モーリシャス島

アフリカ大陸の近く、マダガスカルの東約900kmに位置する小島で、面積は2040平方kmで沖縄本島の1.5倍の火山島である。年平均気温は24~29度、「インド洋の貴婦人」と呼ばれる比較的平らな島で、最高峰はビトン・ド・ラ・プティト・リビエール・ノアールで標高826メートル。

もともとゴンドワナ大陸の一部だったマスカリン諸島に属し、特殊化した動物が生息する。1505年、ポルトガル人により発見され、1638年にオランダ人が植民を開始するまでは無人島で原住民はいない。

その後、統治国は変遷して、フランスからイギリスに変わり、それに伴ってフランス島からモーリシャス島に名前も変わった。

その後、統治国は変遷して、フランスからイギリスに変わり、それに伴ってフランス島からモーリシャス島に名前も変わった。モーリシャス共和国独立直前の1965年11月、チャゴス諸島の住人約1800人がモーリシャス島へ強制移住させられた。

モーリシャス共和国独立直前の1965年11月、チャゴス諸島の住人約1800人がモーリシャス島へ強制移住させられた。

周囲は珊瑚礁に囲まれ、天然の白浜が続き、「レースに縁取られたようだ」と称される。『トム・ソーヤーの冒険』の著者として知られるマーク・ トゥエインは、「神はモーリシャスを最初に創り、そしてモーリシャスを真似て天国を創った」と言った。

多言語が使われ、例えば、レストランのメニューは英語、オーダーはフランス語、家族同士はクレオール語で話す。街中にはヒンズー教の色鮮やかな寺院やキリスト教の教会があり、18世紀にフランス人によってサトウキビのプランテーションが行なわれたのでサトウキビ畑が島の大部分に青々として広がる。

サトウキビから作られるラム酒も有名である。サトウキビ栽培のモノカルチャー経済から脱却を図って進められたのが繊維産業で、ヨーロッパのブランドの製品の多くがモーリシャスで作られる。買う場所、物を選べば高品質なものを非常に安く買えることもできる。多民族国家を生かした外交で、インド、中国、アフリカ諸国などと租税条約を締結し、タックスヘイブン(租税回避地)でもある。

長島リゾート

1966年3月にオープンした大型アミューズメントパーク、ナガシマスパーランド(Nagashima Spa Land)は、長島観光開発株式会社の運営する遊園地で三重県桑名市長島町浦安にある。ナガシマリゾートの中核施設で、東京ディズニーランドに次ぐ国内二番目の敷地面積をもつ。運営する施設の年間集客人数は1413万人に上る。

1963年(昭和38年)12月 – 資本金3億円で会社設立。

1964年(昭和39年)11月 – グランスパー長島温泉の営業を開始。12月 – ホテルナガシマの営業を開始。

1966年(昭和41年)3月 – ホテルナガシマ和風別館、ナガシマスパーランドの営業を開始。

1970年(昭和45年)3月 – ホテル水郷の営業を開始。

1978年(昭和53年)7月 – ナガシマスパーランド内にてジャンボ海水プールの営業を開始。10月 – 屋内アイススケート場の営業を開始。

1988年(昭和63年)7月 – ホテル花水木の営業を開始。

1991年(平成3年)1月 – ホテル水郷をガーデンホテルオリーブに改称。7月 – ナガシマカントリークラブの営業を開始。

1993年(平成5年)2月 – 花水木別館の営業を開始。

1997年(平成9年)7月 – 関サービスエリアの営業を開始。

1998年(平成10年)7月 – なばなの里の営業を開始。

2001年(平成13年)10月 – 本社を新社屋に移転。

2002年(平成14年)3月 – 湾岸長島パーキングエリア、ジャズドリーム長島(運営はららぽーとマネジメント)の営業を開始。8月 – 湯あみの島、ホテルナガシマの営業を開始。

タイ・チエンマイ

タイ・北部、チエンマイ県の県庁所在地チェンマイ、気候はタイ中央平原部より穏やかで、多数の国立公園がある。県内には多くの山・山脈があり県南部は、チャオプラヤー河の支流のピン川が流れる。

チエンマイ市内から西に位置するインタノン山(標高2,575メートル)はタイ最高峰の山である。チエンマイ県は、1296年以来ラーンナータイ王国の首都であったが、1599年にアユタヤに占領され、その主権を失う。

1782年には、カーウィラ王がラーマ1世によってその主権が再び認められた。しかし、ラーマ5世(チュラーロンコーン)のチャクリー改革の一環で、中央政府のコントロールの下に置かれる。歴史ある街であるため、現在でも多くの寺院や遺跡が存在し、北部の文化・経済の中心、バンコクに次ぐタイ第2の都市とされる。

チエンマイとは、「新しい街」という意味であるが、これはマンラーイ王が都を建設した際すでにチエンラーイ(「マンラーイの街」という意味)があった。これに対し、新たに建設された街を「新しい街」、チエンマイと称したのが名の由来である。

当時、チエンマイ建都の要因として、元の侵攻を避けること、コーク川に面したヨーン地域にアクセスがよいこと、さらに、北上すればマンラーイの母体であったヨーン地域の支配に不便でなかったこと、ピン川の上流で、チャオプラヤー川、タイランド湾に通じ貿易に有利であったことなどがある。

コロラド州南西部 メサ・ヴェルデ国立公園 (Mesa Verde National Park)

プエブロインディアンのアナサジ族の残した断崖をくりぬいた一連の集落遺跡群、スペイン語で、緑の台地という意味で、1906年7月29日に国立公園として制定され、1978年9月6日に世界遺産 (文化遺産) に登録、1987年5月29日にアメリカ合衆国国定歴史建造物に指定された。

1874年にメサ・ヴェルデ遺跡の存在は知られたが、本格的な考古学的調査は、1888年に当地の牧場主リチャード・ウェザーリルによって「クリフ・パレス」が発見され、調査で108ヶ所に及ぶ断崖をくりぬいた集落を確認してからとなる。1891年、考古学者ジェズ・ウオルター・ヒュークス(J.W.Fewkes)とスウェーデン出身の 地質学者グスタフ・ノルデンショルドにより、初めて本格的な発掘調査がされる。

1世紀ごろ、農耕民であるアナサジ族が住み始めたと推測され、8世紀ころまでバスケット・メーカー文化と呼ばれる独特なかご作りで知られる文化を築いていた。9世紀ころからキヴァという儀式を行う施設を伴う日干し煉瓦の壁によって区画された集落遺跡を築くようになり、プエブロ文化と呼ばれる。

12世紀頃、外敵の襲来に備え本格的な「岩窟住居」を作り、住み始めたと考えられている。同時期の遺跡では、ニュー・メキシコ州北西部、半円形の壮大なプエブロ・ボニート遺跡を中心とするチャコ・キャニオンの遺跡群が知られる。

その他、ユタ、コロラド、アリゾナ、ニュー・メキシコ4州の州境が1点に集まるフォー・コーナーズ周辺に、数多くの遺跡群が見られる。14世紀頃、とつぜん放棄されたと推測されているが、クリフ・パレスといわれる「岩窟住居」の遺跡は200室ほどあり、一番高いところでは、4階建て相当の高さとなり、高級マンションのようでもある。

迎賓館赤坂離宮

ネオ・バロック様式の西洋風宮殿建築、迎賓館赤坂離宮は1909年東宮御所として建設される。設計は日本近代建築の父と呼ばれたジョサイア・コンドルの弟子、建築家の片山東熊、2009年に国宝に指定される。ドアには菊の紋章、桐の紋様が施され、正面屋根には鳳凰や甲冑なども装飾される。中央階段の床はイタリア産大理石で、その上に赤絨毯が敷きつめられる。階段の左右の壁面はフランス産の大理石が鏡張りされ、2階大ホール正面の左右の壁面には小磯良平画伯による大油絵が飾られる。

彩鸞の間 大理石で造られた暖炉の両脇に「鸞らん=鳳凰」と呼ばれる架空の鳥をデザインした金色の浮彫りがある。白い天井と壁は金箔が施された石膏の浮彫りで装飾され、10枚の鏡が部屋を広く見せている。条約・協定の調印式や国・公賓とのテレビ・インタビュー等に使用される。

花鳥の間 天井に描かれた36枚の絵、欄間に張られたゴブラン織、壁面には花や鳥が描かれてた30枚の七宝が飾られる。腰壁は茶褐色のシオジ材の板張り、壁の中断は七宝で装飾される。下絵は日本画家の渡辺省亭が描き、明治期の七宝焼きの天才・涛川惣助が焼いた。主に国・公賓主催の公式晩餐会に使用され、最大約130名の席が設けられている。

朝日の間 天井に「朝日を背にした女神が香車を走らせている姿」の絵が描かれる。周囲の16本の円柱はノルウェー産の大理石で、壁に京都西陣の金華山織の美術織物が張られる。床は紫色を基調とした47種類の糸を使い分けて桜花を織り出した緞通が敷かれている。公賓のサロンとして表敬訪問や首脳会議等で利用される。

羽衣の間 謡曲の「羽衣」の景趣を描いた大絵画が天井に描かれる。3基のシャンデリアは赤坂離宮で最も豪華で、重さ800kg、高さ3m。正面の中二階はオーケストラボックスがあり、かつて舞踏会場として設計されたことが偲ばれる。レセプション、会議等で使用されるほか、晩餐会の招待客に食前酒や食後酒が供されるところでもある。花壇や松がありイオニア式の柱が特徴的な本館南面の主庭は、正面とは違う和やかさを感じる景観である。

モロッコ、シャウエン ( Chaouen )

モロッコのシャウエンは、 リーフ地方の山中にあり、タンジェとテトゥアンから内陸に入ったところに位置する人気の観光地である。

フェズからは、バスで約4時間ほどのところ、近くには、アフリカで最も深い洞窟の一つであるKef Toghobeit Caveがある。

シャウエンの町では、実際に壁を青く塗っている光景に何度か出会う。
海辺の街かと思いきや、でも、ここはサハラ砂漠のあるモロッコ。

もともとは白い街だったらしいが、青く塗るのは虫よけの意味があるとか、また、涼しげに見えるからという説もある。

シャウエンは小さい町なので、のんびり散歩するのが楽しい。
また、モロッコはネコが多い国で、青い町にネコがいるという光景は、街歩きが楽しくなりそうで、フォトジェニックな街でもあるようだ。

シャウエンのメディナ(旧市街)の広場あたりには、牛肉とプルーンのタジンが絶品のレストラン「アラジン」がある。

1471年、ポルトガルの侵略と戦うための小さな要塞として建造された街で、多くのモリスコとユダヤ人が、スペインによるレコンキスタの後ここに定住した。

1920年、スペインによりスペイン領モロッコとして占領されたが、1956年、モロッコ独立により、モロッコの都市となる。

この都市の名の由来は、ヤギの2つの「つの」のように見えるという街から見える2つの山の頂きによる。

シャウエンでは、ウールの衣服、毛織物など、モロッコの他の場所で手に入れることのできない現地の手工芸品が数多く売られている。
当地原産のヤギのチーズも観光客には人気がある。

大垣市、守屋多々志美術館

岐阜県大垣市出身の日本画家、守屋多々志 (1912年(大正元年)8月10日 – 2003年(平成15年)12月22日)。

日本美術院において、昭和から平成にかけて活躍し、戦争従軍時、イタリア留学時を除いてほぼ毎年の出品。

作風は歴史と古典への深い教養に根ざした「歴史画」で、武者絵を中心に背景に金泥を使うなど豪壮な作品も見受けられる。

イタリア留学以前は日本古来の大和絵を意識した構成、筆遣いで描き、留学後しばらくは洋画を意識した重厚なマチエールで描き、以後も絵具を厚塗りした作品を多く描く。

名古屋広小路通りの今昔

名古屋のメインストリートとも言える広小路、その名称は、1660年(万治3年)の「万治の大火」を教訓にして、道幅を3間(約5m)から約15間(約27m)に広げた事から付いたという。

今の道幅はこの頃から変わっていないようだ。当時は見世物小屋や茶屋が並び、大道芸人も出て大変賑わった事がうかがい知れる。

「広ぶらHISTORY」という広小路の歴史が書かれた案内板が設けられている。
かつては市電が走り、歩行者で混雑した広小路も、今では地下鉄や地下街の整備により歩行者も減少した。

道路の中央分離帯の照明塔は、昭和40年代に設置され、通称「ねぎぼうず」と呼ばれる。かつては広小路全体に設置されていたが、現在はその一部がシンボルとして残され、照明はLED化されている。

栄交差点から約300m程歩いた所にある「朝日神社」は、1611年(慶長16年)、
清州城から名古屋城に城下町ごと移転した「清州越し」の際に朝日村から移転されてきた。以来、広小路神明宮として親しまれ、広小路に面して立つ透垣は、向かい側にあった尾張藩牢屋の「不浄除け」として建てられたと言われる。

2009年まで三菱東京UFJ銀行貨幣資料館として利用されていた鉄骨鉄筋コンクリート造・5階建のビルは、1926年(大正15年)に建てられた名古屋銀行本店(東海銀行の前身の一つである、現在の名古屋銀行(旧・名古屋相互銀行)とは別会社)であるが、名古屋市都市景観重要建築物に指定されている。

伏見交差点の東、三井住友銀行伏見支店は1935年(昭和10年)に三井銀行名古屋支店として建てられた新古典主義の銀行建築で、花崗岩でできた外観は荘厳な感じがする。都市景観重要建築物に指定されている。

道路を隔て西側には、現在、経営上の問題から建て替え中の「御園座」がある。1896年(明治28年)に設立された名古屋劇場株式会社の劇場で「芸どころ名古屋」の象徴的存在と言える。
「御園」の名前は古く、1611年(慶長16年)の「清州越し」の際、清洲城下の「御簾野町」が移転した後に、初代藩主・徳川義直公の命により表記を改めたと伝えられる。

エジプト、聖カタリナ修道院

聖カタリナ修道院(Saint Catherine’s Monastery)は、エジプト、シナイ山の麓にある峡谷の河口に位置し、現在も継続して機能するキリスト教正教会の世界最古の修道院である。

6世紀の蝋画法による聖ペトロのイコンを収蔵し、ユネスコの世界遺産に登録されている。

800年ごろは、エジプトはムスリムの国であったが、修道院が所有するムハンマド本人により署名されたものとされる文書によると・・・
修道院がある種の政治的亡命施設として容認されるようになった後にムハンマドが敵から身を守るためこの修道院に身を隠し、修道院領内にファーティマ朝のモスクが立てられた。

こうした理由もあり、修道院は長年に渡り、一帯のイスラム教支配下でも生き延びることができた。しかしこのモスクは、正しくメッカの方角を向いていないため現在では使用されていない。

栗林公園 (香川県高松市)

香川県営の都市公園、栗林公園は、国の特別名勝にも指定される歴史公園、回遊式大名庭園である。

2009年3月16日発売の『ミシュラン観光ガイド』で、「わざわざ訪れる価値のある場所」として最高評価3つ星に選定された。

ソメイヨシノを中心に約330本の桜があり、県下屈指の花見どころでもあり「桜と松」の調和が美しいことでも有名である。

桜の種類も多く、ソメイヨシノ、ヒガンザクラ、ヤマザクラや、春と秋の2回花をつける十月桜などがある。

栗林公園は、16世紀後半、元亀天正の頃、当地の豪族佐藤氏によって築庭されたのに始まる。

寛永年間、1625年頃に、当時の讃岐国領主・生駒高俊公によって南湖一帯が造園され、現在の公園の原型が形作られた。

その後、生駒氏の転封に伴い入封した初代高松藩主・松平頼重公(水戸光圀公の兄君)に引き継がれ、さらに100年以上経た延享2年(1745年)、5代頼恭公の時に、園内六十景命名をもって完成。

以来歴代藩主が修築を重ね、明治維新に至るまでの228年間、松平家11代の下屋敷として使用された。

明治4年、1871年に高松藩が廃せられ、新政府の所有となり、明治6年1月公布された「公園に関する太政官布告」に基づき、明治8年(1875年)3月16日に県立公園として一般に公開されるようになる。

昭和28年3月には、文化財保護法による「特別名勝」に指定され今日に至る。