ニュージーランド、南アルプス山脈 (サザンアルプス山脈)

南アルプス山脈(Southern Alps)は、ニュージーランド南島を形作る「背骨」にあたる山脈で、ヨーロッパのアルプス山脈にその姿が似ている。

最高峰はクック山(Mt. Cook)で、標高3,754m、2位はアスパイアリング山(Mt. Aspiring)の3,033m、で、「グレート・ディバイド」と呼ばれるサザンアルプスの分水嶺の両側に広がるマウント・アスパイアリング国立公園には、いくつもの山や氷河をはじめ、渓谷、川や湖が織り成す幻想的な世界が広がり、その景観の美しさには思わず息を呑むほど。

広大な原生林の奥深くには、氷河、雪原、山や谷が連なり、野生動物も多く生息する。分水嶺の西側は降水量の多い地域でブナの森林、東側には氷河によってU字型に削られた谷がある。壮大な山々に囲まれた谷底には草原が広がり、清らかな水が川となって流れる。

森林限界線より上の亜高山地帯では、耐寒性の低木草やコケ類、かわいらしい花をつけた高山植物が斜面を覆う。特徴のある地形は、氷河期や大規模な地殻変動の繰り返しにより、岩層が地上に剥き出しになってできたもの。荒涼とした造形美は、珍しい色をしたレッド・ヒルの斜面、灰色がかったシスト(縞模様の変成岩)の山肌に見ることができる。

バリ島 ジャティルウィ 雄大に広がる棚田

バリ島中部、ジャティルウィはバトゥ・カウ山のふもとの丘陵地帯。山に囲まれ平地がないこの地域では、古くから「スバック」という伝統的水利システムを用いて稲作が行われている。

バリ島にライステラスは多いが、ジャティルウィの棚田はバリ島で初めて世界文化遺産に登録された場所で、緩やかな傾斜に広がる棚田は長い年月をかけて作られたもので、この風景は一見の価値がある。

サイクリングツァーもあり、緑の中を走り、風を肌で感じることができる。ジャティルウィの棚田は、高低差が少なく見渡す限り横に広く広がっているのが特徴で、日本の懐かしい風景と異国情緒が混在する雰囲気が魅力である。

棚田の周辺にはカフェやレストランがあり、インドネシア料理を楽しみながら景色を楽しむことができる。周辺には、ブサキ寺院の次にバリ島で大きな寺院でバリ島で最も美しい寺院とも言われれるタマン・アユン寺院がある。バリ島の寺院としては珍しい境内の周りが堀で囲まれたスタイルで、アグン山を屋根で模したメル(塔)が立ち並ぶ境内は厳かで壮観な空間である。

オックスフォード 、モーリス (自動車)

イングランド東部、オックスフォードシャーの州都Oxford(オックスフォード)は、1542年に市制され、英語圏において最も古い大学であるオックスフォード大学の拠点である。詩人マシュー・アーノルドは、大学を構成する建造物が建築として調和を実現していることに関連して「夢見る尖塔の都市」と造語した。

20世紀初頭には急速な産業と人口の増大を経験し、印刷及び出版産業は1920年代までに十分に発達した。この時代に、オックスフォードはモードリン橋(Magdalen Bridge)の西にあたる大学都市と、南東部のカウリー(Cowley)地区の自動車都市の2つの部分から構成されるようになった。

モーリス 自動車 (Morris Motor Company)

ウィリアム・モリス(初代ナフィールド子爵、William Morris, 1st Viscount Nuffield)が、カウリーにおいて自動車の大量生産を行うため「モリス自動車会社」(Morris Motors Company)を設立した。

カウリーはブリティッシュ・レイランドの衰退が起こり、1980年代と1990年代に大規模な失業を蒙ったが、現在はBMWによる新型ミニ車の製造で成功を収めている。

モーリスの名前を冠した自動車は「モーリス・アイタル(Morris Ital)」の販売が終了した1984年が最期となる。

現在は、中国の自動車会社・南京汽車が旧MGローバー社の資産の大部分を買収し、旧MGローバー社が所有していたブランドのひとつとしてモーリスの商標権も南京汽車に移動している。

八重山列島

「八重山」は、八重山方言では「やいま」、沖縄方言では「えーま」と発音されるようだ。

八重山列島は、石垣島、竹富島、小浜島、黒島、新城島(上地島、下地島)、西表島、由布島、鳩間島、波照間島の石西礁湖周辺の島々と、西に離れた与那国島などから構成され、東に宮古列島、北に尖閣諸島がある。

太陽と海の恵みがたっぷり詰まったパイナップル、パッションフルーツ、それと石垣牛、八重山そば、などなど楽しめそう。

インド洋に浮かぶフランスの海外県、レユニオン

フランスの世界中に4つある海外県(departement d’outre mer DOM) の一つのレユニオン島はマダガスカルの東約800km、モーリシャスの南西約200kmのインド洋に浮かぶ火山島。

総表面積は2512平方km、人口は約70万人でフランスの海外県の中では最多の人口を抱える。島のほぼ中央には火山活動のない標高3069メートルのピトン・デ・ネージュ山、島の南東部には火山活動のある標高2631メートルのピトン・ドゥ・ラ・フルネーズ山がある島のほぼ中央には火山活動のない標高3069メートルのピトン・デ・ネージュ山、島の南東部には火山活動のある標高2631メートルのピトン・ドゥ・ラ・フルネーズ山がある。

コーヒーの原種の一つブルボン種の原産地でもある。

かつて、18~19世紀にはフランスは植民大国で多数の国々を占領し、自然資源である砂糖、バニラ、農用地などを奴隷制度で利用してきたが、同制度は1848年に廃止された。この時期に、フランスは自国の文化、宗教、フランス語を現地に移植したので、ヨーロッパ大陸の枠を越え広がった。

レユニオンの略史

1507年 ポルトガル人により発見される

1640年 フランス人が上陸してフランス領と宣言

1642年 国王ルイ13世によってブルボン島(île Bourbon)と命名

1665年 フランス東インド会社はインドへの中継港として植民を開始

コーヒー栽培、そしてサトウキビ栽培による製糖が重要産業となる

ブルボン王政を打倒したフランス革命によってレユニオン島(La Réunion)と改名される

1806年 皇帝ナポレオンに媚を売った提督によってボナパルト島と改称される

ナポレオン戦争終了後のイギリス占領時(1814年)に、ブルボン島に戻される

1848年に2月革命で7月王政が倒れるとレユニオン島に改称され今日に至る

1869年 スエズ運河が開通するとインド方面への中継港としての役割は減少した

1946年 フランスの海外県となる

2002年 ユーロ流通

モンゴル・アルタイ山脈の岩絵群

モンゴル・アルタイ山脈の岩絵群は、モンゴルの世界遺産のひとつ。登録名が示すように、モンゴル・アルタイ山脈の3箇所の岩絵遺跡群が対象となっている。紀元前11000年ごろから西暦9世紀ごろまで、およそ12000年にわたって描かれている。

それぞれの時期における北アジアの生活様式や周辺環境の様子を伝える岩刻画が数多く残されていることが評価された。

葬礼文化と結びつく塚も数百箇所存在し、ほとんどは岩絵である。

更新世末期の岩絵に登場するのはマンモス、オーロックス、ヘラジカ、ダチョウなどの大型動物が描かれる。完新世に入ると、獲物の動物を描くだけでなく、狩人の姿も描かれるようになる。更新世から青銅器時代初期にかけての気候変動の様子も読み取ることができる。青銅器時代後期から鉄器時代にかけてと見られる時期の岩絵に描かれているのは馬を使った遊牧生活の様子。7世紀から9世紀のテュルク系民族の時期のものは、武装した騎馬像などが描かれていいる。UNESCOの世界遺産リストに登録されたモンゴルの文化遺産は、オルホン渓谷の文化的景観に続いて、これが2件目。

日本のゴーギャン・田中一村

田中一村(1908年7月22日 – 1977年9月11日)は、奄美大島の自然を愛し、その植物や鳥を鋭い観察と画力で力強くも繊細な花鳥画に描いた日本画家で本名は田中孝。

栃木県に生まれ、東京美術学校(現在の東京芸術大学)日本画科に入学し将来を嘱望されながらも、病気、生活苦の中で中央画壇とは一線を画し清貧の中で画業に励む。若くして南画に才能を発揮し「神童」と呼ばれ、7歳の時には児童画展で受賞(天皇賞、もしくは文部大臣賞)。

また10代ですでに蕪村や木米などを擬した南画を自在に描き、『大正15年版全国美術家名鑑』には田中米邨(たなかべいそん)の名で登録された。50歳の時に南の島々の自然に魅せられ奄美大島に移り住む。

大島紬の工場などで働きながら衣食住を切り詰め、不遇とも言える生活の中で奄美を描き続けた。没後に南日本新聞やNHKの『日曜美術館』の紹介でその独特の画風が注目を集め、全国巡回展が開催され、一躍脚光を浴びる。

南を目指したことから、日本のゴーギャンなどと呼ばれることもある。2001年、奄美大島北部・笠利町(現・奄美市)の旧空港跡地にある「奄美パーク」の一角に「田中一村記念美術館」がオープンした。

大下藤次郎 (明治時代の日本の水彩画家)

明治時代の日本の水彩画家、大下 藤次郎(明治3年7月9日(1870年8月5日) – 明治44年(1911年)10月10日)は、日本各地の風景を描きながら水彩の教育普及活動にも取り組み、「水彩画のパイオニア」(美術館サイトより)としての地位を確立した。

1870年 東京で、旅人宿・馬宿・馬車問屋を営む家に生まれる。最初期は外国人向けの横浜写真を参照しながら水彩を始める。19歳のころ、家業を手伝うかたわら美術界へ進むことを決意。1891年より中丸精十郎に,94年から原田直次郎に師事。

1898年、半年ほどオーストラリアへ写生旅行にゆく。

1902年渡米し,翌年帰国。外光派の水彩画を確立し、水彩画研究団体の春鳥会を創立,05年絵画雑誌『みづゑ』を発刊して水彩画の普及に努めた。

1907年 日本水彩画研究所を設立し、第一回文展に『穂高山の麓』を出品。

1909年 甲州・白峰山(南アルプス北岳)をめざした山旅に出る。この山旅から紀行文『白峰の麓』と水彩画「西山峠」(島根県立石見美術館所蔵)が生まれた。

1911年 瀬戸内などを旅した末、突然の病に倒れ、死去。

真宗大谷派名古屋別院

名古屋市中区にある真宗大谷派名古屋別院、通称は、「東別院」、「東御坊」、「名古屋東別院」、「東本願寺名古屋別院」。真宗本廟(東本願寺)を本山と仰ぎ、開基は東本願寺第十六代法主 一如。

元禄3年(1690年)尾張藩第2代藩主・徳川光友より織田信秀の居城、古渡城の跡地約1万坪の寄進を受けて建立。

文化2年(1805年)五代惣兵衛が本堂を再建。本山である東本願寺に多額の寄進をしたことにより使用する材木の調達を一手に請負うことに成功。

文政6年(1823年)新たな本堂が竣工。この年、本山の御影堂と阿弥陀堂が焼失し、緊急の措置として、別院、当時の呼称は「名古屋御坊」の古御堂が東本願寺の本堂とされた。

明治期

愛知県庁や愛知県議会の機能が同地に設置。

明治7年(1874年)「名古屋博覧会」の会場としても使用。

昭和20年(1945年)3月12日、名古屋大空襲の被害を受け本堂をはじめほとんどの施設が焼失。現在の本堂は、戦後再建された。紙本墨画淡彩四季山水図 六曲屏風一双は国指定の重要文化財、梵鐘は名古屋市指定文化財である。

琳派 京を彩る

琳派誕生400年記念[特別展覧会]が、京都国立博物館(東山七条)で、2015年10月10日から11月23日まで開催される。

いまから400年前、1615年、京都・鷹峯の地に本阿弥光悦が徳川家康から土地を拝領し、工芸を家業とする親類縁者を集め、芸術家の村「光悦村」を作ったのが「琳派」のはじまりとされ、俵屋宗達、その百年後には尾形光琳、乾山の兄弟が現れ、また百年後に酒井抱一が継いでいった。

「琳派」という流派名は、光琳の名の一字をとって近代の研究者が作った略称で、彼らに直接の師弟関係はなく、宗達を光琳が、光琳を抱一が、それぞれ発見し私淑し、その意匠を取り込み、自分の芸術として発展した。

日本美術史の中でも独特の成立、発展をした「流派」ではなく「様式」だったと言える。「風神雷神図屏風」は、宗達・光琳・抱一の三者が描いていて、一見同じようでありながら、三者それぞれの個性を秘めている。本展では、光琳の「風神雷神図屏風」の裏面のために抱一が描いた「夏秋草図屏風」が花を添えている。