聚楽園大仏
愛知県東海市、聚楽園公園にある阿弥陀如来の大仏は、東海市文化財に指定されている。信仰としての建立ではなく、観光的な目的が強く、像高18.79mの鉄筋コンクリート製で、1985年(昭和60年)に銅色に塗装し直された。
嚶鳴館
細井平洲は江戸時代の儒学者で、享保13年6月28日(1728年8月3日)、尾張国知多郡平島村(現愛知県東海市)の農家に生まれ、幼くして学問に励む。16歳のときに京都に遊学するが、当時有為な学者はほとんど江戸幕府や諸藩に引き抜かれていたので、失望し帰郷する。尾張藩家老竹腰氏家臣の子で折衷学派の中西淡淵が名古屋にも家塾の叢桂社を開くことを知り、師事する。延享2年(1745年)、唐音研究のために長崎に遊学する。宝暦元年(1751年)、24歳の時、江戸へ出て嚶鳴館(おうめいかん)という私塾を開き、武士だけでなく、町民や農民にもわかりやすく学問を広めた。
宝暦13年(1763年)、上杉治憲(後の鷹山)の師となる。治憲は後に米沢藩主となり、米沢藩の財政再建を成功させた。安永9年(1780年)、53歳の時、御三家の筆頭・尾張藩に招かれ、藩校・明倫堂(現・愛知県立明和高等学校)の督学(学長)になった。寛政8年(1796年)、69歳の時、第3次米沢下向。
この時、鷹山は米沢郊外の山上村関根(米沢市関根)まで師を出迎え、普門院にて旅の疲れをねぎらった。これは当時の身分制度を超えた師弟の姿として江戸時代中から知れ渡り、明治時代以降は道徳の教科書にも採用され、昭和10年(1935年)米沢市関根の羽黒神社境内に、「上杉治憲敬師郊迎跡」として国の史跡に指定されてた。享和元年6月29日(1801年8月8日)、江戸尾張藩藩邸で死去、墓所は東京浅草の天獄院。
弟子には寛政の三奇人として有名な高山彦九郎がいる。平洲が米沢藩主になろうとしていた上杉鷹山に送った言葉、「勇なるかな勇なるかな、勇にあらずして何をもって行なわんや」がある。