関宿 (東海道五十三次の47番目の宿場)

「関の山」の語源は、関宿の夏祭りに出る山(関東で言う山車)が立派であったことから、「これ以上のものはない」という意味で使われるようになったことによると云われる。また、この山車が街道筋の建物の屋根ぎりぎりを通過する様子から、「これが目一杯」という意味とする説もある。

関宿は、三重県亀山市(もとは関町であったが、2005年1月11日に亀山市と合併した)に位置し、古代からの交通の要衝であった。かつて、壬申の乱の頃には、古代三関の一つ「伊勢鈴鹿関」が置かれた。江戸時代、東の追分からは伊勢別街道、西の追分からは大和街道が分岐する活気ある宿場町であった。伝統的な町家が200棟以上現存し、町並の保存状態も良く、国の重要伝統的建造物群保存地区(昭和59年)と日本の道百選(昭和61年)に選定されている。

関の地蔵と一休宗純

地蔵のご本尊が往来の塵に汚れて見苦しいので、里人が集まって清掃し、誰か通りがかりの僧に頼んで開眼供養をしてもらおうと待ちうけているところへ、 たまたま東海道を旅している一休和尚が通りかかった。さっそく村人が開眼供養を頼むと、心安く引き受けてはくれたが、さてご本尊に向かって経を読むでもなく、「しゃか(釈迦)はすぎ みろく(弥勒)はいまだ出でぬ間の かかるうき世に 目あかしの地蔵」と歌をよみ、前をまくって立ち小便をして行ってしまった。人々はこれを見てかんかんに怒り、今度は別の僧に頼んで開眼供養をやり直した。


ところがその夜、村人に地蔵さんがとりつき、高熱を発して「折角名僧の供養によって 目を開いたのに、供養のやり直しなどして迷わすのか、元のようにして返せ」とうわごとを言 うので、村の主だったものが集まり禅師を呼びもどそうということになった。使いの者二、三人がやっと桑名の宿で追いつき、事情を話すと、「私の下帯を持ち帰って地蔵 の首にかけ、私が唱えた歌を三べん唱えなさい」といった。使いのものは半信半疑で下帯を持ち帰って言われたとおりにすると、村人の熱は直ちに引きもと通り になった。関の地蔵が麻の布きれを首に巻いているのは、この故事によると伝えられる。

女剣士、関の小万

鈴鹿馬子唄にも謡われる関の小万は、女の身で父の仇討ちをした仇討烈女として名高い。小万の父は、九州久留米有馬氏の家来で、剣道指南役牧藤左衛門と言ったが、遺恨により同輩の小林軍太夫に殺された。身重の妻は夫の仇を討つため旅に出たが、鈴鹿峠を越え、関宿についた頃には旅の疲れが重なって、地蔵院前の旅籠山田屋の前まで来たときには行き倒れ同様の有様であった。山田屋の主人も女将も親切な人たちであったので、この女を引き取って手厚く看病し、女はそこで女の子を産んだ。これが小万である。

女はまもなく、子供の将来を宿の主人山田屋吉右衛門に託して死んだ。小万は成長して養父母から両親のことを聞き、女の身ながら亡き母の志を継いで亡父の仇討ちをする決心 をする。山田屋の主人は、亀山藩家老加毛寛斎に頼んで武術の修行に励むようにした。天明三年(1783)八月、運良く仇と巡り会うことができた小万は、馬子姿に変装して亀山城大手前の辻で仇のくるのを待ち受け、見事本懐を遂げることができたのであった。これにより、関の小万の名前は一躍高まったが、その後も山田屋にとどまって養父母に仕え、享和三年(1803)正月十六日、三十六歳で死んだ。墓は福蔵寺にある。関の小万はこのほかに、近松門左衛門作「丹波与作待夜の小室節」に出てくる遊女小万が有名である。しかし、これは近松が書いたのが宝永四年であるから、仇討ちの小万より百年ほど前のことである。

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