苔に浸食された森・ホー・レインフォレスト(アメリカ、オリンピック半島)

オリンピック半島(Olympic Peninsula)は、アメリカ合衆国北西部、ワシントン州の西部にあり、西は太平洋、北はファンデフカ海峡でバンクーバー島と隔てられ、東はピュージェット湾でシアトルなどの地域と隔てられている。

先端のアラヴァ岬周辺には、この一帯に広く住んでいたマカ族(Makah)の保留地(Makah Reservation)があり、121平方kmの土地に1300人あまりが住み、生存捕鯨なども行っている。イギリス人航海者ジョン・ミアズ(John Meares)が、1788年の航海中にその美しさをギリシャのオリンポス山になぞらえた山が、最高峰オリンポス山(標高2,428m)で、オリンピック半島やオリンピック山脈の名称はこれに由来する。

オリンピック山脈の中央部には氷河をかぶった高山が並び、世界最大級の温帯雨林(ホー温帯雨林 Hoh、クィーツ温帯雨林 Queets、クィノルト温帯雨林 Quinault)を擁する。オリンピック半島には、アルドウェル湖(Lake Aldwell)、クレセント湖(Lake Crescent)、クッシュマン湖(Lake Cushman)、ミルズ湖(Lake Mills)、オゼット湖(Lake Ozette)プレズント湖(Lake Pleasant)、クィノルト湖(Lake Quinault)、サザーランド湖(Lake Sutherland)など多くの美しい湖もある。

カサ・バトリョ (スペイン、バルセロナにあるアントニ・ガウディが手がけた建築物の1つ)

バルセロナ、アシャンプラのグラシア通り43番地に位置するカサ・バトリョは、1877年に建設された建物である。曲線を特徴とするモデルニスモの顕著な作例と見なされている。このことから、1984年に世界遺産となったグエル公園やカサ・ミラに追加される形で、2005年、アントニ・ガウディの作品群の1つとして世界遺産に登録された。

大繊維業者ジュゼップ・バッリョ・イ・カザノバスの依頼を受け、1904年から1906年にかけて、ガウディはこの邸宅の改築を行った。この改築でガウディは、建物に5階と地下室を加え、玄関広間を広げ、階段や内壁を作り直し、各部屋に曲線的なデザインを持ち込んで、タイルやステンドグラスの装飾を施した。この邸宅の造形には様々な説がある。

第一に、屋根の一部が丸く盛り上がり、まるでドラゴンの背中のように見えることから、カタルーニャの守護聖人であるサン・ジョルディの竜退治の伝説をなぞっているという解釈である。この解釈によれば塔は聖人の構える槍とされる。カサ・バトリョには、ファサードの石柱が骨を想起させることから「骨の家(Casa dels ossos)」というあだ名もあるが、竜退治説によればこの骨もドラゴンの犠牲になったものたちの骨と理解されている。

第二の解釈は屋根をアルルカンの帽子に見立て、ファサードのバルコニーは仮面を、ジュゼップ・マリア・ジュジョールによる様々な色の破砕タイルのモザイク(トランカディス)が祭りの紙吹雪を表しているとする謝肉祭説である。邸内でガウディは自然光を効果的に取り込み、そのタイルの濃淡を変えている。これらの光と色の効果により海底洞窟をイメージして作られたとする説もある。ガウディがカサ・バトリョのためにデザインした家具のうち、机とベンチについてはそれぞれ1つずつ邸内で見ることができる。残りの作品はカタルーニャ美術館が所蔵している。

米谷清和 (都市に生きる人間を主題にした作品の画家)

米谷清和(昭和22年~ )氏は、長く三鷹にアトリエを構え、日本画の題材としては珍しく都会に暮らす人々の日常的な風景やその孤独を描き出している。

三鷹に住み、そこから中央線で新宿、山手線で渋谷、そして東急線に乗りかえて美術大学に通う日々。くり返しスケッチをした街並み。

人々の表情や仕草から写真にはない情感的なものが伝わる。寂しそうな老人、疲れたサラリーマンたち、表情のないOL、ラッシュアワーの人混み。都会の喧噪の裏にある孤独や人生の悲哀を感じさせるも、その視線はどこか醒めているようで、同じように東京で孤独と戦う人々に対する優しさのようなものも伝わってくる。

米谷芸術は、日常なごく平凡なもの、何気ないもの、いつの間にか自然と心に入ってるものを象徴的に表現するものが特徴とされている。

エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン 18世紀で最も有名なフランス女性画家

エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン(Marie Élisabeth-Louise Vigée Le Brun, 1755年4月16日 – 1842年3月30日)は、フランスの18世紀で最も有名な女流画家。早くからその画才を発揮し、10代前半にはその技量を評価される。

21歳の時に画商ピエール・ルブランと結婚するが彼女の結婚生活も波乱であった。夫ピエールは非常に浪費家で、ルブランが稼いだ金を使い込んでしまう。一方でピエールは美術好きの有力者との交流があり、ルブランの売り込みに一役買っていたようでもある。しかし、結婚から18年後に離婚している。

彼女の画家としての大きな転機は24歳の時で、ルイ16世の妃マリー・アントワネットと出会う。マリーとは同い年で意気投合し、彼女の肖像画を幾つも描くうちに女王お気に入りの画家としての地位を確立し王立美術アカデミーの会員になる。1789年の革命で王女が捕えられるとルブランも身の危険を感じパリから逃れヨーロッパ各地を転々とする生活を送る。


ルブランの評判は各国に知れ渡っていたようで、亡命した各地で有力な人物から手厚い保護を受け、その名声が落ちることはなかった。その後、革命の混乱が収まったパリへ帰り、亡くなるまでパリの街で過ごした。ルブランは生涯で700点にものぼる作品を制作したと言われている。彼女の筆の速さはもちろんだが、その人気ぶりで制作活動の障害がほとんどなかったことも一つの要因であろう。

熱海「海峯楼」

熱海の「海峯楼」は美しいガラスのお城。世界的建築家隅研吾氏のデザインによる趣きの異なる4室が用意されている。プライベート重視で熱海を堪能できる贅沢な旅館。

客室は全てがオーシャンビュー。ガラスが基調とされているため目の前には海の絶景が広がり迫力がある。夕方日が落ちるころには美しいサンセットを眺め、一日中いても飽きないウォーターバルコニーは宙に浮いているかのよう。

180度見渡しても海に囲まれており、一日の海の移り変わりを贅沢に味わうことができ、宝石を思わせるガラスアート。「楽精」と呼ばれる大広間の奥の金襖は、狩野派の大家・故徳力富吉郎氏が描いたもので、神秘的なガラスアートを手がけたのは狩野智宏氏。

「海峯楼」のはBARからは海の絶景を望み、シーズンが合えば花火を特等席で見ることもできる。

伊良湖ビューホテル

渥美半島に春をつげる「菜の花まつり」の開催期間は1月14日~3月31日、半島のいたるところで黄色の花を楽しむことができる。2017年、開催期間中、メイン会場の「伊良湖・菜の花ガーデン」では4ヘクタールの畑に200万本の菜の花が咲き乱れる。

常設のコンテナハウスでは土産物などの販売もあり、2月4日からの土日にはテント村が造られてあたたかい飲み物や食べ物の販売も行われ、黄色の菜の花が広大な敷地に咲き誇る姿は圧巻である。

菜の花まつりのメイン会場は『伊良湖菜の花ガーデン』には、国道259号線と国道42号線が主なルートで、国道沿いにも菜の花畑があり、ドライブ途中にも可愛らしい黄色の花を楽しむことができる。海へ流れが続くようにデザインされた露天風呂など7種類のお風呂、和洋中120種のブッフェ、和食会席、フランス料理などのディナーと、太平洋と三河湾の碧い海に囲まれ本格派のリゾートホテルと言われる。

アントニオ・ヴィヴァルディ 協奏曲第4番 ヘ短調 RV 297「冬」(L’Inverno)

アレグロ・ノン・モルト (10 – Vivaldi Winter mvt 1 Allegro non molto – John Harrison violin.ogg Vivaldi Winter mvt 1 Allegro non molto)
寒さの中で身震いしている。足の冷たさを振り解くために歩き回る。辛さから歯が鳴る。ソロヴァイオリンの重音で歯のガチガチを表現している。

ラルゴ (11 – Vivaldi Winter mvt 2 Largo – John Harrison violin.ogg Vivaldi Winter mvt 2 Largo)外は大雨が降っている、中で暖炉で満足そうに休息。ゆっくりしたテンポで平和な時間が流れる。

アレグロ (12 – Vivaldi Winter mvt 3 Allegro – John Harrison violin.ogg Vivaldi Winter mvt 3 Allegro)私たちはゆっくりと用心深く、つまづいて倒れないようにして氷の上を歩く。ソロヴァイオリンは弓を長く使ってこの旋律を弾き、ゆっくりと静かな旋律に続く。しかし突然、滑って氷に叩きつけられた。氷が裂けて割れ、頑丈なドアから出ると外はシロッコと北風がビュービューと吹いていく。そんな冬であるが、もうすぐ楽しい春がやってくる。

『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』(Eine kleine Nachtmusik)

「ああ、いいね。暗いね。夜の音楽」と言っていたのは芥川也寸志。ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが作曲したセレナードのひとつ、『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』(Eine kleine Nachtmusik)ト長調 K.525。

ドイツ語でEineは女性形の不定冠詞、kleineは「小さな」の意の形容詞kleinの女性形、Nachtmusikは、Nacht(夜)+Musik(音楽)の合成名詞で、「小さな夜の曲」という意味。かつて「小夜曲」と訳されていたが、今ではほとんど使われなくなっている。

この題名はモーツァルト自身が自作の目録に書き付けたものである。モーツァルトの自作の目録には第2楽章のメヌエットとトリオを含む5楽章として記載しており、元来5楽章からなっていたと考えられる。第2楽章は散逸しており、下記のような4楽章形式で演奏される。ただし、他のメヌエットを第2楽章に充てて5楽章形式で演奏される例もある。

第1楽章:アレグロ、 ソナタ形式 ト長調 4/4拍子
第2楽章:ロマンツェ(アンダンテ) 三部形式 ハ長調 2/2拍子
第3楽章:メヌエットとトリオ(アレグレット) ト長調 3/4拍子
第4楽章:ロンド(アレグロ) ロンド形式 ト長調 2/2拍子

アントニオ・ヴィヴァルディ 協奏曲第2番 ト短調 RV 315「夏」(L’Estate)

「四季」(イタリア語:Le quattro stagioni、英語表記はThe Four Seasons)は、イタリアの作曲家・アントニオ・ヴィヴァルディによって作曲された、12楽章から成るヴァイオリン協奏曲集。《和声と創意への試み》 (Concerti a 4 e 5 “Il cimento dell’armonia e dell’inventione”) 作品8(1725年に出版された12曲のヴァイオリン協奏曲集)の内、 第1集すなわち第1曲から第4曲までの「春」「夏」「秋」「冬」に付けられた総称である。ただし、ヴィヴァルディ自身による命名ではない。「四季」の各協奏曲はそれぞれ3つの楽章から成っている。それぞれの楽章にはソネットが付されていて、作者は不明である。このソネットゆえ、この曲は標題音楽に分類される。ヴィヴァルディはこの「四季」で新しい旋律法やダイナミズムを追求したとされているが、既にこの作品以前から彼ならではの兆候はあった。1725年に発刊され、モルツィン伯爵ヴェンツェスラウに献呈されている。

協奏曲第2番 ト短調、RV.315「夏」(L’Estate)アレグロ・ノン・モルト-アレグロ (04 – Vivaldi Summer mvt 1 Allegro non molto – John Harrison violin.ogg Vivaldi Summer mvt 1 Allegro non molto[ヘルプ/ファイル])かんかんと照りつける太陽の絶え間ない暑さで人と羊の群れはぐったりしている。松の木も燃えそうに熱い。カッコウの声が聞こえる。そしてキジバトの囀りが聞える。北風がそよ風を突然脇へ追い払う。やって来る嵐が怖くて慄く。ヴァイオリンの一瞬一瞬の“間”に続いての絶え間ない音の連続が荒れる嵐を表現している。アレグロ・プレスト・アダージョ (05 – Vivaldi Summer mvt 2 Adagio – John Harrison violin.ogg Vivaldi Summer mvt 2 Adagio[ヘルプ/ファイル])稲妻と雷鳴の轟きで眠るどころではない、ブヨやハエが周りにすさまじくブンブン音を立てる。それは甲高い音でソロヴァイオリンによって奏でられる。プレスト(夏の嵐) (06 – Vivaldi Summer mvt 3 Presto – John Harrison violin.ogg Vivaldi Summer mvt 3 Presto[ヘルプ/ファイル])嗚呼、彼の心配は現実となってしまった。上空の雷鳴と雹(ひょう)が誇らしげに伸びている穀物を打ち倒した。

アントニオ・ヴィヴァルディ 協奏曲第2番 ト短調 RV 315「夏」(L’Estate)から一部分だけ

越中・増山城跡

増山城は和田川東岸、増山湖の東の山塊に築かれ、北には亀山城や孫次山砦があり富山三大山城(松倉城、守山城)の一つに数えられる。普請は山全体に行われ、対岸には城下町があり、現在も城下町の土塁が残る貴重な史跡で、2009年に国指定史跡となる。

越中・増山城は築城年代は定かではないが、戦国時代に神保長職によって築かれたと云われる山城である。また、南北朝時代に築かれたとされる和田城は、増山城の北方にある亀山城と見られている。天文12年(1543年)頃に、神保長職は富山城を築き、新川郡の椎名氏を圧迫するようになった。

椎名氏を支援する越後の上杉謙信は、永禄3年(1560年)富山城を攻め落とした。永禄5年(1562年)頃、神保長職は上杉氏に降伏し、元亀3年(1572年)頃に没した。長職の没後、増山城には一向一揆が籠ったが、天正4年(1576年)上杉謙信が攻め落とす。その後、謙信は家臣吉江宗信を増山城に置いて拠点とした。

天正6年(1578年)、上杉謙信没後は織田信長に仕えていた神保長住が織田軍を率いて越中に入国、天正9年(1581年)には佐々成政の軍勢が増山城下を焼き払い増山城は落城した。天正13年(1585年)、羽柴秀吉の越中征伐により佐々成政は秀吉に降伏し成政は新川一郡に減封となる。砺波・婦負・射水三郡が前田利家に加増され、増山城には利家の娘婿中川光重が入城した。