京都市街の北東の山中、大原は古くから貴人や念仏修行者が都の喧騒を離れて隠棲する場として知られていた。境内は境内南を流れる呂川と北を流れる律川という2つの川に挟まれる。この、呂川・律川の名は声明(仏教声楽)の音律の「呂」と「律」に由来する。境内南側には往生極楽院の正門にあたる朱雀門、西側には御殿門がある。御殿門は薬医門形式で、両側に石垣と白壁をめぐらし、法親王の御殿である政所の入口にふさわしい重厚な門構えである。
石垣は築城で名高い近江坂本の穴太衆の築いたものである。門を入り、大玄関から進むと、客殿、宸殿、これらを囲む庭園があり、庭園内に往生極楽院が建つ。さらに石段を上って奥の院へ進むと金色不動堂、さらに上ると観音堂がある。このほか、御殿門を入った南側には写経場の円融房と収蔵庫兼展示施設の円融蔵がある。
かつて、貴人や仏教修行者の隠棲の地として知られた大原の里は、青蓮院、妙法院とともに、天台宗の三門跡寺院の1つに数えられる。文徳天皇の第一皇子である惟喬親王(844年 – 897年)が大原に隠棲したことはよく知られ、『伊勢物語』にも言及されている。藤原氏の権力が絶大であった当時、本来なら皇位を継ぐべき第一皇子である惟喬親王は、権力者藤原良房の娘・藤原明子が産んだ清和天皇に位を譲り、自らは出家して隠棲したと伝わる。
大原はまた、融通念仏や天台声明が盛んに行われた場所として知られ、天台声明を大成した聖応大師良忍(1073年 – 1132年)も大原に住んだ。「三千院」あるいは「三千院門跡」という寺名は1871年以降使われるようになったもので、それ以前は「円融院(円融房)」「円徳院」「梨本門跡」「梶井宮」「梶井門跡」などと呼ばれた。
「三千院」は、梶井門跡の持仏堂の名称「一念三千院」から取ったものであり、「一念三千」とは、中国天台宗の開祖である天台大師・智顗が創案したとされる天台宗の観法であり、根本教理とされる。一念の心に三千の諸法を具えることを観(かん)ずることである。一念とは、凡夫・衆生が日常におこす瞬間的な心(念)をいう。三千とは法数(ほっすう)の展開である。十界が互いに他の九界を具足しあっている(十界互具)ので百界、その百界にそれぞれ十如是があるから千如是となり、千如是は五蘊(ごうん、ごおん、五陰とも)世界・仮名(けみょう、衆生とも)世間・国土(こくど)世間の三種世間の各々にわたるので三千世間となる。
つまり十界×十界×十如是×三世間=三千となる。天台宗ではこれを、極小から極大の相即した統一的な宇宙観を示し、実践的には自己の心の中に具足する仏界を観法することをいう。
三千院
三千院は天台三門跡の中でも最も歴史が古く、たび重なる移転の後、1871年(明治4年)に現在地に移った。最澄が延暦年間(782 – 806年)、比叡山延暦寺を開いた時に、東塔南谷(比叡山内の地区名)の梨の大木の傍に一宇を構え、「円融房」と称したのがその起源と言われ、梨本門跡の名はこれに由来する。
その地、貞観2年(860年)、承雲和尚が最澄自刻の薬師如来像を安置した伽藍を建て、円融院と称した。承雲はまた、比叡山の山麓の東坂本(大津市坂本)の梶井に円融院の里坊を設けた。応徳3年(1086年)には梶井里に本拠を移し円徳院と称し、この梶井の地名と、加持に用いる井戸(加持井)があったことから、後に寺を「梶井宮」と称するようになったとも言われる。坂本の梶井門跡は貞永元年(1232年)の火災をきっかけに、今の京都市内に移転した。
洛中や東山の各地を転々とした後、元弘元年(1331年)に洛北船岡山の東麓の寺地に落ち着いた。この地は淳和天皇の離宮雲林院があったところと推定され、現在の京都市北区紫野、大徳寺の南方に当たる。船岡山東麓の梶井門跡は応仁の乱(1467年-1477年)で焼失し、以後、大原の政所が本坊となった。元禄11年(1698年)、江戸幕府将軍徳川綱吉は当時の門跡の入道慈胤親王に対し、京都御所周辺の公家町内の御車道広小路に寺地を与えた。
このため、以後近世を通じて梶井門跡は公家町の一角であるこの地にあった。寺地は現在の京都市上京区梶井町で、跡地には京都府立医科大学と附属病院が建っている。明治維新の際、当時の門跡であった昌仁法親王は還俗して新たに梨本宮家を起こす。公家町(京都御所周辺の寺町広小路)の寺院内にあった仏像、仏具類は大原の政所に送られた。1871年(明治4年)、大原の政所を本坊と定め「三千院」と改称した。
極楽院
極楽院(往生極楽院)は元来、天台の門跡とは無関係であった。寺伝では恵心僧都源信(942年-1017年)の妹、安養尼が985年(寛和元年)に建てたものと伝えられてきた。実際は、もう少し時代が下った12世紀末に、高松中納言藤原実衡の妻である真如房尼が、亡き夫の菩提のために建立したものと推測されている。この史実は、彼女の甥にあたる吉田経房の日記「吉記」の記述により明らかとなっている。1871年(明治4年)、三千院の本坊が洛中から移転してきてからは、その境内に取り込まれた。極楽院を「往生極楽院」と改称したのは1885年(明治18年)のことである。