山門に向かう参道の両脇や境内には合計約1万本のアジサイが植えられ、6月頃には多くの観光客で賑わうことから、別名、あじさい寺として知られる。1523年(大永3年)、深溝松平家の初代当主松平忠定によって開基された深溝松平家の菩提寺である。
希聲英音によって大洞山泉龍院の末寺として開山、転封により深溝松平家が島原藩に移ったのちも、歴代藩主の遺体は本光寺に運ばれて埋葬された。本尊は釈迦如来像、脇士の地蔵菩薩像と千手観音像は運慶作と伝わる(実際の作者は不明)。西廟所と東廟所に分かれ、西廟所には深溝松平家1〜5代と11代当主、東廟所には6〜10代、12〜19代当主の霊廟がある。
深溝松平家(ふこうずまつだいらけ)は、松平忠定を祖とする松平氏の分枝で十八松平の一つで、先祖を松平信光まで遡ると徳川家康と共通の祖となる家である。大永4年(1524年)、五井松平家2代・松平元心が松平宗家当主・松平長親の命により額田郡深溝城主・大場次郎左衛門を討ち獲る。
この元心の戦功を譲られた弟・松平忠定によって、深溝松平家は発足されたという。一方で、島原市の本光寺の記録によると、岩津家の松平親長の娘と婚姻してその所領を譲受し発祥させたというが、真偽のほどはわからない。
その後も深溝城主であり続け、2代・松平好景、3代・松平伊忠は徳川家康の岡崎城での独立期から善明堤の戦いなどで働きを示し続けた。4代・松平家忠は酒井忠次の指揮下に組み込まれ、「長篠の戦い」などで功を挙げた。天正8年(1590年)の徳川家の関東移封で、家忠は武蔵忍に1万石を与えられている。しかし慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの前哨戦であった「伏見城の戦い」において、守将・鳥居元忠の副将格として伏見城で籠城玉砕している。
3代・伊忠以来、主殿助(4代・家忠からは主殿頭)の通称を用いていたため、松平主殿家とも言われる。慶長6年(1601年)、関ヶ原での戦勝により家忠の子・松平忠利は、念願であった旧領復帰が叶い三河国深溝藩1万石の大名となった。
その後、慶長17年(1612年)3万石に加増された上で同吉田藩へ移った。松平忠房の代に三河国刈谷藩、丹波国福知山藩と転封を続け寛文8年(1668年)6万5,000石で、肥前国島原藩に入った。寛延2年(1747年)、戸田忠盈と入れ替わりで下野国宇都宮藩へ移封。安永3年(1774年)再び宇都宮藩と入れ替わりで島原藩に入り、以後定着して明治維新を迎える。維新後、子爵。