世界遺産 ワルシャワ歴史地区(ポーランド)

ワルシャワ歴史地区は第二次世界大戦後に再建された歴史地区で、ヴィスワ川沿いのWybrzeże Gdańskie通り、およびGrodzka通り、Mostowa通り、Podwale通りに沿って位置するワルシャワ市の最も古い地区である。

エリアの中心は旧市街マーケットプレイスで、レストラン、カフェ、商店があり、通りを囲むように再現された中世の建造物がある。

世界遺産登録の際、破壊からの「復元文化財」は登録に値しないという理由から登録が危ぶまれたが、世界遺産登録の中心となったワルシャワ工科大学の関係者は「復元されたからこそ登録に値する。もしワルシャワ市街が破壊と復興の歴史がなく、残っていなければ登録しようとも思わない」と説得し、「ワルシャワ旧市街」は「破壊からの復元および維持への人々の営み」が評価された最初の世界遺産となった。

ワルシャワの旧市街は13世紀に建設され当初は土塁で囲まれていたが、1339年までに煉瓦の城壁による城郭都市とされた。

市街はマゾフシェ公の城の周りで独自に発展する。
市場広場 (Rynek Starego Miasta) は13世紀末から14世紀初頭には、城とワルシャワ新市街(Warsaw New Town)をつなげる、北へのびる主要な通り沿いに建設された。
1701年には広場がドイツ人のドイツのティルマンによって再建された。

19世紀以来、市場広場の四隅は、それぞれの角にかつて住んだ特筆すべきポーランド人の名前で呼ばれ、南側がIgnacy Zakrzewskiであり、西側がHugo Kołłątajであり、北側がJan Dekertであり、そして東側がFranciszek Barssである。

19世紀のワルシャワの急速な成長の時期、旧市街は、商業および行政の重要な中心としての地位を失った。旧市街の殆どは無視され、ワルシャワっ子のうちでも貧困層が集まるようになった。第一次世界大戦後ポーランドが独立を得るまでは、地方当局はこの町のこの地区のために注意を払うことをしようとしなかった。

1918年にワルシャワ王宮(Royal Castle, Warsaw)は再びポーランドの最上級の権威者、すなわちポーランド大統領やその首相の執務地になった。

1930年代後半、Stefan Starzyńskiの市政下、市当局は旧市街の一新を開始し、かつての栄光を復元しようとした。城楼と旧市街のマーケット・プレイスは部分的に修復された。しかし、これらの努力は 第二次世界大戦の勃発によって終わりへと追い込まれた。

ポーランド侵攻の間、旧市街地区の殆どがドイツ空軍によってひどいダメージを受けた。ドイツ空軍は、恐怖爆撃の際、街の王宮地区および歴史的ランドマークを標的に絞った。ワルシャワの戦いの後、旧市街の一部が再建されたが、1944年の8月から10月までのワルシャワ蜂起ののち再び、ドイツ陸軍によって計画的に爆破された。暴動を記念する彫像”the Little Insurgent” は現在旧市街の中世の城壁に建設されている。

第二次世界大戦の後、廃墟と化した旧市街は再びポーランド人自身によって厳密に再建された。もともとの建物に使用された煉瓦はできるだけ再利用された。破片はふるいにかけられ、再利用できる要素はもともとあった場所に再度挿入された。ベルナルド・ベッロットの18世紀のヴェドゥータ(都市風景画)は、戦間期に建築学科の生徒が描いた写生と同様、再建努力の根本的なよりどころとして使用された。

1971年まで爆破後の廃墟のままの姿であった王宮は、1970年代前半に再建が開始され、ワルシャワの戦いの最中に隠されていた美術品や装飾が再び配置され、1970年代半ばより国立博物館の一部や祭典会場として使われるようになった。

弦楽四重奏「皇帝」(ハイドン) 〜 世界遺産 ワルシャワ歴史地区(ポーランド)

ルアンパバーン郡・ラオス北部に位置する古都

ルアンパバーン郡、Luang Phabang(Luang Prabang) は、ラオス北部に位置する古都で、タイ語からのローマ字表記が使われていたため、ルアンプラバンあるいはルアンプラバーンとも表記されることがある。

ラオスの首都ビエンチャンからメコン川を約 400 キロメートル上流にさかのぼったカーン川との合流場所に位置し、人口は約 60,000 人。1995年に市街地自体が文化遺産としてユネスコの世界遺産(ルアン・パバンの町)に登録される。

歴史的建造物として、1560年にセーターティラート王によって建てられたワット・シエントーン、1513年に建立されたラオス最古の寺ワット・ウィスナラート、町を一望できるプーシーの丘には1804年にアヌルット王によって建立されたタート・チョムシーと呼ばれる仏塔などがある。町の中心部に位置する旧王宮は、ルアンパバーン国立博物館として利用されている。

略史

古くは「ムアン・スワー(英語版)」と呼ばれた

698年、ムアン・タンに攻められ、初代クーン・ロー王がスワー候国を建国。

11世紀頃よりタイ名「シエンドーンシエントーン と呼ばれる。

1353年にラーンサーン王国の初代ファー・グム王によって首都とされ、ラーンサーン王国の中心として栄え、この時、パバーン仏が贈られた。

1479年8月にベトナム後黎朝の黎聖宗がラーンサーン王国へ親征し、5方向から軍を進め、王都ルアンパバーンを破壊、現在のジャール平原にあたる地域に鎮寧府を設置し、7県を置いて統治する。

1548年にラーンナー王国のセーターティラート王がラーンサーン王国の王にもなり、1551年にエメラルド仏を首都へ運ぶ。

1560年にセーターティラート王がヴィエンチャンに遷都し、シエンドーンシエントーンは「ルアンパバーン」に改称された。パバーン仏とエメラルド仏もヴィエンチャンに移される。

1707年からルアンパバーン王国の首都として栄える。

1777年にトンブリー王朝がヴィエンチャンに侵攻し、シャムの属領とされ、パバーン仏とエメラルド仏を略奪してバンコクへ持ち帰る。

1782年にチャクリー王朝がパバーン仏のみを返還する。

1828年に再びシャムが侵攻して来て、パバーン仏を略奪してバンコクへ持ち帰る。

1867年にパバーン仏が返還される。

1885年にフランスがルアンパバーンに副領事館を開設。

1887年に黒旗軍により壊滅的な打撃を受け、それをきっかけにルアンパバーン王国はフランスの保護を受け入れる。

1905年にフランスによるルアンパバーン王国再編。

1945年3月9日、日本によるラオス進駐が開始される。

1945年8月15日、日本の武装解除を求めた中華民国のラオス進駐開始。

1946年5月13日、フランスがルアンパバーンを占領。

1975年のパテート・ラオによる共産主義革命が起こるまで王宮が置かれ、首都として機能する。

主な観光地

王宮博物館
当時の調度品、贈答品、国のシンボルであるパバーンが保存される。

サッカリン通り
寺院が集中し、早朝には僧侶による托鉢が見られる。

ワット・シェントーン
ルアンパバーンのシンボルにもなっている寺院で16世紀建立。

ワット・マイ
王宮博物館に隣接する大きな寺院。

プーシーの丘
王宮博物館の向かいの小高い丘、300段以上の階段を登りつめれば小さな寺院があり、タート・チョムシーと呼ばれる金色に輝く仏塔が建つ。夜間はライトアップされ、小さな丘の頂上からは町が360度一望できる。

バーン・サーンハイ
メコン川沿いの酒造りの村、壷造りでも有名。

パークウー洞窟
メコン川を27kmほど遡行したところにある洞窟で、約4000体もの新旧入り交ざった仏像が安置される。

クアンシーの滝
市内から約30kmメコン川の下流側にある美しい滝。

ナイトバザール
シーサワンウォン通り入り口付近に毎日18時頃から22時頃開催される市で、飲食の屋台のほか、観光客向けのみやげ物などが多い。

シンガポール植物園

シンガポールで始めて登録された世界遺産のシンガポール植物園は、建国50周年を迎える2015年に、ドイツのボンで開催された第39回世界遺産委員会において登録が認められた。

シンガポールでは1800年代後半、ゴムの研究がされ東南アジアのゴム産業の基礎が作られた。ゴム産業は自動車産業のタイヤの生産と相乗効果をなし、世界の自動車産業に影響を与え、近代産業を促進発展させた。

シンガポール植物園の敷地は、東京ドーム13個分にあたる63.7ヘクタールの広さを有し、園内は「ブキット・ティマ・エリア」、「中央エリア」、「タングリン・エリア」の3つに分かれている。シンガポールの国花は蘭で、人気観光スポットでもある国立洋蘭園には約1000の原種、約2000の交配種の洋蘭が集められ、その数は約6万株と世界最大規模を誇る。

シンガポール植物園の入園料は基本的には無料だが、国立洋蘭園(ナショナル・オーキッド・ガーデン)は有料とされる。なかでも人気なのが、VIP Orchid Garden (VIP蘭園)で、世界各地から訪れた著名人の名前を冠した新種のランが約120点以上も展示されている。

日本の天皇陛下の名前を冠した深紅のランはレナンセラの交配種で、雅子皇太子妃のランは、真っ白な丸い花びらが清楚な感じのするデンドロビウムの交配種。英国のエリザベス女王や故ダイアナ元妃、故サッチャー元英国首相、故ネルソン・マンデラ元南アフリカ大統領、アナン元国連事務総長らのランを始め多種多様なランが咲く。さらに、ジャッキー・チェンや氷川きよしなど、著名人のランの花、変わった形や色のランの花は、訪れた人々を楽しませてくれる。

南米コロンビア、キャノ・クリスタレス (Camo cristales)

南米コロンビアの人里離れた奥地にある国立公園『シエラ・デ・ラ・マカレナ』。この未開の地域を流れる、エル・キャノ・クリスタルは、「5色の川」、「世界で最も美しい川」、「楽園へと続く川」などと形容される。

オリノコ川の源流、アマゾン川の源流に当たり、シエラ・デラ・マカレナの高原から流れ、ギアナ高地と同じ岩盤にある。アンデス山脈の分水嶺付近に当たる地域で、古くからアンデスの農耕民が住んでいる場所でもある。

このキャノ・クリスタレス、1年のうちほどんどの期間は何の変哲もない普通の川であるが、雨季と乾季の狭間の時期、9月~11月の間の僅か2~3週間だけ「楽園」のような美しい姿を見せる。雨季と乾季の間には川の水位が低下し水温が上昇、川底のコケや藻が爆発的な成長をする。赤やピンクのコケの花が咲き乱れ、これと川の水の青さが相まって、カラフルな奇跡の様相となる。

2009年までの数年間は、観光客の急増による環境破壊を懸念したコロンビア政府により国立公園が閉鎖されていた。2009年に国立公園が開放され、一般の観光客もこの美しい様子を見ることができるようになる。車では行くことができないため、近くまで飛行機で行かなければならない。加えて、3か月間の間の2~3週間の間にぴったりと訪問しなければならない。実際に見ることができれば、まさに奇跡と言えるようだ。

世界遺産 オリンピアの考古遺跡

ギリシアのペロポネソス半島西部に位置する古代ギリシアの都市オリンピア(Ολυμπία)。古代オリンピックが行われた場所で、現在も数多くの遺跡が存在し、1989年世界遺産に登録された。フィロンによる世界の七不思議の一つであるゼウス像が存在したことでも知られる。

1950年代に作者のペイディアスの工房とされる遺跡がゼウス神殿付近で発見され、ゼウス像が実際に存在した可能性が強まっている。オリンピア周辺の遺跡の発掘は1829年にフランス人考古学者により始められた。

19世紀にはドイツの発掘隊も加わり、プラクシテレスによるヘルメス像などが発見された。20世紀半ばには競技場跡が発掘されている。遺跡の西側に、アルヘア・オリンビア(古代オリンピア)という名の人口1,400人ほどの町がある。町にはピルゴスとを結ぶ鉄道駅などがあり、20世紀にはいり観光が町の重要な産業となった。

古代オリンピックの始まりは紀元前8世紀にまでさかのぼり、伝染病の蔓延に困ったエリス王イフィトスが争いをやめ競技会を復活せよと言うアポロンの啓示を受けた事に由来すると伝えられている。

これがゼウスへの奉納競技の始まりで1000年以上、293回に渡って行われたが、394年にローマ帝国皇帝テオドシウス1世の異教神殿破壊令により廃止された。

競技会の発端となる「競技会を復活」と言う啓示のくだりは過去にも競技が存在したそれを示唆するものと考えられ、実際の競技の開始はもっと早かったのではと見られている。

ダフニ修道院ほか(ギリシャ)

世界遺産 ダフニ修道院、オシオス・ルカス修道院、ヒオス島のネア・モニ修道院(英名 Monasteries of Daphni, Hosios Loukas and Nea Moni of Chios)は、ギリシャ共和国にある東ローマ帝国時代に建設されたギリシャ正教(正教会)の3つの修道院から構成されて1990年に世界遺産として登録される。

3つの修道院は地理的には離れた場所に所在しているが、いずれもビザンティン時代中期に建設された修道院である。これらの修道院の中央聖堂(カトリコン)など、主要な建物は中期ビザンティン建築に特徴的なスクィンチ式教会堂の形式で建てられる。

スクィンチ式教会堂とは、正方形平面の四隅に設けたスクィンチが形成する八角形平面の上に鼓胴壁付きのドームを架けたものを主屋とする教会堂形式を言う。ギリシャ共和国において11世紀に作成されたモザイクが残されているのはこの3つの修道院のみで、ネア・モニ以外の修道院については建設の過程は未知である。

ダフニ修道院
アテネ近郊のダフニにあり修道院の設立に関する書類は全く残っていないが、中央聖堂のモザイクの様式から11世紀の設立と考えられている。
中央聖堂は、複合型スクィンチ式の教会堂で成熟した中期ビザンティンのモザイクを見ることができる。

オシオス・ルカス修道院
中央ギリシャ地方・ヘリコン山の麓にある修道院で、9世紀に現れた奇跡を起こす克肖者ルカのために建設されたと伝わるが、ダフニ修道院と同様に建設の経緯などの資料は残っていない。
中央聖堂は、複合型スクィンチ式の教会堂で、4円柱式内接十字型の教会堂、生神女聖堂(テオトコス聖堂)があるが、生神女聖堂のほうが建設時期は古いようで966年頃に、中央聖堂は1048年に完成したものと伝わる。

ネア・モニ修道院
東エーゲ海のヒオス島にある修道院で、建設の経緯や年代がある程度判明している。起原はヒオス島の修道士ニケタスとヨアンニスが、追放中であったコンスタンティノス・モノマコスが皇帝になると予言し、後に、彼がコンスンティノス9世として即位したことに始まる。
コンスタンティノス9世は、2人のために修道院を建設し、寄進と多くの特権を与えたという。中央聖堂は単純型スクィンチ式教会堂と呼ばれる形式である。

アラブ・ノルマン様式のパレルモと、チェファル、モンレアーレの大聖堂

アラブ・ノルマン時代の栄華の跡が今も残るシチリア北部のパレルモでは、西洋とイスラム・ビザンチン文化圏の、社会・文化要素が融合し全く新しい空間、構造、装飾様式が誕生した。

当時、異なる宗教をもつ異民族(イスラム、ビザンチン、ラテン、ユダヤ、ロンゴバルド、フランス)が共存を果たしたことがうかがわれる。古代、パレルモはフェニキア人によって築かれ、当時の名はジズ Ziz (花の意)と言った。

まもなくギリシア人の航海者や商人と交流がされ、ギリシア語名パノルモス、ラテン語名パノルムス(Panormus)が生まれた。これは、ギリシア語で「すべてが港」を意味する語がラテン語化したものである。

第一次ポエニ戦役(紀元前264年~241年)でローマの手に落ちる西ローマ帝国滅亡後は東ローマ帝国領となる。9世紀、イスラム勢力が北アフリカからシチリア島に侵入しパレルモが陥落しシチリア全島がイスラムの手に落ちる。イスラム王朝の首都はパレルモに移され、絢爛たるイスラム文化が花開く。

当時のパレルモの人口は30万、モスクの数は300余、キリスト教徒やユダヤ教徒も共存して繁栄を極める。11世紀に南イタリアに到来したノルマン人が、イスラム支配下のシチリアを征服し、1091年にはシチリア全島がノルマン人の手に落ちる。フランス文化とイスラム文化が融合した独自の都市文化を形成し、その後シチリア王国の支配権は神聖ローマ帝国のホーエンシュタウフェン家に移り、アラビア語にも堪能な異色の皇帝フェデリーコ2世が生まれた。

13世紀にはフランスの王弟シャルル・ダンジューに征服され、アンジュー家の支配下に入るが、シチリア島民の反乱によってアンジュー家はナポリへ移り、シチリアはスペインのアラゴン家に支配される。
1479年以降はパレルモにスペイン副王が駐在する。

近代・現代
18世紀、スペイン継承戦争の結果、シチリアは一時オーストリアに渡る。
1734年、スペイン・ブルボン家の王子カルロスによってナポリと共に征服され王宮はナポリに移りパレルモは地方都市に転落する。
19世紀始め、ナポレオン軍の南イタリア侵攻によってナポリのブルボン家が一時パレルモに逃れてくるが、ウィーン条約体制下で王宮は再びナポリに戻り、両シチリア王国が成立する。

移り、シチリアはスペインのアラゴン家に支配される。
1479年以降はパレルモにスペイン副王が駐在する。

近代・現代
18世紀、スペイン継承戦争の結果、シチリアは一時オーストリアに渡る。
1734年、スペイン・ブルボン家の王子カルロスによってナポリと共に征服され王宮はナポリに移りパレルモは地方都市に転落する。
19世紀始め、ナポレオン軍の南イタリア侵攻によってナポリのブルボン家が一時パレルモに逃れてくるが、ウィーン条約体制下で王宮は再びナポリに戻り、両シチリア王国が成立する。

パレルモの守護聖人は1624年の黒死病から町を救ったと伝えられる聖ロザリアとされ、毎年7月14日に盛大な祭が行われる。

ノルマン王国のシチリア統治時代(1130年~1194年)の教会や建造が
イタリア、51番目の世界遺産、『アラブ・ノルマン様式のパレルモと、チェファル、モンレアーレの大聖堂』として登録される。

今回登録された遺産

1) ノルマン王宮とパラティーナ礼拝堂 Palazzo dei Normanni e Cappella Palatina

歴史・芸術的にパレルモで最も重要なモニュメント。
9世紀にアラブ人が建築した城を、12世紀にノルマン王達が拡大強化して、要塞であり荘厳な王宮とし、フェデリコ2世の統治時代には王宮は国の政治・経済だけでなく、ヨーロッパの文明の中心となる。
パラティーナ礼拝堂はキリストをはじめ聖書の様々な場面が描かれたまばゆいばかりの黄金のモザイクで装飾されている

2)サン・ジョヴァンニ・デリ・エレミティ教会 Chiesa di San Giovanni degli Eremiti

ノルマン王ルッジェーロ2世統治下の1136年、修道院跡に建てられたパレルモのシンボルともいえる記念的建造物。
四角の立方体のような本体部分の上に赤い丸屋根という形式はイスラム風。
アラブ風貯水槽を囲むように造られた小回廊は、ノルマン人支配後期のもので、美しく調和した2本の柱が支える小アーチが整然と並び、南国情緒が漂う。

3)サンタ・マリア・デッランミラリオ教会(マルトラーナ教会)

Chiesa di Santa Maria dell’Ammiraglio (Chiesa della Martorana )
1143年ノルマン王ルッジェーロ2世の海軍大将ジョルジョ・ディ・アンティオキアが建てた。
現在外観でノルマン王朝時代のものは鐘楼などだけ、内部を飾るビザンチン様式のモザイクには、キリストにより戴冠されるルッジェーロ2世や、聖母マリアの足元にいる海軍大将などが描かれる。

4)サン・カタルド教会 Chieda di San Cataldo小)サン・カタルド教会とマルトラーナ教会外観

ノルマン王グリエルモ1世の12世紀後半に建設され、19世末に大幅に修復。
ノルマン風の特徴がみられる教会として簡素な形態ながら重要な建築。

5)パレルモ大聖堂 (カッテドラーレ)  Cattedrale

7世紀の教会がアラブ支配時代に回教寺院となり、ノルマン王により再びキリスト教の手に返され、現存の建物は12世紀グリエルモ2世の時代に創建された。
14~16世紀にかけて手が加えられたが大聖堂は創建当初からパレルモとシチリアの歴史の舞台となった。
内部には各時代の皇帝や王の霊廟がある。

6)ジーザ宮殿 The Castello della Zisa
宮殿名は、アラビア語で素晴らしいを意味するAzizに由来。
ノルマン王グリエルモ1世が、王の別邸として創建。
イスラム建築の宝石ともいえる館。

7)アンミラリオ橋 Ponte dell’Ammiraglio

ルッジェーロ2世の海軍大将ジョルジョ・ディ・アンティオキアにより1130~1140年に造られた橋。
ノルマン統治時代の高い技術的・文化的レベルを示す橋。

8) チェファルー大聖堂 Duomo di CefaluDuomo di Cefalu

チェファルは海に面する岩山の斜面や麓に広がる街。
ルッジェーロ2世が嵐の海で助かったことを聖母に感謝するため、1131年に建設が開始された大聖堂は、ノルマン時代の最も壮大なモニュメントのひとつ。

9) モンレアーレ大聖堂 Duomo di Monreale

モンレアーレの大聖堂ドゥオーモは、1172年から1176年にかけてノルマン王グリエルモ2世の命により建設される。
外観は、正面の頑強な2基の鐘楼塔、そして3つのアプシス(後陣部)壁面には、イスラム職人の参加による多色象眼細工に装飾される。
内部の壁面はビザンチン様式のモザイク装飾。
中央内陣には巨大な『全能のキリスト』を中心に、旧・新約聖書の一連の物語やエピソードが描かれる。
回廊は完全な正方形で、モザイクや象眼装飾が施された小円柱が連続性を保ち並ぶ。
アーチで囲まれた小さな噴水は東方の楽園の庭を思わせる。

ブルゴーニュのブドウ畑のクリマ

ブルゴーニュ地域圏(Bourgogne)は、パリの東南部、リヨンの北部に位置するかつて存在した地域圏(région) で、セーヌ川に注ぐヨンヌ川とローヌ川に注ぐソーヌ川の上流部にあたる。


1832年に完成したブルゴーニュ運河によりヨンヌ川とソーヌ川が結ばれて大西洋と地中海が連絡するようになる。ブルゴーニュ地方はボルドーと同様にぶどう栽培に理想的な気候条件でワインの銘醸地であるが、ボルドーと比べると小規模な個人経営の農園が多い。

非常に古いぶどう品種の発祥の地でもあり、全体の80%以上がシャルドネ/Chardonnayとピノ・ノワール/Pinot Noirで占められ、その他ガメイ/Gamayとアリゴテ/Aligotéが栽培されている。「ブルゴーニュのブドウ畑のクリマ Les Climats du vignoble de Bourgogne」は「人類が2千年をかけて育み、世界に伝播した他所にはないブドウ栽培のモデル」として<文化遺産>分野での登録を受けた。黄金の丘と呼ばれる地域を中心に開墾されたブドウ畑は、キリスト教、ブルゴーニュ地方を核とした修道院制度とともに発展した。

ブルゴーニュの特徴
Climatクリマと呼ばれる「細分化された区画畑」に格付けされ、畑が分割所有されている場合は、同じ畑のワインでも造り手によって格付けが違ってくる。

特級 Grand Cru
ブルゴーニュで、最も格が高く特定の区域が格付けの対象となり、ラベル表示は、「畑名」で表示される。
「シャンベルタン」(ジュヴレ・シャンベルタン村のシャンベルタン畑)
「モンラッシェ」(ピュリニー・モンラッシェ村のモンラッシェ畑)

第1級 Premier Cru
特級と同様、畑の中の特定の区域が対象で、その畑でとれたブドウだけを使ったワインで、ラベル表示は、その村の名前を表記し、その下に小さく「Premier Cru」「1er Cru」と付けるか、「畑名」を付ける。
「ジュヴレ・シャンベルタン・クロ・サン・ジャック」
(ジュヴレ・シャンベルタン村のクロ・サン・ジャック畑)
「ピュリニー・モンラッシェ・フォラティエール」
(ピュリニー・モンラッシェ村のフォラティエール畑)
ボルドーの第1級との混同を避けるため、「プルミエ・クリュ」と呼ぶ。

村名ワイン AOC Communal
同じ村の畑でとれたブドウを使い、同じ村の範囲であればブレンドしてもよいが、他の村との混合は許されない。
「ジュヴレ・シャンベルタン」
(ジュヴレ・シャンベルタン村の産)
「ピュリニー・モンラッシェ」
(ピュリニー・モンラッシェ村の産)

一般広地域名ワイン AOC Bourgogne
ブルゴーニュ全域で造られるワイン。
「ブルゴーニュ」
「ブルゴーニュ・パストゥグラン」(ガメイ種とピノ種のブレンド)、「ブルゴーニュ・アリゴテ」(アリゴテ種を使った白)

キューバの世界遺産

ハバナ旧市街とその要塞群 – (1982年)トリニダとロス・インヘニオス渓谷 – (1988年)サンティアゴ・デ・クーバのサン・ペドロ・デ・ラ・ロカ城 – (1997年)ビニャーレス渓谷 – (1999年)キューバ南東部のコーヒー農園発祥地の景観 – (2000年)シエンフエーゴスの都市歴史地区 – (2005年)カマグエイ歴史地区 – (2008年)グランマ号上陸記念国立公園 – (1999年)アレハンドロ・デ・フンボルト国立公園 – (2001年)

釜山

韓国の南東部釜山は、ソウルに次ぐ大都市でグルメ、ショッピング、レジャーなど、観光の拠点も多い。

表忠寺(ピョチュンサ)
載薬山(ゼヤッサン)の南西側にある古刹で1300年もの歴史がある寺院。新羅興徳王時代829年に創建され、当時は竹林寺と称していた。
文禄の役(壬辰倭乱)、慶長の役(丁酉倭乱)の際には、西山(ソサン)大師とその弟子の泗溟(サミョン)大師が、義僧軍5000人を率いて烽起し、豊臣軍と戦った。

巨済島
海上から高さ100mにも及ぶ巨大な岩や亀の形をした岩や断崖絶壁などダイナミックな自然美を満喫できる。巨済島から行く外島は韓国の人気ドラマ冬のソナタのロケ地。

ロッテ免税店
ロッテ百貨店の8階、高級ブランド商品が豊富に揃っているほか、人気の韓国コスメコーナーなど旅行客の評判が高い。

忠烈祠(チュンニョルサ)
16世紀末、文禄・慶長の役で殉死した戦士の位牌を祀る。1605年に東莱府氏のユ・フォンによって初めて建立され、1652年に現在の位置に移された。本殿には93柱の位牌が奉安されており、毎年5月25日には市民によって祭祀が執り行われる。

チャガルチ市場
韓国内きっての有名な海鮮市場のチャガルチ市場は、新鮮な刺身や魚介類が揃う釜山を代表する観光地。

釜山港
1973年に建築された高さ120mのタワー。円形の展望台から、南は釜山港やチャガルチ市場、東はロッテホテル、西は影島、北は民主公園と、東西南北すべての景色を見渡せます。

海雲台
約12万名を収容できると言われている海雲台ビーチは、名称、規模共に国内、海外にも知られているリゾートビーチとして有名。

ショッピングストリート
南浦洞エリアは、釜山タワーがある龍頭山公園などの観光地、そして国際市場やチャガルチ市場のショッピング&グルメスポット、お洒落なカフェやレストラン、また昔ながらの食堂なども多く、韓国の新旧が入り混じるディープで楽しいエリア。

新世界スパランド
センタムシティのビルの中でリラックスできる癒しのスペースとして注目される。2400坪の広さで、天然温泉、露天風呂、多様なサウナが22種類、レストラン、カフェ、ネイルショップ、マッサージ、エステなど、癒しツールがすべて揃う。

海東龍宮寺(カイトウリュウグウジ)
1376年創建の寺院で、文禄・慶長の役で焼失した。1974年に観音寺となり、韓国の三大観音聖地として知られるようになる。地元の人々の信仰も厚い。

梵魚寺(ポモサ)
釜山で最も歴史を感じられる場所、梵魚寺(ポモサ)は、釜山の北のはずれ、金井山(キムジョンサン)の麓に位置する。韓国5大寺院にも数えられる由緒正しい寺で、禅寺の総本山でもあり、釜山の主要観光地でもある。