日本大正村 (岐阜県恵那市)

岐阜県恵那市にあるテーマパーク日本大正村は、旧恵那郡明智町の町おこしとして、沢田正春(文芸写真家)と観光協会により構想され立村された。開園は1988年(昭和63年)4月、管理運営は財団法人日本大正村である。特定の敷地内に設けられた施設ではなく、街全体(旧・明知町)として大正時代の雰囲気を保存・再現する。

店舗、資料館、博物館などが軒を連ね、郵便局や銀行は実際の窓口業務も行う。明知鉄道明知線明智駅の駅舎も大正村の一部とされている。初代村長は高峰三枝子、2代村長は司葉子が務め、2015年より三代目村長として竹下景子が務める。日本昭和村(岐阜県美濃加茂市)、明治村(愛知県犬山市)と直接の関係は無いが、3村で連携は行われている。

大正村役場 
明治39年に建てられた瓦葺の寄棟造り木造2階建ての建物。
昭和32年まで明知町の庁舎として使用されていた。
現在は無料休憩所を兼ねる大正村役場。
登録有形文化財。

日本大正村資料館
明治末期の木造百畳敷き、一部4階建ての建物。
銀行蔵で、農家から預かったり買い取ったりした繭を収納していた。
恵那市指定有形文化財。

逓信資料館 
旧郵便局の庁舎を利用した郵政・電信に関する資料館。
隣接して明智郵便局がある。

映画、青い山

原作、石坂洋次郎、監督、松林宗恵の東宝映画、青い山脈は、1957(昭和32)年恵那市と中津川市でロケーションが行われた。「青い山脈」は、過去5回も映画化されており、恵那でロケされた映画は、2度目のもの。

俳優は、現大正村村長の司葉子(島崎雪子役)や宝田明、雪村いづみ、久保明などが来市し、恵那高等学校や恵那峡、大井橋辺りの阿木川畔、中央通りなどでロケーションが行われた。多くの市民もエキストラや裏方のお手伝いとして映画づくりに参加し、その体験が主題歌の「青い山脈」とともに市民の心の拠り所になる。

神戸・神戸北野異人館街

俗説に、平清盛が福原京遷都の際に北野天満宮を勧進したともあるが、『西摂大観』によれば「小野」の北の傾斜地というのが地名の由来であるという。
宇治野、平野、夢野などと共に神戸七野の一つに数えられる。

北野天満神社の境内には行者塚と呼ばれた古墳があって山伏から信仰を集めた。明治22年(1889年)の市道工事で一部が破壊され、土器や鉄器が出土した記録がある。江戸時代には北野村と呼ばれる幕府領で、現在の北野町はその北端にすぎない。『神戸市史』によると農業の他、男は酒造稼ぎ、女は木綿稼ぎをするのが普通だったという。

明治20年代から大正初期にかけて建築された異人館が残る観光名所で、市は約32haを市都市景観条例に基づいて都市景観形成地域に指定する。
このうち9.3haが文化財保護法による重要伝統的建造物群保存地区、「北野町山本通」として指定される。

北野は中世以前より交通の要所として知られ、丁度古墳のあたりが峠で、三丁目には「北野の三本松」として知られた目印・憩いの場があった。
大正初に一本が切られ、昭和7年(1932年)の台風で二本目が倒れ、残る一本も昭和13年(1938年)に切り倒された。

葵祭 2017

2017年(平成29年)5月15日(月曜日)10:30から行われる。
葵祭2017の前儀・後儀(関連行事)は5月1日(月曜日)から21日(日曜日)頃まで行われる。

葵祭・路頭の儀(行列)は京都御所から出発し、下鴨神社に向かい、到着後に葵祭・社頭の儀を行う。


その後下鴨神社から出発し、上賀茂神社に向かい、到着後に葵祭・社頭の儀を行う。京都御所出発(10:30)→堺町御門→丸太町通(11:00頃)→河原町通→下鴨神社到着(11:40頃)下鴨神社出発(14:20)→下鴨本通→洛北高校前(14:40頃)→北大路通→北大路橋(14:55頃)→賀茂川堤→上賀茂神社到着(15:30頃)

【葵祭 歴史・概要】
葵祭は古墳時代後期の欽明天皇(540年~571年)の時代、京都をはじめ全国が風水害に見舞われて飢餓・疫病が流行し、賀茂大神(上賀茂神社・下鴨神社)の崇敬者・卜部伊吉若日子(うらべのいきわかひこ)に占わせられたところ賀茂大神の祟りであるとした為、4月吉日を選んで、馬に鈴を懸け、人は猪頭(いのがしら)を被り、駆競(くち・かけくらべ)して、盛大に祭りを行ったことが起源である。


葵祭とは俗称で、正式名称には賀茂祭(かもまつり)で、祭儀に関わる人や社殿の御簾(みす)・牛車に至るまで二葉葵を桂の小枝に挿し飾ることから葵祭と言われる。

【葵祭2017 行列】
葵祭の行列は勅使の本列と斎王代の斎王代列に大きく分類される。本列は乗尻(のりじり)・検非違使志(けびいしのさかん)・検非違使尉(けびいしのじょう)・山城使(やましろつかい)・御幣櫃(ごへいびつ)・内蔵寮史生(くらりょうのししょう)・馬寮使(めりょうつかい)・牛車(ぎっしゃ)・御馬(おうま)・和琴(わごん)・舞人(まいびど)・陪従(べいじゅう)・内蔵使(くらづかい)・勅使(ちょくし)・牽馬(ひきうま)・風流傘(ふりゅうがさ)・風流傘(ふりゅうがさ)などで構成される。本列の勅使が葵祭の本来の主役である。

斎王代列は命婦(みょうぶ)・女嬬(にょじゅ)・斎王代(さいおうだい)・騎女(むなのりおんな)・蔵人所陪従(くろうどどころべいじゅう)・牛車(ぎっしゃ)・命婦(みょうぶ)などで構成されている。
斎王代列の斎王代が葵祭の現在の主役である。
ちなみに斎王代は平安時代に賀茂社(上賀茂神社・下鴨神社)に仕え、葵祭に奉仕した斎王に倣い、1956年(昭和31年)に創設された斎王の代理である。葵祭2017の第62代・斎王代(2017)は同志社大政策学部2年・富田紗代さん(19歳)。

上げ馬神事 (多度大社)

多度祭の由緒は、南北朝時代の暦応年間(一三三八~一三四一)に、このあたりを分領する武家の中より始まったと伝わる。

元亀二年(一五七一)織田信長の兵火に罹り一時中断するが、関ヶ原の合戦後、徳川四天王の一人、本多忠勝公が桑名城主として着任し(一六〇一)、その再興に尽力した。その後も、歴代の桑名藩主により厚い力添えが寄せられ、今日まで連綿と継承されてきた。

御厨は七地区からなり、神児一名(肱江地区)騎手六名(小山・戸津・北猪飼・猪飼・力尾・多度地区から一名宛)が選出され、騎手が選出される地区は上げ馬を行い、その順番は、毎年輪番で交代しておこなわれる。最初にそれを行う地区を花馬といい、その地区の指示により神事が進行される。

神事では、古くより農作の時期や豊凶を占われ、数多く上がれば豊作、少なければ凶作、又最初の方の馬が上がれば「早稲(わせ)」、中頃であがれば「中手(なかて)」最後の方であれば「晩稲(おくて)」の苗を選ぶと良いとされ、稲の品種も占われてきた。

醍醐寺

京都府京都市伏見区醍醐東大路町にある、真言宗醍醐派総本山の寺院。山号を醍醐山(深雪山とも)と称する。本尊は薬師如来、開基(創立者)は理源大師聖宝、古都京都の文化財として世界遺産に登録されている。伏見区東方に広がる醍醐山(笠取山)に200万坪以上の広大な境内をもち、豊臣秀吉による「醍醐の花見」の行われた地としても知られている。

創建は貞観16年(874年)、空海の孫弟子にあたる理源大師聖宝が准胝観音並びに如意輪観音を笠取山頂上に迎えて開山。聖宝は同山頂付近を「醍醐山」と名付けた。山深い醍醐山頂上一帯(上醍醐)を中心に、多くの修験者の霊場として発展した後、醍醐天皇は醍醐寺を自らの祈願寺とすると共に手厚い庇護を掛け、その圧倒的な財力によって醍醐山麓の広大な平地に大伽藍「下醍醐」が発展した。

その後、応仁の乱など戦乱で下醍醐は荒廃し、五重塔のみが残された。しかし豊臣秀吉による「醍醐の花見」をきっかけに、紀州などから寺院建築が移築されたり三宝院が建設され今日の姿となった。

下醍醐
本尊薬師如来を安置する「金堂」、「三宝院」などを中心に、絢爛な大伽藍が広がる。応仁の乱でほぼ全焼し、その後も焼失・再建を繰り返しているが、護摩道場前に建つ五重塔は創建当時のまま現在に残る。五重塔内部の壁画も国宝に指定されており、壁画中の空海像は同人の肖像として現存最古のものである。

上醍醐
西国三十三所第11番札所。西国一険しい札所として知られ、上り口にはかつて女人結界があったことから、女人堂がおかれ、そこから険しい山あいに、平安時代のままに残る国宝の薬師堂、醍醐寺の鎮守神である清瀧権現拝殿(国宝)、准胝堂(現存せず)、五大堂などが立ち並ぶ。
上醍醐には有名な「醍醐水」が今も湧き出ているほか、醍醐山頂(標高450m)には、如意輪堂(重文)と開山堂(重文)と白山大権現が並ぶ。
山頂から笠取山に向かう途中に奥の院がある。

田縣神社 (愛知県小牧市)

田縣神社(たがたじんじゃ)は愛知県小牧市にある。主祭神は御歳神、玉姫神、社格は郷社、創建の年代は不詳だがかなり古い神社である。延喜式神名帳にある「尾張国丹羽郡 田縣神社」、貞治3年(1364年)の『尾張国内神名牒』にある「従三位上 田方天神」に比定されている。

現在地は旧春日井郡なので、後に遷座したことになる。3月に行なわれる豊年祭が有名で、古い土着信仰に基づいた子宝と農業の信仰を結びつけた祭事である。祭神は御歳神と玉姫神で、五穀豊穣と子宝の神とされる。

社伝によれば、当地は大荒田命の邸の一部で、邸内で五穀豊穣の神である御歳神を祀っていた。玉姫は大荒田命の娘で、夫が亡くなった後に実家に帰り、父を助けて当地を開拓したので、その功を讃えて神として祀られるようになったという。

豊年祭

毎年3月15日に行われる奇祭として有名な祭事で、春に行われる理由は、「新しい生命の誕生」を意味するからという。少し離れた場所には大縣神社があり、この豊年祭(別名「於祖々祭(おそそ祭)」が対になっている。

大縣神社 豊年祭り 2017年3月12日

愛知県犬山市にある大縣神社(おおあがたじんじゃ)は、旧社格は式内社(名神大)・尾張国二の宮・旧国幣中社・別表神社。「垂仁天皇27年(紀元前3年)に、本宮山の山頂から現在地に移転した」と伝わり祭神は、大縣大神(おおあがたのおおかみ)とされ、尾張国開拓の祖神であるとされている。

大縣大神は、国狭槌尊とする説、天津彦根命(大縣主の祖神)とする説、少彦名命とする説、大荒田命(日本武尊の三世孫で迩波縣君の祖)とする説、武恵賀前命(神八井耳命の孫)とする説などがあり、はっきりしない。

かつては別宮二社、末社52社があったとされ、その中の一つの摂社の姫の宮には、玉姫命が祀られ古来より安産・子授など女性の守護神として崇敬されている。

本宮山の山頂には、大縣大神の荒魂を祀る本宮社がある。同神社は、愛知県で二番目に大きい前方後円墳である茶臼山古墳(青塚古墳)も管理し、付近には円墳などの古墳群が点在する。

墨俣城 吊り雛

木下藤吉郎、のちの羽柴秀吉・豊臣秀吉が出世するきっかけになったと伝わる「墨俣城」は、長良川西岸にある洲股(墨俣)にある。もともと、川の中洲に斎藤利為らが築いた洲股要害として機能していた。尾張から美濃へ侵攻する重要拠点で、度々合戦になっていと言う。

1561年には、美濃斎藤勢の要害を織田信長は攻略し「洲俣要害」を改修して在陣したと信長公記に見られる。織田信長の命で、洲股砦城の建設が命ぜられるも、佐久間信盛、柴田勝家も失敗し、木下藤吉郎(豊臣秀吉)が「7日のうちに完成させます」と言上し、美濃勢を伏兵奇計で撃退しながら、砦城の建造準備を行い、1562年6月中旬頃、雨で戦闘が中断している中、上流から流した材木を組み立て、一夜にして墨俣城を完成させたと言う逸話がある。

これらの伝説は、1959年に愛知県江南市にて発見された前野家古文書をもとにした内容ですが、議論は分かれ、豊臣秀吉に協力して墨俣城を築いたとされる蜂須賀小六の史料にも一夜城の記述は見あたらない。一夜城の逸話は江戸時代に作られた創作であるとする説もある。

大垣市 いき粋墨俣 つりびな小町めぐり2017

墨俣宿は、古く室町時代まで、鎌倉街道(京都~鎌倉)の宿場町であり、江戸時代には、美濃路の宿場町として栄えた。

美濃路墨俣宿一帯の寺院や店舗等32か所に雛飾りや吊り雛を飾り、スタンプラリーや写真コンテストが行われる。

脇本陣
江戸時代からの宿場町の面影を残す築100余年の脇本陣は、現在、和雑貨のギャラリーを兼ねた地元名産品ショップになっている。

光受寺

墨俣一夜城の近くにある光受寺の境内には、鮮やかな白・紅・桃色のしだれ梅15本が植えられ、紅白のしだれ梅も一緒に楽しむことができる。

国府宮神社 はだか祭り 2017

愛知県稲沢市の国府宮神社で開催される儺追神事(なおいしんじ)、通称・はだか祭りは、毎年旧正月十三日に行われる。2017年の開催日は2月9日(木)。儺追神事の関連行事は2月8日(水)~2月10日(金)まで行われる。

儺追神事の当日は、朝5時に行なう「神男一番祈祷」を皮切りに、厄除けのご祈祷を受ける人や御守りの「なおいぎれ」等を受ける人々で境内は雑踏する。午後三時になると神男が参列し、本殿において「儺追神事」が斎行される。その頃拝殿の外では近隣各地区からの裸男達の集団が次々と「なおい笹」を捧げ喚声を上げて威勢良く拝殿へ駆け込んで来る。

最後に小池正明寺地区の手桶隊が登場し、裸男達をめがけて水をかける。すると裸男達は待ちわびたかのように一層大きな喚声を上げ神男の登場を待つ。この時から神社周辺は異様な雰囲気に包まれる。神事の最中、神男は警護の者に守られ、全身無垢の姿で参道に群がっている裸男達の中に飛び出す。

裸男達は、神男に触れる事で自分達の厄災を祓うことが出来ると信じ、一斉に神男に殺到する。神男が、はだかの群集に揉まれ触れられ人々の厄災を一身に受けて儺追殿に納まった後、神事が終了する。このはだか男達の揉みあいは、江戸時代末頃から始まった。

湯ヶ島温泉 落合楼 村上

国指定登録有形文化財に指定された和とモダンな雰囲気が織り成す空間の落合楼は伊豆半島を流れる狩野川の起点、本谷川と猫越川の「」落ち合う」場所にある。明治14年に、逗留中の山岡鉄舟が宿の庭から川の落ち合う様子を眺め「落合楼」と称したのが由来となっている。

明治七年に足立三敏が、本谷川と猫越川(ねっこがわ)が合流して狩野川の起点となる当地に旅館業を営み「眠雲樓」と称したのが眠雲樓落合楼の創始。以降、落合楼の名称が用いられてきたと伝えられる。

昭和十年一月には、北原白秋が20日余り滞在して歌作に専念してたという記録がある。建物のうち玄関を含む本館の一部と眠雲亭は、昭和8年から12年にかけて建てられた。良質の建築材をふんだんに使った贅沢な造りで、国指定登録有形文化財に指定されている。

客室数 14室全室バス・トイレ付(収容人員56名)
お風呂 大浴場(内湯)、天狗の湯(露天風呂)、貸切露天風呂(要予約)
入浴時間 15:00~翌10:00
宴会場 紫檀の間:108畳/梅1:36畳/梅2:59.4平米/梅3:36畳/竹1:15畳/竹2:15畳/竹3:15畳
菊1:15畳/菊2:15畳/菊3:15畳/しゃくなげ:10畳+10畳
施設 眠雲橋、ロビーラウンジスワン、テラス、売店、完備