越中・増山城跡

増山城は和田川東岸、増山湖の東の山塊に築かれ、北には亀山城や孫次山砦があり富山三大山城(松倉城、守山城)の一つに数えられる。普請は山全体に行われ、対岸には城下町があり、現在も城下町の土塁が残る貴重な史跡で、2009年に国指定史跡となる。

越中・増山城は築城年代は定かではないが、戦国時代に神保長職によって築かれたと云われる山城である。また、南北朝時代に築かれたとされる和田城は、増山城の北方にある亀山城と見られている。天文12年(1543年)頃に、神保長職は富山城を築き、新川郡の椎名氏を圧迫するようになった。

椎名氏を支援する越後の上杉謙信は、永禄3年(1560年)富山城を攻め落とした。永禄5年(1562年)頃、神保長職は上杉氏に降伏し、元亀3年(1572年)頃に没した。長職の没後、増山城には一向一揆が籠ったが、天正4年(1576年)上杉謙信が攻め落とす。その後、謙信は家臣吉江宗信を増山城に置いて拠点とした。

天正6年(1578年)、上杉謙信没後は織田信長に仕えていた神保長住が織田軍を率いて越中に入国、天正9年(1581年)には佐々成政の軍勢が増山城下を焼き払い増山城は落城した。天正13年(1585年)、羽柴秀吉の越中征伐により佐々成政は秀吉に降伏し成政は新川一郡に減封となる。砺波・婦負・射水三郡が前田利家に加増され、増山城には利家の娘婿中川光重が入城した。

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