2018年10月12日(金)前夜祭
2018年10月13日(土)
2018年10月14日(日)
名古屋から約30分の秘境駅「定光寺駅」
中央線の名古屋に近い区間は、ベッドタウンと都市部を結ぶ通勤路線でもあるが、春日井市の高蔵寺を過ぎると、一気に険しい山間の景観となる。岐阜県多治見までの県境越えの路線区間は、線路は崖に張り付く様に進む。民家も少ない区間であり、ここに定光寺駅や古虎渓駅が存在している。定光寺駅は特に地形が険しい場所に造られ、中央線の愛知県内区間で末端の駅である。
玉野川(庄内川)の渓谷右岸に立地し、川沿いの崖にへばり付くようにつくられた定光寺駅は、隣の古虎渓駅と同じく、1時間に数本程度電車が停車する。名古屋駅から30分程度、秘境気分が満喫できる駅として知られている。かつては旅館やホテルが軒を並べていた、ホームから見る景色は風光明媚でもある。
千歳楼
愛知県春日井市玉野町、中央線定光寺駅近郊にかつて存在した旅館であるが、現在は心霊スポットとして知られる。1928年(昭和3年)に創業され、2003年に6億円の負債を抱えて倒産した。玉野川渓谷(庄内川渓谷)に面する場所に位置し、かつては名古屋の奥座敷とも呼ばれた。千歳楼の客のなかには政府系金融機関の総裁をはじめ、事業家、高僧、文人などもいたといい、多数の芸者が呼ばれたという。1980年代には「陶芸作家がよく利用する場所」ともなっていて、当時の千歳楼の女将は陶芸作家との交流があり、加藤唐九郎、河本五郎、加藤卓男といった著名な陶芸作家の作品が旅館に置かれていたという。最盛期の1994年には年商10億円近くを記録したこともあったが、その後、来客数は減少し、付近に最も多い時で8軒あった旅館は、すでに1999年時点で千歳楼を含めて2軒にまで減少した。
定光寺
瀬戸市定光寺町にある臨済宗妙心寺派の寺院、山号は応夢山(おうむざん)、本尊は延命地蔵願王菩薩(地蔵菩薩)である。桜や紅葉の名所としても知られ、寺域に隣接して尾張徳川家初代徳川義直の廟所である源敬公廟がある。しかし、尾張徳川家の菩提寺ではない。
建武3年(1336年)
覚源禅師(平心處齊)が籐左衛門尉の案内で尾張国山田荘水野郷を訪れ、この地方の領主であった水野致国と美濃国小田の山内入道が開基檀越となり、臨済宗建長寺派の寺院として創建した。
慶安2年(1649年)
喝堂全用が妙心寺派寺院として再興した。
慶安3年(1650年)
尾張徳川家初代徳川義直が没すると、寺域に隣接する山林にその翌年から3年をかけて源敬公廟(徳川義直廟墓)が造営され、尾張徳川家の庇護を受けるようになった。
寺域に東接する、尾張徳川家初代徳川義直の廟所で、源敬公(げんけいこう)は義直の諡号(しごう)である。廟所正面に竜の門があり、その左右に築地塀が伸び、塀で囲まれた内側に焼香殿と宝蔵、その先に唐門があり、唐門の奥に義直の墓標が立つ。義直の墓は慶安4年(1651年)、焼香殿などの周囲の建物は翌承応元年(1652年)に建立されたもので、参道途中にある獅子の門は元禄12年(1699年)の建立である。焼香殿、宝蔵などは禅宗様を基調とし、中国風の装飾を施している。建物6棟と墓1基が重要文化財に指定されている。義直の墓に石垣をめぐらせたうちの1枚をはずすと、数百万両の軍用金が埋蔵してあるという伝説がある。
第68回大須夏まつり
日時:2018年8月4日(土)・5日(日)
場所:大須観音境内、万松寺境内、ふれあい広場、大須商店街各所
土曜日は、阿波踊りやサンバのパレード
岩崎城(愛知県日進市岩崎町)
尾張国愛知郡(現在の愛知県日進市岩崎町)に存在した戦国時代の日本の城(平山城)である。台地の先端部を堀切で分断して平山城を形成し、周囲を土塁・空堀・帯曲輪で囲まれる。本丸には、東南部に建造物・西北に人工的に土を盛り上げて作った櫓台(標高・約66メートル)が備わっていた。本丸の馬出とも言える二の丸など、いくつかの曲輪が本丸の周囲を固めていた。空堀は当初は薬研堀であったが、後に一部は箱堀に作り変えられていたことが調査で判明している。
室町時代末期(15世紀末から16世紀前葉ころ)に築城され、慶長5年(1600年)に廃城となった。古い記録によると尾張国勝幡城(現・愛知県愛西市)主・織田信秀(織田信長の父)の支城だったとされる。
小牧・長久手の戦いと岩崎城の戦い
天正12年(1584年)に起きた岩崎城の戦いは、小牧・長久手の戦いのうち長久手の戦いの緒戦となった戦いである。
両軍の膠着状態を打ち破るため、秀吉方によって実行された「三河中入(なかいり)」作戦を阻止し、池田軍の進軍を止めたという点で大きな功績を残した戦いであった。
この時の当主・丹羽氏次はこの戦いで弟の氏重を失ったが、家康からの信頼を得てその後の戦いにも多くの功績を挙げることとなる。
落城後の岩崎城
長久手の戦いの後、落城した岩崎城が再建されたかは確かではない。
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで丹羽氏次は徳川方として参戦、その功績を認められ三河国伊保(現在の愛知県豊田市)1万石の大名として栄転し、岩崎城はここで廃城となる。
現在の岩崎城
廃城後は3百年以上も整備されることは無く、本丸跡は畑となっていた。明治43年(1910年)に旧尾張藩士らの手により、岩崎城の戦いで戦死した丹羽軍将兵を慰めるため、「表忠義」の題を持つ記念碑が本丸の櫓台に建てられた。
「表忠義」
岩崎城在名古屋之東南距岡崎北距小牧各数里小牧之役城主丹羽氏次従徳川氏之軍弟氏重留守敵将池田信輝欲襲岡崎間道潜兵過其城下氏重年甫十六患痘臥蓐聞敵至蹶然執刀而木起母氏見之喜歎交至謂日汝兄従軍汝以死禦敵我興汝共死不以為憾也取鎧授氏重拝謝揮老幼婦女避干城外妙仙寺跨白馬提長槍而出士卒感奮里民工商懐・・・
昭和62年(1987年)には、展望塔として五重構造の天守閣(模擬天守)が築城、「岩崎城址公園」として整備され、併設する岩崎城歴史記念館には岩崎城の歴史や城跡からの出土品などが展示されている。
整備中に偶然発見された6世紀ごろの古墳の跡も公園内に展示されている。
その他、二の丸には水琴窟を持った日本庭園が造られている。
名古屋城本丸御殿 2018年6月8日
2009年から復元工事が始まった「名古屋城本丸御殿」が、10年におよぶ復元計画が終わり、2018年6月8日に完成公開された。完成公開の6月8日は、9時10分から名古屋城本丸御殿玄関車寄前でオープニングセレモニーが開催され、名古屋出身の俳優・舘ひろしさんの名古屋城アンバサダー就任、名古屋市長 河村たかし氏のあいさつ、くす玉開披など。江戸時代に尾張藩が保全した森林は現在も豊かな自然を残し、「木造平屋建こけら葺き書院造」には、築城当時と同じ木曽檜が使用される。焼失を逃れた1049面の障壁画、309枚の実測図、約700枚の写真、約2000個の礎石などの史料から復元され、上洛殿の障壁画は、「狩野探幽」による山水(水墨画)である。
名古屋城本丸御殿は、尾張藩主の住居・藩の政庁として1615年(慶長20年)に徳川家康の命によって建てられた。1929年(昭和4年)に国宝保存法が施行され、 1930年(昭和5年)に名古屋城天守閣、本丸御殿等が国宝第一号に指定された。しかし、1945年(昭和20年)の空襲により建物の大部分を焼失した。
名古屋城の築城と復元の歴史
1610年:名古屋城築城に着手
1615年:本丸御殿が完成
1930年:天守閣とともに建物が国宝指定される
1945年:戦災により天守閣とともに焼失する
1992年:障壁画復元模写開始
2006年:基本設計
2009年:復元工事着手
2013年:第一期公開(玄関・表書院など)
2016年:第二期公開(対面所・上御膳所など)
2018年:完成公開(上洛殿・湯殿書院・黒木書院など)
船頭平閘門
船頭平閘門(せんどうひらこうもん、せんどひらこうもん)は、愛知県愛西市立田町福原にある。木曽川・長良川・揖斐川のいわゆる木曽三川は下流部では合流しており、そのために洪水など災害が絶えなかったので、三川分流工事が明治時代に行われた。この結果、かつては木曽川から長良川の対岸まで行けたものが、わざわざ河口地域まで迂回する必要が生じた。
当時は橋もほとんどなかったため物資輸送などの面で支障が出ることが予想された。そのため、木曽三川分流工事が開始された1892年(明治25年)の2年後にあたる1894年(明治27年)に木曽川と長良川の間をつなぐ水路の建設が決定した。
当時、両河川の水面の高低差が約1メートルあったこともあり、閘門によりその調整を行うことにした。1899年(明治32年)に着工、1902年(明治35年)に船頭平閘門が完成した。閘門の長さは約36メートル、幅は約5メートル半。工費は154,836円11銭9厘(現在の貨幣価値で約5億円)。
完成した当時は年間約2万隻の船の通過があったというが、その後は木曽三川の架橋などによる物流の変化などによって減少し、現在では年間200隻余り、それも漁船やレジャーボートなどがほとんどとなっている。
吉田城 (豊橋)
吉田大橋は東海道では数少ない大きな橋で、川に面した城郭と橋を同時に描くことができる吉田城は、東海道でも屈指の景観として多くの絵師に描かれた。歌川広重の『東海道五十三次』の中で、橋と城が同時に描かれているのは、吉田と岡崎だけである。
戦国時代、16世紀初頭にその前身が築城された。三河支配の重要拠点の1つとして機能し、江戸時代には吉田藩の政庁としての役割を果たした。築城当初、今橋城と呼ばれ、明治維新後、吉田から豊橋の改名に伴い豊橋城とも呼ばれた。
今川義元は駿河から城代を派遣し、支配力を強化する。東三河の国衆にも城代を補佐させて統治協力を強いたが、義元が桶狭間の戦いで討たれると支配力は低下し、永禄8年(1565年)、今川氏を離反した松平家康によって攻略され、今川氏は三河支配権を喪失する。天正18年(1590年)、豊臣秀吉により家康が関東に移封されると、池田輝政が東三河4郡を統べる15万2千石の城主となった。
本丸、二之丸、三之丸。総構えを含めた敷地は、名古屋城などよりも広大で、「加賀百万石」の金沢城(城域面積約30万㎡)に対して、15万2千石の吉田城は約84万㎡であった。1954年(昭和29年)、本丸北西の鉄(くろがね)櫓址に櫓が模擬再建され、公園化された本丸から三の丸には石垣、土塁、堀が残る。本丸石垣は池田輝政時代の石垣であることが判明している。
長篠合戦のぼりまつり 平成30年5月5日(土・祝)
宇連川は愛知県北設楽郡設楽町および新城市を流れる豊川水系の河川で、北設楽郡設楽町の南東部の山中に源を発し南へ流れる。三輪川、板敷川の別称があり、江戸時代以前は大野川と呼ばれていた。上流には宇連ダム、支流の大島川には大島ダムがあり、共に東三河の水源となっていて、新城市長篠の長篠城跡の南で本流の豊川に合流する。
日本100名城に指定された長篠城址で、平成30年5月5日(祝)、1575(天正3)年にあった長篠城をめぐる攻防で亡くなった武田軍と織田・徳川連合軍のめい福を祈るための長篠合戦のぼりまつりが開催された。まつり会場内には5mほどののぼりが何十本も立ち並ぶ。その隣では物産展などの出展もあり多くのひとたちで賑わっている。主な催し物に火縄銃の演武があり、鉄砲隊による演武は、体の芯まで伝わるほどの轟音が城址一帯にいくつも鳴り響き、衝撃的なその威力を肌で感じることができる。
2018年5月3日(木)刈谷 大名行列 奴のねり 山車祭
江戸時代の華麗な歴史絵巻を繰り広げる「刈谷大名行列・山車祭」(刈谷春祭保存継承委員会・刈谷市観光協会主催)が5月3日、刈谷市中心部で3年ぶりに開催された。殿様やお姫様、奴などにふんした総勢約500人がにぎやかに練り歩き、豪華絢爛な2台の山車が引き回される。
刈谷の大名行列は、江戸時代中期ごろから始まったとされる伝統行事で、もとは司町の市原稲荷神社の祭礼として行われた。十万石の格式を持つ秋田出来守という架空の殿様が、神社の神輿を警護する形を表現している。大名行列は寺横町の正覚寺を出発し、行列奉行や奴、少年武者などが約5㌔のコースを歩き、市原稲荷神社に到着する。
一般公募によるメインキャストの殿様はきらびやかなかごに乗り、於大の方(徳川家康の生母)・於富の方(於大の母)・於上の方(於大の姉)の女性列3人の役は花車で行進する。奴が足をひねり上げるような独特な所作を見せる「奴のねり」(市指定無形民俗文化財)は東陽町、万燈通り、於大通り、市原稲荷神社境内の道中4カ所で披露される。
東陽町からは新町・肴町の山車2台(市指定有形民俗文化財)も合流する。刈谷の肴町・新町の山車は、華車、花車、祭礼車とも呼ばれ、市原稲荷神社の祭礼に使われたもので、大名行列開催と併せて山車祭として参加する。
市原稲荷神社の祭礼に参加した山車の起源については、本町が貞亨4年(1687)に、中町が元禄14年(1701)に、肴町が宝永2年(1705)にはあったことが確認されている。その後、寛政9年(1797)に新町、明治10年(1877)に正木新道、市原町が参加をし、最大で6台の山車が参加していた。山車におけるからくり等の上演も古くから行われており、糸からくりは安政6年(1859)まで行われていた。戦争等の影響から昭和40年を最後に山車の参加は無くなったが、平成14年(2002)に約40年ぶりに修復された肴町の山車が大名行列に参加し、平成21年(2009)からは修復された新町の山車が祭りに参加している。
金城埠頭 LEGOLAND JAPAN
金城埠頭は名古屋市港区、一丁目から三丁目があり、北は空見町に接する。埠頭の名称は一般公募により、1965年(昭和40年)5月に命名され、名古屋城の別名のひとつである「金城」にちなむ。
沿革
1963年(昭和38年)名古屋港築港13号地として、公有水面埋立造成に着手。
1965年(昭和40年)10月 保留施設の整備が建設省第五港湾建設局により開始される。
1971年(昭和46年)12月1日 港区金城ふ頭二丁目が成立。
1973年(昭和48年) 名古屋市国際展示場第1展示館が開業する。
1979年(昭和54年) 4月30日 一丁目および三丁目を設置。また、二丁目に埋立地の一部が編入される。
7月 名古屋市国際展示場第1展示場南側に、国際児童年を記念した児童公園「ポートプレイランド」(面積45,699平方メートル)が整備される。
1983年(昭和58年)4月14日 三丁目に埋立地の一部が編入される。
1987年(昭和62年)9月 名古屋市国際展示場第2展示館およびイベント館が開業する。
1989年(平成元年)11月15日 荷役拠点として名古屋港オペレーションセンターが完成する。11月27日 三丁目に埋立地の一部が編入される。
1990年(平成2年)8月24日 三丁目に埋立地の一部が編入される。
1993年(平成5年)10月 名古屋市国際展示場第3展示場および交流センター、立体駐車場が開業し、愛称として「ポートメッセなごや」が設定される。また、この整備に伴って「ポートプレイランド」が廃止されている。
1994年(平成6年)3月31日 名古屋港船舶通航センター(NAVTIC)が設置される。
1998年(平成10年)3月30日 名港中央インターチェンジ開通。
1999年(平成11年)3月25日 ダイエーが運営する倉庫型店舗「Kou’s」が開業する。
2001年(平成13年)7月31日 「Kou’s」閉店。
2004年(平成16年)9月1日 名古屋ベイフットサルクラブ開業。10月1日 あおなみ線開通。
2005年(平成17年)9月17日 結婚式場「アンジェローブ」開業。
2006年(平成18年)4月1日 金城ふ頭ドッグラン開業。
2017年(平成29年)3月30日 メイカーズピア全面開業。
2017年 3月17日 レゴランド・ジャパン報道陣向け内覧会が実施される。
3月19日〜3月21日 – プレオープンイベントが実施される。
4月1日正式開業。
2018年 公式ホテル「レゴランド・ホテル・ジャパン」および水族館「SEA LIFE」が開業。




















