小里川ダム、道の駅 おばあちゃん市・山岡

小里川ダム(おりがわダム)は、岐阜県瑞浪市と岐阜県恵那市にかかる、一級河川・庄内川支流の小里川に建設された。小里川は天瀑山(標高777m)を水源とする庄内川の支流の一つで、大正時代より3箇所の水力発電所が設置されていた。

現在、国土交通省中部地方整備局が管理を行う国土交通省が直轄する。高さ114.0メートルの重力式コンクリートダムは、洪水調節・環境維持・発電などを目的とする、ダムによって形成された人造湖はおりがわ湖と命名された。

かつて、小里川は氾濫が多く、被害を防ぐためにダムが計画され、1969年(昭和44年)より予備調査、1979年(昭和54年)に着工、2004年(平成16年)3月31日に竣工した。地域に開かれたダムに指定されダムの内部が一般に開放されている。

ダム周辺は、「ふれあい館・ダム右岸部地区」、「原石山地区」「モダンパーク地区」、「ダム左岸部地区」として整備され、ウォーキングコースもある。ダム近くにある道の駅おばあちゃん市・山岡には、小里川発電所の完成により廃止された水力発電所に使用されていたという石造アーチ橋「興運橋」が移設保存されている。

吉良ワイキキビーチ

忠臣蔵で有名な、吉良上野介の地元でもある愛知県西尾市吉良町には、白い砂浜と椰子の木の南国情緒を感じさせる宮崎海水浴場がある。平成18年6月にハワイ州の観光局から許諾を得て、宮崎海水浴場と恵比寿海水浴場を合わせて「吉良ワイキキビーチ」と呼ぶようになった。

宮崎海水浴場は水質良好で景観も優れ、平成13年に環境省選定の「日本の水浴場88選」に選ばれ、ゆったりとした時間を楽しむことがでる。吉良ワイキキビーチの背後には、800名宿泊可能という規模の巨大なリゾートホテル三河湾リゾートリンクスがそびえ立つ。吉良には天然温泉も湧いて、他には吉良観光ホテル、竜宮ホテル、旅館、民宿などが十数軒ほどある。

犬山、入鹿池の桜

入鹿池は、愛知県犬山市の入鹿、飛騨木曽川国定公園内にある人工の農業用ため池で、犬山市や小牧市、丹羽郡の町へ灌漑用水がのびている。池の周囲を北は今井山、南西は本宮山・尾張富士・白山の尾張三山が囲み、池畔には博物館明治村がある。ボート、ワカサギ釣りも楽しめる観光地で、池の周囲には、尾張パークウェイ、県道16号、県道49号などが通る。農林水産省のため池百選に選定され、国際かんがい排水委員会による世界かんがい施設遺産にも登録され、香川県の仲多度郡まんのう町にある満濃池と一二を争う規模である。

形式 – 土堰堤
堤高 – 26.9m
堤長 – 120.0m
周囲 – 約16km
貯水量 – 15,187,786m3(満水時、転倒ゲート起立時の貯水量は16,810,863m3)
満水面積 – 152.1ha
灌漑面積 – 1,369町
水源 五条川、成沢川、郷川

寛永5年(1628年)、後に「入鹿六人衆」と称される6人の男たちが付家老であった犬山成瀬家を経由して尾張藩に入鹿池の開発届を出し、認可された。

年表
縄文時代後期(紀元前1000年頃) – 入鹿池遺跡
535年 – 入鹿屯倉設置
寛永5年(1628年) – 入鹿池築造計画申し出
寛永9年(1632年) – 本格的に築造着工
寛永10年(1633年) – 築造完了
明治元年(1868年) – 入鹿切れ発生(→#入鹿切れ)
大正13年(1924年) – 水争議発生
昭和19年(1944年) – 新放水路完成
昭和33年(1958年) – 愛知用水公団へ加入
昭和35年(1960年) – 新取水塔建造
昭和52年(1977年) – 防災ダム事業計画はじまる
昭和54年(1979年) – 防災ダム工事着工
平成3年(1991年) – 防災ダム工事完成
平成17年(2005年) – 愛知用水二期事業により愛知用水と導水管でつながれる。

犬山城の桜 2018年

犬山城の桜の種類はソメイヨシノ、本数は約400本。
天守閣からは、城の桜はもとより、1kmほどの本町通り、犬山橋までの木曽川沿いをはじめとする桜模様が見渡せる。城下町には、屋台のような串ものグルメを販売しているお店も点在していて、桜を眺めながらの食べ歩きも楽しめる。犬山城は、1年中、日没から22時くらいまでの時間はライトアップされる。美しく浮かび上がる夜桜と犬山城を見ることもできる。

名古屋ウィメンズマラソン 2018

初マラソンの関根が日本人トップの3位 名古屋ウィメンズ、優勝はアセファ。東京五輪代表選考レースへの出場権を懸けた「名古屋ウィメンズマラソン2018」(日本陸上競技連盟、中日新聞社主催)は11日、ナゴヤドームを発着に行われ、初マラソンの関根花観(日本郵政グループ)が日本人トップの3位に入った。優勝はエチオピアのメスケレム・アセファ。

優勝はエチオピアのメスケレム・アセファ。

中日新聞)

【40キロ】 アセファがジェメリ抜きトップに。

【35キロ】 ジェメリがトップ走る。日本人トップは関根。

【30キロ】 ジェメリがペースを上げる。関根が3位で追走する。

【25キロ】 先頭集団は岩出、関根ら5人に。小原が遅れる。

【20キロ】 小原や岩出、関根ら7人が先頭集団。加藤、前田は少し遅れる。

【10キロ】 竹地が先頭集団から遅れる

【5キロ】 前田、小原らが先頭集団

新印象派の画家シニャック

ポール・ヴィクトール・ジュール・シニャック(Paul Victor Jules Signac)は、19世紀~20世紀のフランスの画家で、ジョルジュ・スーラと並ぶ新印象派の代表的画家であった。シニャックは1863年、パリで生まれ、最初は建築を学んでいたが、18歳の時に絵画に転向した。1886年の第8回、最後の印象派展にスーラとともに出品している。シニャックはスーラから大きな影響を受けているが、シニャックの点描画は、筆触がスーラのそれよりも長く、2人の画風は微妙に異なっている。

海を愛し、自らもヨットを操縦したシニャックは、当時まだひなびた漁村であったサントロペに居を構え、海辺や港の風景、ヨットなどを好んで描いた。シニャックは、近代都市の日常生活、特に、室内における家族のいる情景を描くことを得意とした。寡黙で自ら多く語らず、しかも短命だったスーラに代わり新印象派の理論を世に知らしめた点でもシニャックの功績は大きい。  

代表作
サン=トロペの港(1893)(ヴッパータール、ファン・デア・ハイト美術館)
赤い浮標(1895)(オルセー美術館)
夕日の小舟(1891)

大塚海浜緑地(ラグーナビーチ)

かつては、大塚海水浴場として海水浴客や潮干狩り客で多数の観光客が訪れたが、時代の変遷とともに周辺環境の変化等により海浜が少しずつ減少した。昔のような美しい砂浜を復活させ海辺での憩いの場を提供するため、愛知県が制定する三河湾港湾計画により整備された大塚海浜緑地は、愛知県蒲郡市海陽町の人工海浜緑地で、ラグーナテンボスに隣接する。愛知県が整備し、指定管理者制度により蒲郡海洋開発が管理・運営を行う。

所在地:〒443-0014 愛知県蒲郡市海陽町2丁目39番
種類:レクリエーション緑地
面積:約121,400平方メートル(海浜24,400平方メートル含む)
主な施設:多目的広場、芝生広場、駐車場、人工海浜
有料施設:駐車場320台(普通車600円、大型自動車1,800円)
主な施設管理:駐車場管理、清掃、緑地管理など

ジャン=ベロー (Jean Béraud)

ジャン・ベロー(1848年1月12日〜1935年10月4日)は、ロシア サンクトペテルブルクで生まれ、フランス パリで活動した印象派の画家でレジオンドヌール勲章 (1894年)を受賞した。

写実的な作風で、パリの都市風景や、上流階級の生活などを多く描き、印象派とは対極的な位置にいるようにも見える。エドゥアール・マネと交流があったようで、初期は印象主義的な作風だったといわれる。

パリで法律を勉強後、ボナのスタジオで美術を勉強。パリの日常生活を描きアカデミー派の流行画家として名声を得る。1878年にカイユボット邸でのパーティの様子を描く。

ギュスターヴ・カイユボットとは年齢も1歳差で、法律を学んだ後に、レオン・ボナに師事する。カイユボット家を舞台に《夜会》[1880年 個人蔵]という作品を描いている。

ポール・ドラローシュ(Paul Delaroche)

ポール・ドラローシュ(Paul Delaroche.1797年7月17日 – 1856年11月4日)、本名はイッポリト・ド・ラ・ローシュ(Hippolyte De La Roche)日本ではドラロッシュ、ドラロシュとも表記されるフランスの画家。画面は堅牢かつ平滑、きわめて精緻に仕上げられているとの印象を与える。

このような絵肌は当時一般的だった様式で、オラース・ヴェルネ、アリ・シェフェール、ルイ=レオポルド・ロベール、アングルの作品にも見られる。歴史画で知られているが、常に歴史的に正確であったわけではなく、どちらかと言えば劇的な効果を狙った作品が多い。父は美術鑑定家、兄はアントワーヌ=ジャン・グロ門下で絵画を学んだ後、自身も鑑定家となった。1816年、パリ国立美術学校に入学、はじめルイ=エティエンヌ・ヴァトレ、ついで兄の師グロのもとで絵画修行を積む。

ドラローシュは理想によって悩むことはなく、それを気取ることもなかった。しかし厳しい製作は彼と彼の中心思想との間に何の神秘も介在することを許さなかった。常に大衆に対してわかりやすく、カンヴァス上で詩人になろうとし苦しみ画家たちが全て精力を消耗することから、彼が逃げたせいであった。キリスト教信仰の創始者、彼と同時代を生きたナポレオン・ボナパルトのような人物、遠い歴史上の人物を描くことで本質的には同じ手法が彼により用いられた。『フォンテーヌブローのナポレオン』、『セント・ヘレナ島のナポレオン』、『死刑宣告の後法廷を発つマリー・アントワネット』などである。

1837年、パリ国立美術学校内の半円型講堂(Hémicycle)の壁に設置する27メートルにも及ぶ大作の依頼を受けた。全ての時代の75人の偉人を描いた作品で、白大理石のステップの中央線から一方には一つの集団が集まり、最高部の3つの王座をパルテノン神殿創設者ペイディアス、イクティノス、アペレスが占めている。彼らは3つの芸術の統合を象徴している。