東山ひがし (金沢)

石川県金沢市の東山ひがし地区は、重要伝統的建造物群保存地区で、ひがし茶屋街の名称で知られる。南北約130m、東西約180m、約1.8haで、保存地区内の建築物140のうち約3分の2が伝統的建造物である。茶屋町創設時から明治初期に建築された茶屋様式の町家が多く残る。創設時の敷地割をよく残し、全国でも希少な茶屋様式の町屋を多く残しているとして、2001年11月14日、種別「茶屋町」で、国の重要伝統的建造物群保存地区として選定された。

天正8年(1580年)、佐久間盛政が金沢御坊を攻略し金沢城を築城したのち、前田利家が入城し、金沢城下は城下町として栄えることとなる。加賀藩では領民にも謡を奨励し、多くの領民が謡を習い、その裾野は大きく広がり、「空から謡(うたい)が降ってくる」と言われるほどの町になったが、そんな風情が一番残っている町である。

江戸時代、城下町近郊を流れる犀川・浅野川両界隈に多くの茶屋が立ち並び、犀川西側に「にし」の茶屋町、浅野川東側に「ひがし」の茶屋町が共に開かれた。この際、旧来の不整形な町割は改められ、整形な街区が形成され、浅野川をはさんで北西に茶屋街の一つである主計町がある。二番丁にある茶屋「志摩」は、歴史的価値が高いことから2003年12月25日に国の重要文化財に指定され、一般公開されている。

金沢生まれの作家、井上雪の小説『廓のおんな』は、この町が舞台(旧「愛宕町』)で、伝統的な金沢弁で描写されている。

近江八幡

近江八幡市は琵琶湖東岸に位置し、近江商人や安土城で知られる近江八幡市は、豊臣秀次が築いた城下町を基礎として、近世は商業都市として発展し、近江商人の発祥の地である。近世の風情がよく残る新町通り、永原町通り、八幡堀沿いの町並みおよび日牟禮八幡宮境内地は「近江八幡市八幡伝統的建造物群保存地区」の名称で国の重要伝統的建造物群保存地区として選定され、時代劇の撮影場所としてもよく使われる。ウィリアム・メレル・ヴォーリズが住み、多くの近代建築作品を遺した地としても知られている。

2005年9月1景観法に基づ景観計画区域」に指定された。同法の適用第1号である。2006年1月26日には「近江八幡の水郷」として重要文化的景観の第1号に選定された。地名のもととなった神社名は「日牟禮八幡宮」で、「近江八幡」を冠する神社は無い。市名に旧国名の「近江」を冠しているのは、市制施行時に福岡県八幡市が存在したためである。

しかし福岡県八幡市は1963年に合併し、北九州市の一部となり消滅した。市域は全般に平坦地で、鈴鹿山系に源を発する諸河川により形成された湖東平野の一角をしめる。市内には、雪野山、瓶割山、八幡山(鶴翼山)、岡山、長命寺山、津田山(奥島山)などの小高い山が平野に浮かぶように点在し、琵琶湖上には同湖で最大の島である沖島と呼ばれる有人島がある。市の北東部には、西の湖が水郷地帯を展開しており、「安土八幡の水郷」として琵琶湖八景の一つに数えられている。

La Collinaはイタリア語で「丘」という意味で、世界的な建築家・デザイナーであるミケーレ・デ・ルッキ氏がこの地を訪れ、小高い丘からの眺めに名づけられた。たねやグループのフラッグシップ店 〈ラ コリーナ近江八幡〉は屋根一面が芝におおわれ、広々とした吹き抜け空間の1階に和・洋菓子の売場が並びぶ。ユニークなデザインと栗の木が印象的な建物は、建築家・建築史家の藤森照信氏による。

近江八幡市

琵琶湖東岸に位置し、近江商人や安土城で知られる近江八幡市は、豊臣秀次が築いた城下町を基礎として、近世は商業都市として発展し、近江商人の発祥の地である。近世の風情がよく残る新町通り、永原町通り、八幡堀沿いの町並みおよび日牟禮八幡宮境内地は「近江八幡市八幡伝統的建造物群保存地区」の名称で国の重要伝統的建造物群保存地区として選定され、時代劇の撮影場所としてもよく使われる。

ウィリアム・メレル・ヴォーリズが住み、多くの近代建築作品を遺した地としても知られている。2005年9月1日には水郷地域160ヘクタールが景観法に基づく「景観計画区域」に指定された。同法の適用第1号である。2006年1月26日には「近江八幡の水郷」として重要文化的景観の第1号に選定された。

市内には、雪野山、瓶割山、八幡山(鶴翼山)、岡山、長命寺山、津田山(奥島山)などの小高い山が平野に浮かぶように点在し、琵琶湖上には同湖で最大の島である沖島と呼ばれる有人島がある。市の北東部には、西の湖が水郷地帯を展開しており、「安土八幡の水郷」として琵琶湖八景の一つに数えられている。

赤坂 (東京都港区)界隈

虎の門の三井ビルから、霞ヶ関ビルや霞ヶ関コモンゲートの方向に、外堀通りをまたぐ歩道橋がある。その階段を登る途中、右手に見える石垣は、【国史跡 江戸城外堀跡 溜池櫓台】で、1636年に建造された外堀の櫓台で、江戸城外堀は、虎ノ門交差点付近の「虎御門」から、文部科学省に現存する3地点の石垣を通過し、この櫓台石垣に至った。江戸城外堀は、江戸城内郭と城下を取り巻くように造られた延長約14kmの濠で、そのうち4kmが史跡指定される。神田川や日本橋川も外堀の一部で、外堀より細くなっている。

港区が誕生した1947年には、旧赤坂区の町名には、一部例外を除き、「赤坂」を冠する町名変更が行われた(例: 一ツ木町→赤坂一ツ木町、青山権田原町→赤坂青山権田原町、など。この「赤坂」を冠する町名は、住居表示実施まで続く。

旧町名、港区発足直前の町名。  

葵町(赤坂葵町)
青山権田原町(赤坂青山権田原町)
青山六軒町(赤坂青山六軒町)
一ツ木町(赤坂一ツ木町)
榎坂町(赤坂榎坂町)
表町(赤坂表町)
新町(赤坂新町)
新坂町(赤坂新坂町)
台町(赤坂台町)
田町(赤坂田町)
溜池町(赤坂溜池町)
丹後町(赤坂丹後町)
伝馬町(赤坂伝馬町)
中ノ町(赤坂中ノ町)
氷川町(赤坂氷川町)
桧町(赤坂桧町)
福吉町(赤坂福吉町)
元赤坂町
霊南坂町(赤坂霊南坂町)

溜池町

虎ノ門の石垣から西北へ、赤坂見附まで広がっていた大きな堀であった溜池。溜池はその名のとおり、人が水を溜めてつくった。以前、名残の暗渠をのぞくと水流が見える仕掛けが山王神社の下の鳥居のそばにあったが、今はそれもなくなった。池の跡にできた「溜池町」という町名も、住居表示としてはなくなった、高速道路の下の交差点名と、バス停の名前に残る。

大名の浅野幸長(当時和歌山藩のち広島藩主)が家康にとりいって、江戸城防備の外堀の一環とするとともに、飲料用の上水ダムとしてつくった人口の湖で、今の不忍池以上の大きさがあったようだ。溜池は、水質もよく、風景も美しく、浮世絵などによく描かれる。元々水の湧く所であり、堤を作り水を溜めるようにしたためこの名があり、神田上水、玉川上水が整備されるまでは、この溜池の水を上水として利用していた。

琵琶湖や淀川から、鯉や鮒を取り寄せて放したという話もあり、蓮を植えてその花を鑑賞し蓮根を採取したと伝わる。やがて、周囲がだんだん埋め立てられ、町屋や馬場・紺屋物干場などができ、水質も悪くなった。明治7、8年ごろ、堰堤となっていた石を取り除いてから陸化しはじめ、渡し舟ができ橋をかけて、明治21年に赤坂溜池町ができた。1966年の住居表示実施に伴う町丁名変更により赤坂一丁目と赤坂二丁目が誕生し、溜池町は消滅。今日、溜池交差点や東京地下鉄溜池山王駅、都営バス(都01)溜池停留所などに名を残している

一ツ木町

江戸時代以前からの地名、人継、であったが、1966年の住居表示実施に伴う町名変更により、赤坂四丁目と赤坂五丁目が誕生して、一ツ木町は消滅した。今では、一ツ木通りとして名を残す、江戸時代には町奉行を務めた大岡忠相の屋敷があったと言う。東京メトロ千代田線、赤坂駅前は、TBSの本社があり、付近には著名企業の本社などが立ち並ぶ。東京メトロ銀座線、丸ノ内線の赤坂見附駅周辺は、骨董品店やホテルなどが多い。高橋是清翁記念公園は、初代の赤坂区役所跡にあたる。

紀伊国坂、別名の赤坂・茜坂

紀伊国坂は、東京都港区元赤坂1丁目から、旧赤坂離宮の外囲堀端を喰違見附まで上る坂で、江戸時代に坂の西側に紀州藩上屋敷があったことから名付けられたと言う。別名の赤坂・茜坂は、茜草が生える赤根山、迎賓館付近の高台に登る坂であることから名付けられたことが、赤坂という地名の由来になっていると言う説、また、赤土が多い土壌に幾多の坂があること、という二説がある。

1567年に人継村が開拓され、江戸時代には、現在の元赤坂付近に町屋、武家屋敷が造られ、次第に市街化してゆく。明治時代に入ると、1878年の郡区町村編制法により、東京15区のひとつ、赤坂区の一部となった。多くの大名屋敷や旗本屋敷が存在した高台の地域は官吏や軍人などの家庭から成る都心部有数の邸宅街へと発展する。それらの地域以外は、庶民の住宅街、個人商店、高級料亭、旅館などが密生していった。1966年には住居表示が実施され、赤坂一丁目から赤坂九丁目、元赤坂一丁目・元赤坂二丁目が成立する。1967年には赤坂葵町が虎ノ門二丁目となる。昭和30年代初頭から昭和55年頃までの赤坂は、高級料亭、キャバレー、ナイトクラブなどが多く集まり、銀座と並ぶ高級な繁華街として栄華を極めた。

消滅した町名

港区が誕生した1947年には、旧赤坂区の町名には、一部例外を除き、「赤坂」を冠する町名変更が行われた(例: 一ツ木町→赤坂一ツ木町、青山権田原町→赤坂青山権田原町、など。この「赤坂」を冠する町名は、住居表示実施まで続く。

三千院(京都市左京区大原)

京都市街の北東の山中、大原は古くから貴人や念仏修行者が都の喧騒を離れて隠棲する場として知られていた。境内は境内南を流れる呂川と北を流れる律川という2つの川に挟まれる。この、呂川・律川の名は声明(仏教声楽)の音律の「呂」と「律」に由来する。境内南側には往生極楽院の正門にあたる朱雀門、西側には御殿門がある。御殿門は薬医門形式で、両側に石垣と白壁をめぐらし、法親王の御殿である政所の入口にふさわしい重厚な門構えである。

石垣は築城で名高い近江坂本の穴太衆の築いたものである。門を入り、大玄関から進むと、客殿、宸殿、これらを囲む庭園があり、庭園内に往生極楽院が建つ。さらに石段を上って奥の院へ進むと金色不動堂、さらに上ると観音堂がある。このほか、御殿門を入った南側には写経場の円融房と収蔵庫兼展示施設の円融蔵がある。

かつて、貴人や仏教修行者の隠棲の地として知られた大原の里は、青蓮院、妙法院とともに、天台宗の三門跡寺院の1つに数えられる。文徳天皇の第一皇子である惟喬親王(844年 – 897年)が大原に隠棲したことはよく知られ、『伊勢物語』にも言及されている。藤原氏の権力が絶大であった当時、本来なら皇位を継ぐべき第一皇子である惟喬親王は、権力者藤原良房の娘・藤原明子が産んだ清和天皇に位を譲り、自らは出家して隠棲したと伝わる。

大原はまた、融通念仏や天台声明が盛んに行われた場所として知られ、天台声明を大成した聖応大師良忍(1073年 – 1132年)も大原に住んだ。「三千院」あるいは「三千院門跡」という寺名は1871年以降使われるようになったもので、それ以前は「円融院(円融房)」「円徳院」「梨本門跡」「梶井宮」「梶井門跡」などと呼ばれた。

「三千院」は、梶井門跡の持仏堂の名称「一念三千院」から取ったものであり、「一念三千」とは、中国天台宗の開祖である天台大師・智顗が創案したとされる天台宗の観法であり、根本教理とされる。一念の心に三千の諸法を具えることを観(かん)ずることである。一念とは、凡夫・衆生が日常におこす瞬間的な心(念)をいう。三千とは法数(ほっすう)の展開である。十界が互いに他の九界を具足しあっている(十界互具)ので百界、その百界にそれぞれ十如是があるから千如是となり、千如是は五蘊(ごうん、ごおん、五陰とも)世界・仮名(けみょう、衆生とも)世間・国土(こくど)世間の三種世間の各々にわたるので三千世間となる。

つまり十界×十界×十如是×三世間=三千となる。天台宗ではこれを、極小から極大の相即した統一的な宇宙観を示し、実践的には自己の心の中に具足する仏界を観法することをいう。

三千院

三千院は天台三門跡の中でも最も歴史が古く、たび重なる移転の後、1871年(明治4年)に現在地に移った。最澄が延暦年間(782 – 806年)、比叡山延暦寺を開いた時に、東塔南谷(比叡山内の地区名)の梨の大木の傍に一宇を構え、「円融房」と称したのがその起源と言われ、梨本門跡の名はこれに由来する。

その地、貞観2年(860年)、承雲和尚が最澄自刻の薬師如来像を安置した伽藍を建て、円融院と称した。承雲はまた、比叡山の山麓の東坂本(大津市坂本)の梶井に円融院の里坊を設けた。応徳3年(1086年)には梶井里に本拠を移し円徳院と称し、この梶井の地名と、加持に用いる井戸(加持井)があったことから、後に寺を「梶井宮」と称するようになったとも言われる。坂本の梶井門跡は貞永元年(1232年)の火災をきっかけに、今の京都市内に移転した。

洛中や東山の各地を転々とした後、元弘元年(1331年)に洛北船岡山の東麓の寺地に落ち着いた。この地は淳和天皇の離宮雲林院があったところと推定され、現在の京都市北区紫野、大徳寺の南方に当たる。船岡山東麓の梶井門跡は応仁の乱(1467年-1477年)で焼失し、以後、大原の政所が本坊となった。元禄11年(1698年)、江戸幕府将軍徳川綱吉は当時の門跡の入道慈胤親王に対し、京都御所周辺の公家町内の御車道広小路に寺地を与えた。

このため、以後近世を通じて梶井門跡は公家町の一角であるこの地にあった。寺地は現在の京都市上京区梶井町で、跡地には京都府立医科大学と附属病院が建っている。明治維新の際、当時の門跡であった昌仁法親王は還俗して新たに梨本宮家を起こす。公家町(京都御所周辺の寺町広小路)の寺院内にあった仏像、仏具類は大原の政所に送られた。1871年(明治4年)、大原の政所を本坊と定め「三千院」と改称した。

極楽院

極楽院(往生極楽院)は元来、天台の門跡とは無関係であった。寺伝では恵心僧都源信(942年-1017年)の妹、安養尼が985年(寛和元年)に建てたものと伝えられてきた。実際は、もう少し時代が下った12世紀末に、高松中納言藤原実衡の妻である真如房尼が、亡き夫の菩提のために建立したものと推測されている。この史実は、彼女の甥にあたる吉田経房の日記「吉記」の記述により明らかとなっている。1871年(明治4年)、三千院の本坊が洛中から移転してきてからは、その境内に取り込まれた。極楽院を「往生極楽院」と改称したのは1885年(明治18年)のことである。

関宿 (東海道五十三次の47番目の宿場)

「関の山」の語源は、関宿の夏祭りに出る山(関東で言う山車)が立派であったことから、「これ以上のものはない」という意味で使われるようになったことによると云われる。また、この山車が街道筋の建物の屋根ぎりぎりを通過する様子から、「これが目一杯」という意味とする説もある。

関宿は、三重県亀山市(もとは関町であったが、2005年1月11日に亀山市と合併した)に位置し、古代からの交通の要衝であった。かつて、壬申の乱の頃には、古代三関の一つ「伊勢鈴鹿関」が置かれた。江戸時代、東の追分からは伊勢別街道、西の追分からは大和街道が分岐する活気ある宿場町であった。伝統的な町家が200棟以上現存し、町並の保存状態も良く、国の重要伝統的建造物群保存地区(昭和59年)と日本の道百選(昭和61年)に選定されている。

関の地蔵と一休宗純

地蔵のご本尊が往来の塵に汚れて見苦しいので、里人が集まって清掃し、誰か通りがかりの僧に頼んで開眼供養をしてもらおうと待ちうけているところへ、 たまたま東海道を旅している一休和尚が通りかかった。さっそく村人が開眼供養を頼むと、心安く引き受けてはくれたが、さてご本尊に向かって経を読むでもなく、「しゃか(釈迦)はすぎ みろく(弥勒)はいまだ出でぬ間の かかるうき世に 目あかしの地蔵」と歌をよみ、前をまくって立ち小便をして行ってしまった。人々はこれを見てかんかんに怒り、今度は別の僧に頼んで開眼供養をやり直した。


ところがその夜、村人に地蔵さんがとりつき、高熱を発して「折角名僧の供養によって 目を開いたのに、供養のやり直しなどして迷わすのか、元のようにして返せ」とうわごとを言 うので、村の主だったものが集まり禅師を呼びもどそうということになった。使いの者二、三人がやっと桑名の宿で追いつき、事情を話すと、「私の下帯を持ち帰って地蔵 の首にかけ、私が唱えた歌を三べん唱えなさい」といった。使いのものは半信半疑で下帯を持ち帰って言われたとおりにすると、村人の熱は直ちに引きもと通り になった。関の地蔵が麻の布きれを首に巻いているのは、この故事によると伝えられる。

女剣士、関の小万

鈴鹿馬子唄にも謡われる関の小万は、女の身で父の仇討ちをした仇討烈女として名高い。小万の父は、九州久留米有馬氏の家来で、剣道指南役牧藤左衛門と言ったが、遺恨により同輩の小林軍太夫に殺された。身重の妻は夫の仇を討つため旅に出たが、鈴鹿峠を越え、関宿についた頃には旅の疲れが重なって、地蔵院前の旅籠山田屋の前まで来たときには行き倒れ同様の有様であった。山田屋の主人も女将も親切な人たちであったので、この女を引き取って手厚く看病し、女はそこで女の子を産んだ。これが小万である。

女はまもなく、子供の将来を宿の主人山田屋吉右衛門に託して死んだ。小万は成長して養父母から両親のことを聞き、女の身ながら亡き母の志を継いで亡父の仇討ちをする決心 をする。山田屋の主人は、亀山藩家老加毛寛斎に頼んで武術の修行に励むようにした。天明三年(1783)八月、運良く仇と巡り会うことができた小万は、馬子姿に変装して亀山城大手前の辻で仇のくるのを待ち受け、見事本懐を遂げることができたのであった。これにより、関の小万の名前は一躍高まったが、その後も山田屋にとどまって養父母に仕え、享和三年(1803)正月十六日、三十六歳で死んだ。墓は福蔵寺にある。関の小万はこのほかに、近松門左衛門作「丹波与作待夜の小室節」に出てくる遊女小万が有名である。しかし、これは近松が書いたのが宝永四年であるから、仇討ちの小万より百年ほど前のことである。

数寄屋橋公園界隈

NHKラジオ連続放送劇 「君の名は」

放送期間は、昭和27年(1952)4月10日-29年(1954)4月8日。
毎週木曜8時半から9時までの30分放送。番組の冒頭で「忘却とは忘れ去ることなり。忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ」という来宮良子のナレーションが流れる。当時のラジオドラマは生放送だったため、劇中のBGMは音楽の古関裕而がハモンドオルガンを毎回即興で演奏していた。

数寄屋橋は1629年(寛永6年)江戸城外濠に架けられた橋で、1929年(昭和4年)に石造りの二連アーチ橋に架け替えられた。銀座地区の一部区域は1930年まで京橋区「元数寄屋町」という町名だった。旧麹町区と旧京橋区の境界に位置し、現在の晴海通り (都道304号)にあったが、その後、取り壊されて現存しない。

数寄屋橋の北側(麹町区→千代田区 有楽町)には、近代的かつ個性的な外観の旧日劇ビル・朝日新聞社東京本社ビルが立ち並び、また南側にはマツダビルディングがあって独自の景観を見せたことから、銀座地区の中でも特に知られる地点となった。1958年(昭和33年)、外堀が東京高速道路の建設により埋め立てられ、取り壊された。数寄屋橋があった場所を跨ぐ東京高速道路の橋は新数寄屋橋と名付けられている。

現在は数寄屋橋公園(東京都中央区銀座5-1-1)に橋の存在を示す碑が立ち、晴海通り・外堀通り交点の交差点名として残っているほか、周辺の建物に数寄屋橋の名を付しているものが多い。また、銀座四丁目交差点(銀座三越・和光前)と並んで東京都銀座地区の代表的な地名として認知され、待合わせや道案内の基準点として用いられる。

数寄屋橋交差点の周囲には、北に有楽町マリオン、西に東急プラザ銀座(旧数寄屋橋阪急→モザイク銀座阪急)、南にソニービル、東に銀座クリスタルビル(不二家数寄屋橋店)があり、いずれも待ち合わせ等のランドマークとして使われる。

稚内駅

稚内駅は、北海道稚内市中央3丁目にある、北海道旅客鉄道(JR北海道)宗谷本線の駅で駅番号はW80、北緯45度24分44秒、北海道最北端の駅及び日本最北端の駅である。初代の稚内駅は、1922年(大正11年)に開業した現在の南稚内駅である。翌年、1923年(大正12年)5月1日から、当時日本の統治下にあった南樺太大泊町に連絡する鉄道連絡船「稚泊航路」の運航が開始され、現在の稚内駅の近くから入出港するようになり、バラック建ての乗船客待合所が造られた。

1924年(大正13年)11月10日に稚内連絡待合所が稚内港に近い場所に建設され、これが稚泊航路への乗船客待合所となった。当時の稚内駅からはおよそ2kmもの距離があり、この間を旅客は徒歩で、貨物は荷車で連絡していた。現・稚内駅である稚内港駅まで鉄道路線が延伸されたのは、1928年(昭和3年)12月26日のことである。

稚内の地名は、アイヌ語の「ヤム・ワッカ・ナイ(冷たい・綺麗な水・川)=冷たい飲み水の沢」に由来し、由来となった川は駅南南西にある真言寺境内を流れる。以前は島式ホーム1面2線だったが、2010年1月30日をもって2番線が廃止され、単式ホーム1線を持つ地上駅である。かつて、駅外から見ることが出来た最北端の駅・線路を示す看板・標柱は、駅舎建替え時に移設され、ホーム内及び駅舎内待合室等のガラス窓越しにこれらを見ることが出来る。

ホーム内の柱には駅名標と共に前述の指宿駅をはじめ、鹿児島駅・東京駅・函館駅・札幌駅・旭川駅等各駅からの距離が表示されている。ホームに列車が到着すると、「日本最北端の駅、終点稚内駅到着です」という自動音声放送が流れる。

西瀬戸自動車道(しまなみ海道)

西瀬戸自動車道
本州四国連絡道路の3ルートのうち、西に位置する尾道・今治ルートで、路線延長 59.4 km、開通年 1979年 – 2006年、起点 尾道市(西瀬戸尾道IC)、終点 今治市(今治IC)。

広島県尾道市の尾道福山自動車道(国道2号松永道路)西瀬戸尾道ICを起点とし、向島・因島・生口島・大三島・伯方島・大島などを経て愛媛県今治市の今治ICに至る、延長59.4 kmの高規格幹線道路(国道317号の自動車専用道路)である。略称は西瀬戸道だが、西瀬戸自動車道周辺地域振興協議会が公募した愛称である瀬戸内しまなみ海道または、単にしまなみ海道と呼ばれることが多い。

白線に沿って自転車道を示す青い舗装がされ、現在地から今治・尾道までの距離が表示されている。新尾道大橋を除き、尾道から来島海峡大橋までのルートには歩行者、自転車、原動機付自転車(125cc以下の自動二輪車を含む)の専用道路(広島県道466号向島因島瀬戸田自転車道線・愛媛県道325号今治大三島自転車道線)が併設されている。

本光寺 (三河のあじさい寺 : 愛知県幸田町)

山門に向かう参道の両脇や境内には合計約1万本のアジサイが植えられ、6月頃には多くの観光客で賑わうことから、別名、あじさい寺として知られる。1523年(大永3年)、深溝松平家の初代当主松平忠定によって開基された深溝松平家の菩提寺である。

希聲英音によって大洞山泉龍院の末寺として開山、転封により深溝松平家が島原藩に移ったのちも、歴代藩主の遺体は本光寺に運ばれて埋葬された。本尊は釈迦如来像、脇士の地蔵菩薩像と千手観音像は運慶作と伝わる(実際の作者は不明)。西廟所と東廟所に分かれ、西廟所には深溝松平家1〜5代と11代当主、東廟所には6〜10代、12〜19代当主の霊廟がある。

深溝松平家(ふこうずまつだいらけ)は、松平忠定を祖とする松平氏の分枝で十八松平の一つで、先祖を松平信光まで遡ると徳川家康と共通の祖となる家である。大永4年(1524年)、五井松平家2代・松平元心が松平宗家当主・松平長親の命により額田郡深溝城主・大場次郎左衛門を討ち獲る。


この元心の戦功を譲られた弟・松平忠定によって、深溝松平家は発足されたという。一方で、島原市の本光寺の記録によると、岩津家の松平親長の娘と婚姻してその所領を譲受し発祥させたというが、真偽のほどはわからない。

その後も深溝城主であり続け、2代・松平好景、3代・松平伊忠は徳川家康の岡崎城での独立期から善明堤の戦いなどで働きを示し続けた。4代・松平家忠は酒井忠次の指揮下に組み込まれ、「長篠の戦い」などで功を挙げた。天正8年(1590年)の徳川家の関東移封で、家忠は武蔵忍に1万石を与えられている。しかし慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの前哨戦であった「伏見城の戦い」において、守将・鳥居元忠の副将格として伏見城で籠城玉砕している。

3代・伊忠以来、主殿助(4代・家忠からは主殿頭)の通称を用いていたため、松平主殿家とも言われる。慶長6年(1601年)、関ヶ原での戦勝により家忠の子・松平忠利は、念願であった旧領復帰が叶い三河国深溝藩1万石の大名となった。

その後、慶長17年(1612年)3万石に加増された上で同吉田藩へ移った。松平忠房の代に三河国刈谷藩、丹波国福知山藩と転封を続け寛文8年(1668年)6万5,000石で、肥前国島原藩に入った。寛延2年(1747年)、戸田忠盈と入れ替わりで下野国宇都宮藩へ移封。安永3年(1774年)再び宇都宮藩と入れ替わりで島原藩に入り、以後定着して明治維新を迎える。維新後、子爵。

久屋大通公園

久屋大通は名古屋市中心部の栄を南北に貫く道路で、延長1738 m、平均幅員112.17 m、中央分離帯にある公園も含めた道路幅員において若宮大通(100 m)、札幌の大通公園(105 m)をしのぎ、日本一の広さがある。尾張徳川藩初代藩主である徳川義直が、末長く繁盛することを願って久屋町と命名したことが由来とされる。戦後、名古屋市の戦災復興土地区画整理事業の換地方式によって誕生した久屋大通は、久屋大通公園を挟んで東西に分かれて、それぞれ一方通行になっている。

南行起点:久屋橋交差点 – 終点:若宮大通久屋交差点
北行起点:若宮大通交差点 – 終点:久屋橋西交差点

通りに面して専門店や飲食店、緑地公園があるなど共通点が多いことから、1989年(平成元年)に、久屋大通発展会とフランス・パリ市のシャンゼリゼ委員会とあいだで友好提携がなされ、パリのシャンゼリゼ通りとの姉妹提携が結ばれた。これは、この数年前に東京・銀座がシャンゼリゼ委員会に姉妹提携を持ち掛けたものの断れられたという経緯を経ての提携であった。

これは、この数年前に東京・銀座がシャンゼリゼ委員会に姉妹提携を持ち掛けたものの断れられたという経緯を経ての提携であった。1986年(昭和61年)8月10日の道の日に、名古屋市を代表するシンボルロードとして、旧建設省と「道の日」実行委員会により制定された、「日本の道100選」のひとつに選定される。

年表
1964年(昭和39年)9月6日
復興土地区画整理事業に伴い、道路法に基づく道路として認定。

1970年(昭和45年)1月14日
中央緑地帯が、都市公園法に基づく公告により、都市公園区域に指定。

1986年(昭和61年)8月10日
「日本の道100選」に選定。

1989年(平成元年)
久屋大通発展会とパリのシャンゼリゼ委員会が姉妹提携締結。