ラウル・デュフィ「色彩の魔術師」

フランスの画家、ラウル・デュフィ(Raoul Dufy, 1877年6月3日 – 1953年3月23日)はル・アーヴルの港街で音楽好きの一家の9人の兄弟の長男として生まれる。父親は才能ある音楽愛好家で教会の指揮者兼オルガン奏者、母はヴァイオリン奏者、兄弟のうち2人はのちに音楽家として活躍する。

アンリ・マティスに感銘を受け野獣派(フォーヴィスム)の一員に数えられる、が、作風は他のフォーヴたちと違った独自の世界を築いている。「色彩の魔術師」とも呼ばれ、20世紀のフランスのパリを代表する。

画題は多くの場合、音楽や海、馬や薔薇をモチーフとして、ヨットのシーン、リビエラのきらめく眺め、シックな関係者と音楽のイベントを描く。陽気な透明感のある色彩、リズム感のある線描の油絵と水彩絵は音楽が聞こえるような感覚をもたらす。

本の挿絵、舞台美術、多くの織物のテキスタイルデザイン、莫大な数のタペストリー、陶器の装飾、『VOGUE』表紙などを手がけ多くのファッショナブルでカラフルな作品を残す。

代表作
サンタドレスの浜辺(1906 年)(愛知県美術館)
海の女神(1936年)(伊丹市立美術館)
電気の精(1937年)(パリ市立近代美術館)
三十年、或いは薔薇色の人生(パリ市立近代美術館)

ローレンス・アルマ=タデマ (ヴィクトリア朝時代の画家)

イギリス、ヴィクトリア朝時代の画家であるローレンス・アルマ=タデマ(Lawrence Alma-Tadema, 1836年1月8日 – 1912年6月25日)は、古代ローマ、古代ギリシア、古代エジプトなどの歴史をテーマにした写実的な絵画を数多く残した。華やかな色彩、繊細で写実的な絵画手法で古代建築物や装飾品、生活や風土などを緻密で正確に描く。国際的な人気を博し、ハリウッド映画の初期歴史映画に多大な影響を与えた。

主な作品
『見晴らしのよい場所』(1895年)
『入らないで』 – (1879年)
『サッフォーとアルカイオス』 – (1881年)
『テピダリウム』 – (1881年)
『クサンテとパオン』 – (1883年)
『アントニーとクレオパトラ』 – (1883年)
『喜ばしい足音』 – (1883年)
『薔薇の中の薔薇』 – (1885年)
『期待』 – (1885年)
『アポディテリウム』 – (1886年)
『アンピッサの女たち』 – (1887年)
『ヘリオガバルスの薔薇』 – (1888年)
『春の約束』 – (1890年)
『春』 – (1894年)
『見晴らしのよい場所』 – (1895年)
『意見のくい違い』 – (1896年)
『カラカラ浴場』 – (1899年)
『カラカラ』 – (1902年)
『銀色のお気に入り』 – (1903年)
『モーゼの発見』 – (1904年)
『お気に入りの習慣』 – (1909年)

『ヘリオガバルスの薔薇』 – (1888年)

『ローマ皇帝群像』で、皇帝ヘリオガバルスが「客人に薔薇の山を落として窒息死させるのを楽しんだ」とする逸話が、作品「ヘリオガバルスの薔薇」のモチーフである。

ヘリオガバルスが宴会に招いた客の上に巨大な幕を張り、幕の上に大量の薔薇の花を載せ、宴会中に幕を切り花を一斉に落とし、客を窒息死させたというが、真偽のほどは明らかでない。

『ローマ皇帝群像』は、後年の4世紀頃に編纂されたとも考えられていて、捏造や創作が多いことでも知られている。

ヘリオガバルス伝においても当然そうした虚偽が含まれていると考えるのが自然である。

しかし、ローマ皇帝ヘリオガバルスについては評判は良くない。
18世紀イギリスの歴史家エドワード・ギボンによると、著書の『ローマ帝国衰亡史』の中では、「醜い欲望と感情に身を委ねた」と記述され、「最悪の暴君」との評価を下している。

アルノルフィーニ夫妻像

『アルノルフィーニ夫妻像』(Portret van Giovanni Arnolfini en zijn vrouw、英: The Arnolfini Portrait)は、初期フランドル派の画家、ヤン・ファン・エイクが1434年に描いた絵画で、精緻な油絵の嚆矢として、西欧美術史で極めて重要視されている作品である。

合計3枚のオークのパネル(板)に油彩で描かれたパネル画で、日本では『アルノルフィーニ夫婦像』、『アルノルフィーニ夫妻の肖像』などと呼ばれる。

イタリア人商人ジョヴァンニ・ディ・ニコラ・アルノルフィーニ (en:Giovanni Arnolfini) とその妻を、フランドルのブルッヘにあった夫妻の邸宅を背景として描き、作品にこめられた寓意性、独特の幾何学的直交遠近法、背面の壁にかけられた鏡に映し出される反転した情景など西洋美術史上でも極めて独創的で複雑な構成を持つ。美術史家エルンスト・ゴンブリッチは、「イタリアのルネサンスにおけるドナテッロやマサッチオの作品と同じように、新たな境地を開いた革命的といえる作品である。魔法のように現実の室内がパネルに再現されている。事物をありのままにとらえることが出来る、完璧な観察眼を持った史上最初の芸術家である」としている。作者ファン・エイクのサインが1434年の日付とともに記され、同じくファン・エイクと兄のフーベルト・ファン・エイクが描いた『ヘントの祭壇画』とともに、パネルに描かれた油絵としてはもっとも古い。ロンドンのナショナル・ギャラリーが1842年に購入し、それ以来ナショナル・ギャラリーが所蔵している。

川から誕生した大阪

大阪平野、かつてこの地は海の底。大阪の歴史は、平野を形成し豊かな恵みを与えてきた淀川を抜きには語れない。肥沃な土地を生んだ淀川は、全流域面積八千二百四十平方キロ、琵琶湖などを源流として近畿二府四県一千六百万人の暮らしを支える。大阪・京都府境界で桂川、宇治川、木津川の三川が合流して大河・淀川となる。ひとたび氾濫すれば大きな被害を生み、古代から為政者たちは、淀川をコントロールしようと治水に力を注ぐ。

かつて縄文時代、大阪平野の大部分は広大な湾で、瀬戸内海沿いに湾を隔てるように南から北へ突出していたのが現在の上町台地。琵琶湖を源流とする現在の淀川や大和川など、周囲から流れ込む大量の土砂が次第に湾を埋め、湾は淡水が交じり潟に縮小し、五世紀ごろには湖になり現在の大阪平野の姿となる。

七四四(天平十六)年、難波宮を都と定める聖武天皇の勅令が発布される。難波宮跡は現在の大阪城と並び、上町台地の北端部分で国内外を結ぶ交通の要衝だった。難波宮は遷都する際に解体されたが、材料は船で淀川をさかのぼり新都の長岡京に運んで移築されたという。

仁徳天皇が築造を命じたという「茨田堤(まんだのつつみ)」は、大河の中洲に堤防をめぐらせて川の流れを分断し、氾濫原の農地開拓と用水確保を可能にした。「難波の堀江」開削の記述も日本書紀にある。豊臣秀吉は、一五九四(文禄三)年にまず宇治川と巨椋池を堤防で分離し、京都-大坂間に文禄堤を築造した。堤防は街道としても整備が進み、中心地の都と大坂を直結する京街道と淀川の舟運で水陸の大動脈をなした。

京阪間には、淀川に三十石船と呼ばれる貨客船が往来し、江戸末期ごろは一日平均約千五百人と八百トンの貨物を運んでいたという。人や物資だけでなく文化や情報も伝える役割も担っていた。
八百八橋と呼ばれた大坂は、水路が縦横無尽に張り巡らされ、沿岸部の干拓も進み、明治以降の人口増加とともに町は海に向かって町は伸び、巨大都市・大阪を形成していく。

オランダから外国人技師のヨハネス・デ・レーケらを招き、
淀水の流れを川の中央に集め、船の航行を可能にするケレップ水制をはじめ、大規模な淀川改修工事や大阪港築港に力を注いだ。
水路に曲線を多く取り、遊水効果を持たせたデレーケ案は結局採用されず、より直線的な水路を提案した案が新淀川となった。だが、オランダから持ち込んだ技術は近代における治水の礎となった。デ・レーケの残した水制は、現在、川沿いの水たまり、つまりワンドとなって大阪市旭区の河川敷などに残るが、天然記念物に指定され絶滅の危機にひんする淡水魚・イタセンパラの国内最大の繁殖地としても知られる。

京都御所と花の御所

花の御所は、京都府京都市上京区にあった足利将軍家の邸宅の通称で、東側を烏丸通、南側を今出川通、西側を室町通、北側を上立売通に囲まれた東西一町南北二町を占めた。京都御所がある京都御苑の北西、烏丸今出川交差点を挟んで斜め向かいの一角、現在の同志社大学今出川校地の烏丸通を挟んで向かい側の場所にある同志社大学・寒梅館以南に位置していた。

上杉本陶版『洛中洛外圖』に描かれた「花の御所」、絵の右側が北。(京都アスニー収蔵)

室町通に面して正門が設けられたことから室町殿、室町第とも呼ばれた。足利将軍の事を「室町殿(室町家)」と呼び、足利家の政権を「室町幕府」と呼称するのはこれに由来する。

六曲一双 狩野永徳筆 国宝『洛中洛外図屏風』・左隻(米沢市上杉博物館所蔵)、花の御所は中央左下に描かれている。右が北。

後醍醐天皇と対立して京都に武家政権を開いた足利尊氏は、北朝を後見するため二条高倉に住み、2代将軍の足利義詮は鎌倉から京都に戻った際に足利直義が住んでいた三条坊門第に入った。将軍就任後、元の三条坊門第は直義の鎮魂のために八幡宮とすることになり、自分はその東隣に新たな三条坊門第を造営した。八幡宮は現在の御所八幡宮のこと。義詮は、室町季顕から、その邸宅である花亭を買上げて別邸とし、のちに足利家より崇光上皇に献上された。花の御所と足利家との関係は足利義詮に始まり、崇光上皇の御所となったことにより花亭は「花の御所」と呼ばれるようになった。3代将軍足利義満は、1378年(天授4年/永和4年)、北小路室町の崇光上皇の御所跡と今出川公直の邸宅である菊亭の焼失跡地を併せた敷地に足利家の邸宅の造営を始めた。
後にこの新しい邸宅を「上御所」、従来の坊門三条殿を「下御所」とも称するようになった。義満は将軍職を息子の足利義持に譲ると、新築した北山第(現鹿苑寺)へ移る。

龍安寺

京都市右京区、臨済宗妙心寺派の寺院で妙心寺との関係が深い。
本尊は釈迦如来、開基は細川勝元、開山は義天玄承、山号は大雲山と号し石庭で知られ「古都京都の文化財」として世界遺産に登録される。


当時、龍安寺の鏡容池はオシドリの名所として知られ、池を中心とした池泉回遊式庭園の方が今日の「石庭」より有名であった。衣笠山山麓一円は、永観元年(984年)に建立された円融天皇の御願寺である円融寺の境内地であった。円融寺は徐々に衰退し、平安時代末には藤原北家の流れを汲む徳大寺実能が山荘を建立する。

宝徳2年(1450年)、この山荘を室町幕府の管領守護大名である細川勝元が譲り受け、寺地とし初代住職として妙心寺8世(5祖)住持の義天玄承(玄詔)を迎え創建した。創建当初の寺地は現在よりはるかに広く、京福電鉄の線路の辺りまでが境内であったと云われる。龍安寺は応仁の乱(1467-1477年)によって焼失するが、勝元の子の細川政元と4世住持・特芳禅傑によって明応8年(1499年)に再興される。


その後、織田信長、豊臣秀吉らから寺領を付与されている。寛政9年(1797年)の火災で、方丈、仏殿など主要伽藍が焼失し、塔頭の西源院の方丈を移築して龍安寺の方丈(本堂)として現在にいたる。明治初期の廃仏毀釈によって衰退するが、イギリスのエリザベス女王が1975年に日本を公式訪問した際に龍安寺の拝観を希望し、石庭を絶賛し海外のマスコミでも報道され、日本のZEN(禅)ブームと相俟って、世界的にも知られるようになる。

石庭

方丈庭園、「龍安寺の石庭」は幅 25 メートル、奥行 10 メートルほど。
白砂を敷き詰め、東から5個、2個、3個、2個、3個の合わせて15の大小の石を配置する。

これらの石は3種類に大別できる。
各所にある比較的大きな4石はチャートと呼ばれる龍安寺裏山から西山一帯に多い山石の地石。
塀ぎわの細長い石他2石は京都府丹波あたりの山石。
その他の9石は三波川変成帯で見られる緑色片岩。

室町末期(1500年頃)特芳禅傑らの禅僧によって作庭されたと伝えられるが諸説あって定かではない。

この庭の石の配置から、中国の説話(虎、彪を引いて水を渡る)に基づき「虎の子渡しの庭」、あるいは、東から5、2、3、2、3の5群で構成される石組を、5と2で七石、3と2で五石、そして3で三石と、七・五・三の3群とも見られることにより「七五三の庭」とも呼ばれる。

石庭は、どの位置から眺めても必ずどこかの1つの石が見えないように配置されていることでも有名。

襖絵の帰還

明治初期の廃仏毀釈により海外に流出していた方丈襖絵のうち6面が
2010年10月に帰還した。

他に所在の確認されているものは、米国メトロポリタン美術館所蔵の8面(襖4枚の表裏)、シアトル美術館所蔵の4面、イギリス個人所蔵の9面の計21面である。

夙川(西宮)と山崎川(名古屋)

夙川

六甲山地の東端のゴロゴロ岳を水源とし、兵庫県南東部を流れ、西宮市南西部を南流し大阪湾に注ぐ。河川敷沿いにある「夙川河川敷緑地」は、松と桜の並木が続き、阪神間有数の景勝地として有名で、全長約4km、総面積約20.8haにわたって整備される。桜は約2.7kmにわたり約1660本植えられ、毎年桜の名所として多くの花見客が訪れる。

  • 桜は約2.7kmにわたり約1660本植えられ、毎年桜の名所として多くの花見客が訪れる。

桜の種類は、ソメイヨシノ(約1200本)、ヤマザクラ(約70本)、オオシマザクラ(約110本)、カンザン(約100本)、フゲンゾウほか15種。

1990年(平成2年)「日本さくら名所100選」に選ばれる。

山崎川

名古屋市千種区の平和公園内にある猫ヶ洞池などに源を発し、南西方向の昭和区、瑞穂区、南区へと流れ港区で名古屋港へ注ぐ。千種区池上町から千種区本山付近までの1.16kmは準用河川で昭和50年代初頭に暗渠化された。

  • 鏡池通付近の区間も暗渠化され、川が姿をあらわすのは千種区本山から鏡池通までの稲舟通沿いと田代本通を越えた大島町付近以降。

瑞穂公園のある中流域までの川沿いには広範囲に渉って桜の木が植えられ、「山崎川四季の道」として日本さくら名所100選にも選ばれ市内屈指の桜の名所である。

2013年には名古屋市が公募した「まちなみデザイン20選」にも選定された。

約1万年前の縄文時代には瑞穂陸上競技場付近が河口であったが、海面後退、土砂の堆積によって平安時代には新瑞橋付近が河口になっていたと推定されている。

西暦717年の尾張古図には、星崎のとなりに山崎の地名があり、これが川の名の由来にもなったと考えられる。

現在の河口付近の川筋は安政3年(1856年)の氷室新田の開発に伴って付け替えられた。それまでは現在の国道1号と交差する付近で西に向かい、当時の堀川河口の南(現在の地域医療機能推進機構中京病院付近)で伊勢湾に注いでいた。

文政5年(1822年)に刊行された地誌『郡村徇行記』に以下の記述が見られる。
山崎川 上ニテ川名川ト云、是ハ末森村猫洞七ツ釜大藪池ノ水落来レリ、下ハ紀左衛門新田道徳新田ノ間ニテ海ヘ落ツ。山崎橋長十二間幅三間アリ、大道奉行修造ヲ掌ル。享保十三戌申年、天白川ヲ此山崎川ヘ一旦瀬違有之シカ、十四年ノ間ニ天白川十七度決壊シ、処々砂入ナリシニヨリ、元文六酉年天白川元川ヘモトリ山崎川如今ナレリ。

京都 水尾

トロッコ列車や保津川下りで有名な保津峡から北へ約4キロ、愛宕山の麓へと分け入ったところに水尾地域はある。かつては、「水ノ尾」とも「水雄」とも云われ、「きれいな水が沸くところ」という意味を持つ山紫水明の地でもある。

『続日本記』には、772年(奈良時代)「光仁帝が、山城国水雄の岡に行幸された」と記され、また785年には「桓武天皇が、水雄岡に行幸し遊猟された」とある。『宇津保物語』にも源少将仲頼が、水尾山に隠遁したことが詳しく記述されている。山城と丹波の両国を結ぶ要所に当り早くから開け、東の八瀬・大原に対して、西の清浄幽すい境として、大宮人にもよく知られていた。

  • 丹波から都へのぼる道は、南の「老ノ坂峠」と「水尾」を通る道しかなく、繁盛し戸数も百戸をこえ、人口も千人に近い時代もあった。しかし1679年(江戸前期)、1835年(江戸後期)との二度にわたる大火により戸数も減少した。

豊かな自然に恵まれ、今も昔の面影を残しながら伝統を守り続けている。

水尾は日本の柚子の発祥の地であり、花園天皇がこの地に植えたとの説がある。

寒冷の地で育つため、香り高く、いにしえより都の人々に珍重され、江戸時代には、「水尾の柚子」として産地を形成した。

良質な柚子は和食のみならず、洋菓子への積極的な活用の動きも見られ、『日本の柚子発祥の地』を守ろうという輪が広がりつつある。

新鮮な柚子を使った「柚子風呂」は、古くは清和天皇も好んだとされ
水尾の風物詩となっている。

毎年12月ごろには各家の軒先で柚子が箱にあふれんばかりに収穫される。

柚子風呂と鳥すき又は鳥の水炊きを民家で楽しむことができ、山里風景を求めた観光客が訪れる。

水尾の地をこよなく愛し、後の世に「水尾天皇」とも呼ばれた「第56代清和天皇」(850年~880年)ゆかりの地でもある。

清和天皇陵は水尾集落から少し離れた山の中腹にひっそりとたたずむ。

清和天皇は出家後に修行のために、山城、大和、摂津などの寺院をまわり、帰路、水尾山寺に立ち寄った際にこの地の景観を気に入り、この水尾を終焉の地と定めたと言い伝えられている。

現在廃校となっている水尾小学校の校庭を横切って進むと杉やヒノキの木立の中に清和天皇社はある。

里の氏神で、毎年5月3日には清和天皇社例大祭が古式ゆかしく執り行われる。

水尾では、秋の七草の一つであるフジバカマを原種にこだわり地域の方々と有志のボランティアで大切に育てている。

毎年9月下旬には、地域主催でフジバカマ鑑賞会が行われ、晩秋の「水尾柚子」と並ぶ新たな風物詩として定着している。

このフジバカマを求め、たくさんのアサギマダラ(長距離を移動する渡り蝶)が飛来し、自然豊かな水尾に幻想的な風景が広がるという。

交通アクセス
JR山陰本線(嵯峨野線)「保津峡駅」下車4キロ徒歩約1時間
JR保津峡駅と水尾間 自治会バスが運行
バス時刻表 所要時間約15分
JR保津峡駅発 8:05 9:10 14:45 16:05 18:00
水  尾  発 7:35 8:50 14:25 15:50 17:45
料金:片道 大人250円、小人150円
毎週木曜日運休  祝祭日・年末年始・お盆運休
千日参り及びフジバカマ鑑賞会期間中は臨時バスを増便

天守閣木造化に500億円 名古屋城で竹中工務店 (産経新聞)

鉄筋鉄骨コンクリート造りの名古屋城天守閣の木造復元計画を進める名古屋市は29日、設計、施工を一体的に担う事業者に竹中工務店(大阪市)を選んだ。

同社の提案によると総工費は約470億~500億円で、東京五輪・パラリンピック前の2020年7月完成を目指す。総工費は、市が目安としていた270億~400億円を上回っており、短い工期や財源に市議会から異論が出そうだ。

市は、市民アンケートを実施した後、市議会に竹中工務店との契約に関する議案を提案する方針。市によると、安藤ハザマ(東京)も提案したが、復元の忠実さなどから、竹中工務店を選定した。

河村たかし市長は29日、ちょんまげ姿で記者会見し、総工費の削減に努めると強調。「名古屋の人間としてこんなにうれしいことはない。世界中から多くの人が来る」と述べた。天守閣は1945年に空襲で焼失。59年に再建したが、老朽化が進んでいる。耐震補強の場合は約29億円かかる。

京都、祇園 (ふゅーちゃ京都祇園店、祇をん ひつじカフェ、八坂通り 燕楽)

ふゅーちゃ京都祇園店

窓の向うは、街の灯りと白川のせせらぎ、格子風の窓や盆栽などといった和の要素でシック&モダンなインテリア、洗練と落ち着き感に包まれる上質の寛ぎスペースは、風情ある空間を演出する。

和牛をじっくり煮込んだ ふゅーちゃ特製ビーフシチュー

TEL
050-5870-1555
075-532-2270

最寄駅 京阪線 祇園四条駅 徒歩7分
阪急線 河原町駅 徒歩15分
アクセス 京阪四条駅、南座前から東へ信号2つ目(四条花見小路)を北へ300m。徒歩7分。花見小路通り新門前上る東側。
住所 京都府京都市東山区中之町244-1 花見会館 汀館1F
営業時間
【平日・土・祝・祝前】
ランチ 11:30~15:00 (L.O.14:00)
【平日・土・祝・祝前】
ディナー 17:00~23:00 (L.O.22:00)
定休日 毎週日曜日休み。日、月の連休の場合は月曜日休み。

祇をん ひつじカフェ

お店の名前からしてかわいいカフェを想像してしまうが、内装は大人な雰囲気。
壁に掛かった黒と金色の綺麗な帯は、お店の方が花街にでていた頃、実際締めてらっしゃったもの。

さくさく和三盆シュー
(お持ち帰り用が10個入り1200円)

TEL
050-5870-6753
075-551-1567

最寄駅 京阪本線 祇園四条駅 徒歩10分
アクセス 京阪祇園四条駅より徒歩10分。
住所 京都府京都市東山区祇園町北側347 祇園楽園小路1F
営業時間
11:00~02:00 (L.O.01:30)
定休日 不定休
通常 日曜・祝日

八坂通り 燕楽

清水寺の麓・建仁寺の南門のすぐそば、全室個室、「舞妓さんと宴会」ができ、庭を眺めてながら寛げる空間は、四季折々のお庭を感じることが出来る。

おでんをベースに四季折々の食材献立、京野菜や京麩を使ったお料理。

最寄駅 京阪本線 祇園四条駅 徒歩5分
阪急京都本線 河原町駅 徒歩10分
アクセス 八坂通り「建仁寺さん」の南門からすぐの所
住所 京都府京都市東山区八坂通り小松町594

営業時間
12:00~00:00 (L.O.22:00)
定休日 無休 (元旦はお休み)