Lazare)

パリの主要ターミナル駅の1つサン=ラザール駅(Gare Saint-Lazare)は、1837年8月26日の開業である。パリのターミナル駅で一番古い歴史を持ち、都心部に近く利便性も高くデパート街オスマン通りやオペラ座にも近い。駅舎正面には4つ星のターミナル・ホテルを構えるが老朽化し、駅舎内部はひどく傷んでいる状態でもある。

1日の利用者数は約45万人、年間1億人とも言い、パリではパリ北駅に次ぐ利用者数のターミナル駅である。ただし、近郊列車の利用が大半を占め、TGVの発着もない。地元の人々の日常的な利用が多く観光客は目立たず、パリのターミナル駅の中では華やかさが薄い。駅舎側面よりウロップ橋方面へ続くローマ通りにはパリ音楽院の旧校舎があったため、現在は楽譜屋・楽器屋街となっている。

1998年、併設地下駅のオスマン=サン=ラザール駅(Hausmann-Saint-Lazare)が開業し、RER-E線の終着駅となる。2003年12月、全自動運転の最新メトロ14号線がサン=ラザール駅まで延伸し、駅正面ファサードの左端に球形ガラス張りの新たなメトロ入り口が生まれ、メトロ地下駅の内装も全面改装される。2012年3月、サンラザール駅付属のショッピングモール、サンラザール・パリがオープンし、3フロアにわたる10000平米 の広さの中に約70軒もの店舗が入る大規模ショッピングモールとなる。このモールには2つのスーパーマーケット、スターバックス、そして最新または定番人気のブティックや飲食店が勢揃いする。

ジャン=バティスト・カミーユ・コロー(Jean-Baptiste Camille Corot)

ジャン=バティスト・カミーユ・コロー(Jean-Baptiste Camille Corot 1796年7月17日 – 1875年2月22日)は、詩情あふれる森や湖の風景画で知られるが、その一方で、『真珠の女』のような人物画にも傑作がある。1825年から計3度イタリアへ旅行し、イタリア絵画の明るい光と色彩にも影響を受けている。理想化された風景でなく、イタリアやフランス各地のありふれた風景を詩情ゆたかに描き出す手法はのちの印象派の画家たちにも影響を与えた。

自然に即した風景画家として注目を浴び、のちのバルビゾン派の聖地となるフォンテーヌブローも森も早くから描いた。詩的な画風で、作品も国家買上げとなる。55年パリ万博美術展でグランプリに輝き、その後、色調が銀灰色を帯びた叙情的な神話の風景画が多くなつてゆく。ドーミエら貧しい画家たちに援助を与え、ペール・コロー(コロー親父)と慕われた。若い世代の印象派画家にも大きな影響を与えた。

ゴッホ展 巡りゆく日本の夢

19世紀末に活躍し、今もなお世界中で絶大な人気を誇る芸術家フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)は、ジャポニスムの只中にあった19世紀のパリで日本に関する文献や浮世絵と出会い夢中になり、彼にとって日本は創意の源であり理想郷であった。

一方1920年代、日本の芸術家や知識人がファン・ゴッホに憧れ、その墓のあるフランスのオーヴェール=シュル=オワーズを巡礼した。ファン・ゴッホ美術館との共同企画で、油彩画やデッサンに加え、浮世絵やオーヴェール巡礼に関する資料などによりゴッホの魅力が紹介されている。

展覧会の構成 

[第1部 ファン・ゴッホのジャポニスム] 

ファン・ゴッホは、日本から如何なる影響を受け、如何なるイメージを抱いていたのか。

国内外のコレクションから厳選したファン・ゴッホ作品約40点と、同時代の画家の作品や浮世絵など50点あまりによって、その実像を多角的に検証する。

オランダに生まれたフィンセント・ファン・ゴッホは、1886年にパリに移り、この地でさまざま刺激を受けながら、自らの絵画表現を模索した。

そこで大きな役割を果たしたものが、日本の浮世絵で、ファン・ゴッホは浮世絵版画を収集し、それを模写した油彩画を描き、構図や色彩を学び取り、浮世絵をはじめとする美術作品や日本を紹介した文章を咀嚼しながら、独自の日本イメージを醸成していった。

1888年には、芸術家たちの共同体を作ろうと南仏のアルル へ赴き、大いなる期待を胸に訪れたこの地を、しばしば日本と重ね合わせている。

[第2部 日本人のファン・ゴッホ巡礼] 

ファン・ゴッホが最晩年に交友を持ったオーヴェールの医師ガシェの一族のもとには、3冊の芳名録が残され、1920年代に憧れの画家の終焉の地を訪れ、その足跡をたどった日本の画家や文学者たち240名あまりの署名が記されている。

最初期における日本人のファン・ゴッホ巡礼を、ガシェ家の芳名録に基づいた約90点の豊富な資料によってたどり、日本を夢想したファン・ゴッホと、ファン・ゴッホに憧憬した日本人の交差する夢の軌跡である。

藤前干潟

名古屋港西南部の庄内川、新川と日光川の河口が合流する名古屋市港区藤前地区の地先に広がる干潟で、面積はおよそ350 ha。潮位が名古屋港基準面で70 cm以下になると、干潟が海面の上にあらわれる。伊勢湾に残る最後の大規模な干潟で、シギ・チドリ類、オナガガモ・スズガモのカモ類などの渡り鳥の飛来地として有名。

2002年(平成14年)11月1日に国指定藤前干潟鳥獣保護区に指定(面積770 ha、うち特別保護地区323 ha)、同年11月18日にラムサール条約に登録された。1950年代以前には藤前干潟がある伊勢湾最奥部には広大な干潟が広がっていたが、港湾開発・工場用地・農業用地の埋立開発により、そのほとんどが消滅した。

名古屋市愛岐処分場(岐阜県多治見市)が2001年に満杯予定であったことから名古屋市が藤前干潟の一部を埋立る開発計画を立てたが、環境庁や住民団体などの反対により埋立は撤回された。干潟には不法投棄や河川の上流から漂流ゴミが多く、アシ原などの窪地などに大量のゴミが堆積している。クリーン大作戦などの清掃活動が行われているが、流入するゴミに対応し切れていない。

聚楽園(東海市)

聚楽園大仏

愛知県東海市、聚楽園公園にある阿弥陀如来の大仏は、東海市文化財に指定されている。信仰としての建立ではなく、観光的な目的が強く、像高18.79mの鉄筋コンクリート製で、1985年(昭和60年)に銅色に塗装し直された。

嚶鳴館

細井平洲は江戸時代の儒学者で、享保13年6月28日(1728年8月3日)、尾張国知多郡平島村(現愛知県東海市)の農家に生まれ、幼くして学問に励む。16歳のときに京都に遊学するが、当時有為な学者はほとんど江戸幕府や諸藩に引き抜かれていたので、失望し帰郷する。尾張藩家老竹腰氏家臣の子で折衷学派の中西淡淵が名古屋にも家塾の叢桂社を開くことを知り、師事する。延享2年(1745年)、唐音研究のために長崎に遊学する。宝暦元年(1751年)、24歳の時、江戸へ出て嚶鳴館(おうめいかん)という私塾を開き、武士だけでなく、町民や農民にもわかりやすく学問を広めた。

宝暦13年(1763年)、上杉治憲(後の鷹山)の師となる。治憲は後に米沢藩主となり、米沢藩の財政再建を成功させた。安永9年(1780年)、53歳の時、御三家の筆頭・尾張藩に招かれ、藩校・明倫堂(現・愛知県立明和高等学校)の督学(学長)になった。寛政8年(1796年)、69歳の時、第3次米沢下向。


この時、鷹山は米沢郊外の山上村関根(米沢市関根)まで師を出迎え、普門院にて旅の疲れをねぎらった。これは当時の身分制度を超えた師弟の姿として江戸時代中から知れ渡り、明治時代以降は道徳の教科書にも採用され、昭和10年(1935年)米沢市関根の羽黒神社境内に、「上杉治憲敬師郊迎跡」として国の史跡に指定されてた。享和元年6月29日(1801年8月8日)、江戸尾張藩藩邸で死去、墓所は東京浅草の天獄院。

弟子には寛政の三奇人として有名な高山彦九郎がいる。平洲が米沢藩主になろうとしていた上杉鷹山に送った言葉、「勇なるかな勇なるかな、勇にあらずして何をもって行なわんや」がある。

名古屋 三の丸庭園界隈

外堀の土塁を背景として、樹木がうっそうと茂る。深山幽谷の趣を持つと共に、池と石橋、枯滝、石洞、石舟(長さ3m)、出島などを巧みに配置した豪壮で優美な枯山水の庭となっている。

明治14年(1881)から明治17年(1884)頃にかけ、陸軍将校クラブ偕行社の南庭として三の丸庭園は造園された。表千家の吉田紹和宗匠の指導の下、二の丸庭園南御庭の一部、東南中央の渓谷と渓流の部分を移築造園した。

庭園及びその周辺にある樹木の中には、名古屋城築城当時植栽されたもの、武家屋敷のものと推定される樹木があり、郭内の残存樹木として貴重なものとなっている。庭石は佐久間石、篠島石、定光寺石等郷土の名石のほか、紀州産の青石などの大石を用い、豪快かつ優美さを出している。

香嵐渓の紅葉 2017-11-19

愛知県豊田市足助町にある矢作川支流巴川がつくる渓谷である香嵐渓(こうらんけい)は、愛知高原国定公園の一角に当たり、紅葉やカタクリの花などで有名である。寛永11年(1634年)、足助、香積寺の三栄和尚が、巴川から香積寺に至る参道にカエデやスギの木を植えたのが始まりとされる。

昭和5年(1930年)、当時の住職と町長により「飯盛山からの薫風は、香積寺参道の青楓を透して巴川を渡り、香ぐわしいまでの山気を運んでくる。山気とは、すなわち嵐気也」ということで、“香嵐渓”という名が付いた。香嵐渓のシンボルとも言える待月橋(たいげつきょう)が命名されたのは昭和28年(1953年)、その後3回の掛け替えを経た後、平成19年(2007年)に新たな橋となった。

談山神社(奈良県桜井市)

談山神社(たんざんじんじゃ)は奈良県桜井市の多武峰(とうのみね)にあり、祭神は中臣鎌足(談山大明神・談山権現)である。談山の名の由来は、中臣鎌足と中大兄皇子が、大化元年(645年)5月に大化の改新の談合をこの多武峰にて行い、後に「談い山(かたらいやま)」「談所ヶ森」と呼んだことによるとされる。

創建は天武天皇7年(678年)、本殿様式は春日造、神仏霊場巡拝の道37番(奈良24番)の札所等である。例祭は11月17日で、主な神事は蹴鞠祭。拝殿や十三重塔は戦前に何度か日本銀行券の図案に採用されたことがある。紅葉の名所として名高く、また桜も多く標高が高いことから周辺よりも遅咲きの桜が楽しめる。神仏分離以前は寺院で、多武峯妙楽寺(とうのみねみょうらくじ)であった。大和七福八宝めぐり(三輪明神、長谷寺、信貴山朝護孫子寺、當麻寺中之坊、安倍文殊院、おふさ観音、談山神社、久米寺)の一つに数えられる。

鎌倉時代に成立した寺伝によると、藤原氏の祖である中臣鎌足の死後の天武天皇7年(678年)、長男で僧の定恵が唐からの帰国後に、父の墓を摂津安威の地(参照:阿武山古墳)から大和のこの地に移し、十三重塔を造立したのが発祥である。談山神社から御破裂山への山道があり、その奥に中臣鎌足の墓所といわれる場所がある。
談山神社から、少し歩いたところに中臣鎌足の次男、淡海公(藤原不比等)の墓といわれる石塔がある。

グランド・プリズマティック・スプリング(Grand Prismatic Spring)

アメリカ合衆国イエローストーン国立公園のミッドウェイ間欠泉地域に存在する同国最大の熱水泉で、ニュージーランドのフライング・パン・レイク、ドミニカ国のボイリング・レイクに次ぐ第3位の規模である。泉の大きさはおよそ80×90m、深さは50m、70℃の熱水が毎分2,100リットル湧き出している。1871年に行われたハイデン地質調査において地質学者が注目し、その印象的な色彩からグランド・プリズマティック・スプリングと命名された。

色彩には青、緑、黄、オレンジ、金、赤及び茶が含まれ、光学プリズムによる白色光から虹色への分散を思い起こさせる。この泉に関する初めの記録は初期ヨーロッパ人探検家および測量士によるもので、1839年、アメリカン毛皮会社(American Fur Company)の毛皮獲得のために罠を仕掛ける一団がミッドウェイ間欠泉地域を横断し、直径90メートルの「沸騰する湖(boiling lake)」との記述を残している。

泉の鮮明な色彩はミネラル豊富な水の周りに形成されるバクテリアマットの中で着色されるバクテリアによるもので、バクテリアは、緑から赤までの色を生じ、バクテリアマットの色の量は、カロテノイドに対する葉緑素の割合および他の種よりも、ある種のバクテリアに有利となる水温による。夏にはバクテリアマットはオレンジや赤になる傾向があり、冬は通常濃い緑である。水域中央は極度の高温のため無菌状態。

水域中央の水の濃い青は、水が行う可視光線からの選択的な赤色波長域の吸収に起因する本質的な水の青によるものである。この効果は全ての大きな水の集まりを青くする原因だが、グランド・プリズマティック・スプリングでは泉の中央における水が高純度で、深さもあるため特に著しい。

オットー・ネーベル展

日本初の回顧展となる本展では、ネーベルの活動初期から晩年までの作品を展観する。イタリア滞在中に各都市の景観を色彩で表現したスケッチブック「イタリアのカラー・アトラス(色彩地図帳)」や、都市の建築物の輪郭を単純化したかたちと色彩で捉えた「都市の建築シリーズ」、後半生に描いた実験的な抽象画など、バリエーション豊かな作品が一堂に会する。

また本展では、クレーやカンディンスキー、シャガールなど、ネーベルに影響を与えた同時代の画家たちの作品もあわせて紹介し、20世紀美術の流れのなかで、ネーベルの創作活動の軌跡をたどる。数冊のスケッチブックを併せて展示する本展は、ネーベルが鋭敏な感覚で外界世界を観察し、飽くなき実験により身につけた熟練の技を駆使して「正確」に描き出していく、その創作の過程も堪能できる貴重な機会となるだろう。

オットー・ネーベル(1892〜1973)はベルリンに生まれ、スイス・ドイツで活動した画家である。

1920年代半ばにワイマールに滞在し、バウハウスでカンディンスキーやクレーと出会い、長年にわたる友情を育んだ。

美術のみならず、建築や演劇も学んだネーベルは、画家としてだけでなく、版画家や詩人としても活動した。

ベルンで82才の生涯を終えたオットー・ネーベルの2000点に近い絵画と4000点以上の素描を含む膨大な作品は、画家の没後、遺言によってベルンのオットー・ネーベル財団に託された。

それらの作品群に含まれた色とりどりのスケッチブックは、画家自身によって表紙にナンバーのステッカーが貼られ、タイトルが付されて整理されているだけでなく、時には序文やあとがきとして詳細な説明が付け加えられるなど、画家の創作の歩みを示す貴重な記録となっている。

ネーベルのスケッチブックは、この画家が徹底した外界の観察から出発していることを如実に物語っていると同時に、画家の目を通して捉えられた事物が内なる世界において変容を遂げていく過程を教えてくれる。

『イタリアのカラー・アトラス(色彩地図帳)』は、まさにその好例である。

1931年10月、ローマに到着したネーベルは南国の強い光の下で、驚くほどの階調を含む色彩の輝きに文字通り開眼し、訪れた各都市の色彩、光、響き、ニュアンスの詳細な記録にとりかかった。

各頁に描かれた一見不揃いにみえる幾何学的な色面の形状は、ある景観において特定の色彩の占める量の大小やその響きの強弱によって定められた。

各場所の「カラー・アトラス」に添えられたメモには、家の壁や漁船、オリーブや松の林、山脈や海岸など色彩や響きの元となる「対象物」が記され、個々の対象をどのように色と形へと対応させていったのかが見てとれる。

すでに若き日のバウハウスで、妻の師であったゲルトルート・グルノウの「感性調和論」の教えに傾倒していたネーベルは、色彩、音響、動作の根本的な関連性を捉えるために感覚器官を研ぎすませるメソッドを学んでいた。イタリアでの体験はまさにそのメソッドの実践の場となったのである。

数冊のスケッチブックを併せて展示する本展は、ネーベルが鋭敏な感覚で外界世界を観察し、飽くなき実験により身につけた熟練の技を駆使して「正確」に描き出していく、その創作の過程も堪能できる貴重な機会となるだろう。

ザ ・ ミュージアム 主任学芸員 廣川暁生