ヴェネツィア、ため息橋(溜息の橋, Ponte dei Sospiri )

16世紀に架けられたヴェネツィアの橋の1つ。

白の大理石で造られ、橋の下の水路はゴンドラでヴェネツィアを観光する時の定番のコースである。

この橋は覆いがあり格子の付いた窓が付けられ、Rio di Palazzoを渡りドゥカーレ宮殿の尋問室と古い牢獄を結ぶ。

ため息橋という名前は、独房に入れられる前の囚人が、窓の外からヴェネツィアの美しい景色を見られるのはこれで最後であると、ため息をつくというところから、19世紀にジョージ・バイロンが名づけたという。

ただ、実際には、厳しい取調べや略式の刑執行は、橋が建設された頃には無くなっていて宮殿の屋根の下の独房も専ら短期刑の囚人のものであった。

ヴェネツィアの観光名所ドゥカーレ宮殿のそばで海側のバリア(Ponte.Paglia)が、ため息橋を眺めるスポットとして有名で、牢獄も公開されている。
ドゥカーレ宮殿から、ため息橋を渡って外の景色を眺めることもできる。

地元の言い伝えによると、恋人同士がこの橋の下で日没時に、ゴンドラに乗ってキスをすると、永遠の愛が約束されるのだという。

Mauvais garcon・・・ヴェネツィアの橋

旧東海道、有松宿

有松の町並みは東のまつのね橋から西の祇園寺までで、殆ど直線的であるが大きく緩く蛇行する。約800mの旧東海道に沿う商家町でどれも平入りで大きく重厚。 東海道53次の宿駅、池鯉鮒宿(知立)と鳴海宿の間は僅かに12kmだが、松林が茂り、人家もなく、追い剥ぎ、強盗などが出たため、尾張藩は旅人の安全を図るため、「間の宿」として造った。

慶長13年(1608)に免税の特権をつけ移住者を募り、最初の移住者は知多郡阿久比村からきた竹田庄九郎以下8人で有松は誕生する。 名古屋城の築城に豊後国から来ていた人たちが着用していた絞り染めの着物をヒントに竹田庄九郎は絞りの技法を研究する。 豊後高田藩主の侍医三浦玄忠の妻により豊後絞りの技法が伝授されて、今に伝わる三浦絞り(有松絞り)となる。

尾張藩の保護のもと元禄年間(1688~1704)以降絞り業はめざましく発展し藩の特産品として東海道を代表する名物となり、東海道を行き来する人々に売り込んだ。格子前の広い空間が、店頭販売で栄えた面影を残している。 十辺舎一九の東海道中膝栗毛の中では、やじさん、きたさんが有松で買い物をしたと書かれ、語り継がれている。 正式な宿場ではない有松は、旅人の停留する所ではないので、東海道五十三次の一つであった鳴海宿においても販売が行われ、江戸では専ら「鳴海絞り」と呼ばれていた。

天明4年(1784)の大火で、殆ど全戸が焼失する。これを機会に防火建築が取り入れられ、屋根を茅葺きから瓦葺に、塗り込め造りのナマコ壁とした。 この結果、豪壮な商家が建ち並ぶ町並みが形成された。

Raindrops keep fallin on myhead・・・東海道、有松宿

岐阜歴史公園、金華山

岐阜市にある金華山、旧名稲葉山は標高329m。 地質的には古生代のペルム紀から中生代の三畳紀に堆積したチャートで形成され、非常に固い。 岐阜市は標高10m程度の平野だが、そびえ立つ山となって残ったと考えられている。

金華山山麓にある都市公園の岐阜公園には、岐阜城・金華山、金華山ロープウェー、岐阜市歴史博物館、加藤栄三・東一記念美術館、名和昆虫博物館、円空美術館があり、2006年に「日本の歴史公園100選」に選ばれている。

岐阜事件 1882年(明治15年)4月6日に岐阜で、自由党党首板垣退助が暴漢、相原尚褧に襲われた。「板垣死すとも自由は死せず」の由来となった事件として知られる。

織田信長は、斎藤龍興から奪取した稲葉山城の縄張りを破却し、新たに岐阜城を造営した。城跡は岐阜城跡として国の史跡に指定されている。

『信長公記』に、「尾張国小真木山より濃州稲葉山へ御越しなり。井口と申すを今度改めて、岐阜と名付けさせられ」と記載されている。

金華山の登山道

  • 七曲り:家族向き、金華山ドライブウエー入口から登りはじめ、距離は約1500m。
  • 百曲り:健脚者向け、距離は約1100m。
  • 馬の背:健脚者向け、距離は約1000m。途中四つん這いになって登らなくてはならないところがあり、下りは危険を伴う。
  • めい想の小径:眼下に長良川を、北方には北アルプス・御嶽山を眺めながらの登山。距離は約2300m。
  • 東坂:健脚者向け、距離は約1000m。
  • 達目洞:距離は800m、道は広くない。
  • 鼻高:健脚者向け、距離は約1500m。

Prelude en de J.S.bach・・・岐阜歴史公園、金華山登山(めい想の小径),天守閣からの眺望、金華山ロープウェイ、柳ヶ瀬

旧東海道、御油 赤坂宿

付近の案内図

「姫街道」の案内標識があります。

「姫街道」の正式名は「本坂通」で、東の見付宿から西の御油追分まで、浜名湖の北側を通るルートで、古代は官道でもあった。

延暦20年(801)には、征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷征服のために浜名湖北側を通った記述もあるという。

また、延元4年(1339)に足利尊氏、天正元年(1573)には武田信玄が、徳川家康も遠州攻略の為の軍勢が通過している。

三代将軍徳川家光も2度通っていて、東海道の「脇往還」と言われているが、この「姫街道」は「脇街道」ではなく、海路の「七里の渡」に対する陸路の「佐屋路」と同様に、東海道の付属街道と考察される。

江戸時代、主街道の管理・支配は幕府、道中奉行、勘定奉行が行い、 「姫街道」は五街道と同じく、道中奉行が管理していた重要な道。

御油宿は東海道五十三次の35番目の宿場町で、本陣4、旅篭62、本陣が4軒もあり、東海道の宿場のなかでも大きな宿場であった。

御油の松並木は、慶長9年(1604)、徳川家康が植樹させたもので御油宿と赤坂宿の間の600mに現存する。

松の本数は当初推定650本であったが、次第に減少し今では百数十本まで落ち込んだ。

松並木の保護育成が行われ、「日本の名松百選」にも選ばれている。

昭和19年(1944)11月7日、国指定の天然記念物となる。

大橋屋は赤坂宿の佇まいを今に伝える老舗、創業江戸中期とされる宿。

安藤広重の「東海道五十三次・赤坂宿舎招婦図」のモデル。

芭蕉が宿泊し、句を読んだともいわれている。

元の屋号は「伊右ェ門鯉屋」、市指定文化財となっている。

平成27年3月1日より宿泊できなくなる予定。

夏の月 御油より出でて 赤坂や

延宝4年作、芭蕉33歳。

Sans toi m’amie・・・旧東海道、御油 赤坂宿

国営木曽三川公園 中央水郷地区(中流)

国営木曽三川公園は、木曽三川下流域一帯、愛知県・岐阜県・三重県にわたる、日本最大の国営公園。佐屋から西方に4キロほどに、1987年10月に開設された国営木曽三川公園の木曽三川公園センターがある。

三派川地区(上流)
138タワーパーク(三派川地区センター・愛知県一宮市)
ツインアーチ138(有料)
かさだ広場・各務原アウドドアフィールド(岐阜県各務原市)
芝生広場、野草広場、ネット広場
河川環境楽園(岐阜県各務原市)
木曽川水園・自然発見館
岐阜県営公園 世界淡水魚園(オアシスパーク)
フラワーパーク江南(江南花卉園芸公園)(愛知県江南市)

中央水郷地区(中流)
ワイルドネイチャープラザ(愛知県稲沢市)
長良川サービスセンター(岐阜県海津市)
アクアワールド水郷パークセンター(岐阜県海津市)
木曽三川公園センター(岐阜県海津市)
水と緑の館(有料、ジオラマ小劇場、特別展示室、展望タワー)
花壇
水屋(輪中の農家)
東海広場(愛知県愛西市)
船頭平河川公園(船頭平閘門一帯・愛知県愛西市)
カルチャービレッジ(三重県桑名市長島町)
輪中ドーム
輪中の郷
桜提サブセンター(仮称)(岐阜県羽島市)

河口地区(下流)
(施設は未設置)

太古の地形

長島から大垣市や岐阜市まで、自然の坂道のない、平らな地面が広がっている。大昔、濃尾平野の西南部は伊勢湾が入り込んでいた海だった。

浅い海に土や砂が運ばれて山沿いに平らな土地が広がり、川の中州や海の中に島のようなものができた。

木曽三川下流に住む人が、堤防を守ったり、水の管理をするための輪中。
100年以上前には80以上の輪中があったという。
田畑を守るために堤防を作りまわりの地面よりも高く安全な堤防の上に家を建て、堤防以外の土地はほとんどが田になる。
今も輪中地域の家のほとんどは、昔堤防だった高いところに列状に並ぶ。

輪中がいつ作られたかについては、千年以上も前という説、七百年ほど前という説、四百年ほど前という説などある。
長島では四百年ほどの前の地図が残っているので、少なくともそれよりも前には輪中が作られていたことが分かる。

太陽がいっぱい・・・国営木曽三川公園 中央水郷地区(中流)

水の都、大垣

大垣城は、1500年(明応9年)に竹腰尚綱によって揖斐川(牛屋川)東河岸にあった牛屋に築かれたと伝わり、当時は、牛屋城と呼ばれていたとされる。

織田氏、斎藤氏、織田氏と支配権が移り、1588年(天正16年)、若しくは 1596年(慶長元年)頃、改築が行われ天守が築かれたとされる。

1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いの際には、当時城主であった伊藤盛宗は西軍に属したため、石田三成らが入城して西軍の根拠地となる。

関ヶ原の本戦で西軍が敗北すると東軍に攻囲され落城し、そのときの逸話が『おあむ物語』として残っている。

江戸時代に入り、譜代大名として石川康通が城主となり、その後1635年(寛永12年)に戸田氏鉄が城主となって以降、明治に至るまで大垣藩、戸田氏の居城となる。

明治29年(1896年)7月21日の洪水で、木曽三川沿岸で堤防破堤が生じなかったのは、加納輪中・森部輪中・牧輪中の三輪中のみで、最大の湛水深さは14尺(4.2m)に及び、大垣城天守の石垣も水没した。

おくの細道むすびの地

芭蕉は元禄2年9月6日、大垣で「おくの細道」を結ぶ。
木因亭前で乗船、如行始め大垣俳人に送られ「蛤のふたみに別れ行く秋ぞ」の句をのこした。

元禄7年10月、「病中吟」と称して、「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」

この句が事実上最後の俳諧となる。

夜ごとの夢・・・水の都、大垣

ポンペイ「秘儀荘」(Villa dei Misteri)

ポンペイが位置するカンパーニア地方の中心ネアポリス(ナポリ)はギリシア人が建設した植民都市として発展し、前3世紀に都市国家ローマに征服されるもカンパーニアはギリシア文化が根強く残っていた。

ポンペイ遺跡域外の西の外れ、海岸に面した場所に建つ邸宅で前2世紀ごろまでは簡素な家屋だった。

紀元62年の地震のあと農業会社の所有となり、小作人の部屋・農具置き場・ブドウを絞る部屋・家の守護神の祭壇、パンを焼くかまど、そして、ディオニュソスの秘儀の壁画の部屋(秘儀の間)がある。ポンペイの壁画のなかでは最も保存状態が良い。

紀元前一世紀半ばの作の壁画は、食堂の正面、左右の壁には当時このあたりに流行し、後にイタリア全土に広まったディオニュソス信仰にかかわる秘密の儀式の様子が高さ3M・長さ17Mの装飾帯として描かれる。

ディオニュソスはバッカスと呼ばれる酒の神である。“ディオニュソスの秘儀”は女性の信者を中心とした集団陶酔で、日ごろのストレスやもやもやを解消するため、ディオニュソスの神を讃え、酒を飲み、過激に踊り狂い、獣を八つ裂きにしたりする。

憑きから覚めるとまた、何もなかったかのように普通の女にもどる。

ローマの元老院は「ディオニュソスの秘儀」を禁止していたが、ローマの目がとどきにくい南イタリアを中心にディオニュソス信仰は定着していた。

前1世紀ごろ秘儀荘の女主人はカンパーニアの画家に居間の壁画としてディオニュソスの秘儀を描かせた。

ディオニュソス Dionysos

ギリシア神話の神であるが、ギリシア伝統の神ではなく、トラキア地方からギリシアに前1200年ころに入ってきた神で豊穣神、特にぶどう酒の神。

ギリシア神話にはディオニュソスについて次のようにある。

主神ゼウスとテーバイ王カドモスの姪セメレとの子。
ゼウスの妻ヘラは夫の浮気相手のセメレを大変に憎み、彼女をだましてゼウスの雷に打たれて死ぬように仕向けた。
このため、まだ胎児だったディオニュソスは、ゼウスの腿の中に埋め込まれ、月満ちるまで匿われた。
ゼウスは生まれたディオニュソスをニンフとシレノスに養育させるように、ヘルメスに命じた。
シレノスは牧羊神パンの息子で太鼓腹の背の低い森の神。
大変に賢くディオニュソスにぶどうの栽培を教えた。
ディオニュソスとシレノスは、地中海沿岸を旅し、人々にぶどうの栽培を教えた。
二人の後には、酔い、踊る人々がついてまわった。
彼らはディオニュソスの信者たちである。
信者の中には、サテュロスやマイナスたちがいた。
各地で民衆の支持を得たが、ギリシア本土では彼の神性を認めない人々もいるで、その人々を狂わせたり 動物に変えるなどの力を示したので、やがて神として畏怖される存在となった。
ナクソス島でアリアドネを妻とし、母を冥界から連れ戻して天上に住まわせた。
ギリシア・アテネの全盛期(前5世紀)にはディオニュソスの祭りである、演劇コンクールが盛んだった。
オリンポスの十二神には入っていない。

パッヘルベルのカノン 〜 ポンペイ「秘儀荘」(Villa dei Misteri)

桑名城址、九華公園

熱田・宮の渡しを出て海路を七里、東海道の42番目の宿場町、桑名宿に着く。桑名市街の東端で、揖斐川に臨む水城は交通の要所であった。

この大鳥居は、これより伊勢路に入ることから、「伊勢国一の鳥居」と称され周辺の街並みは今も港宿場街の面影を残す。

歌川広重の東海道五十三次「桑名」には、往時の城が描かれているが、城跡には現存する建造物はなく石垣、堀が残るのみで、現在は桑名城址九華公園として整備されている。

かつて戦国時代の桑名の地には土豪が蟠踞し、伊藤武左衛門の東城、樋口内蔵の西城、矢部右馬允の三崎城と、桑名三城と呼ばれる城があった。現在の桑名城址九華公園は東城があった辺りとされる。

桑名城の略史

天正2年(1574年)、織田信長がこの地を征し、武将の滝川一益が三城を配下に置く。
豊臣秀吉の時代は、神戸信孝、天野景俊、服部一正、一柳直盛、氏家貞和、松平家乗と、支配者は目まぐるしく入れ替わる。

慶長6年(1601年)、徳川家康により、徳川四天王の一人本多忠勝が桑名10万石に封じられ、忠勝は揖斐川沿いに城郭を建造し船着場も整備した。4重6階の天守、51基の櫓、46基の多聞が立ち並んだという。

元和3年(1617年)、松平定勝が入城する。
元禄14年(1701年)、松平定重の時代には桑名市街地の過半を焼く大火。
これにより天守を焼失する。
宝永7年(1710年)、松平(奥平)忠雅が入城し7代続く。
文政6年(1823年)松平(久松)定永が入城し久松家の再入城となる。

幕末には、松平容保の実弟、松平定敬が藩主となり、兄と共に京都の治安を預かるが、慶応4年(1868年)鳥羽・伏見の戦いに敗れた旧幕府軍と共に、定敬も江戸に向かった。

かくして、藩主不在の桑名城では、抗戦か恭順か激論となるが、結局は無血開城する。政府軍はこの際に桑名城を全て焼き払い開城の証とした。

ひき潮・・・桑名城址、九華公園

泉龍山 桃巌寺 ( 東山辯天 )

天文年間(1532年 – 1554年)に創建され、恵心僧都作とされる聖観世音菩薩像を本尊とし山号は泉龍山、曹洞宗の寺院。

開基は織田信秀、開山は龍泉寺輪住二十世、慈眼寺三世住職などを務めた快翁玄俊とされる。
桃巌寺の寺号は信秀の法名「桃巌道見大禅定門」による。

織田信長の同母弟にあたる、末森城主であった織田信行が、父・信秀の菩提を弔うため、城の南に位置する末森村二本松(千種区穂波町付近)に建立し、後に現在地に移されたとされる。

信秀が所有していたと伝わる辯天画像、琵琶湖の北部に浮かぶ島竹生島から勧請した十五童子像、日本一とも言われる直径1メートルの木魚などが安置され、ねむり辨天 裸辯天は1月1日 – 5日と、5月7・8日に御開帳が行なわれる。

坐高10メートル、台座も含めると15メートルの名古屋大仏は昭和62年(1987年)の建立。

信秀廟所は、昭和26年(1951年)、信秀没後400年にあたって桃巌寺境内に移された。
かつては、城山八幡宮の西南に位置する揚輝荘の敷地南端に面した一角、桃巖寺領であった場所に信秀の墓石と三基の五輪塔があった。
墓石は信秀250回忌の寛政13年(1801年)に再建され、信秀と信行に加えて柴田勝家の名も記される。

 
サバの女王・・・泉龍山 桃巌寺 ( 東山辯天 )

尾張徳川家菩提寺、建中寺

名古屋市東区にある浄土宗の寺院で、代々の尾張藩主の廟が置かれた。

1651年(慶安4年) 、第2代尾張藩主徳川光友により、父である初代藩主、徳川義直の菩提を弔うために建立された。

創建当時の、四万八千坪(158,400m²)の境内は、1785年(天明5年)の大火災で多数の建物が焼失した。

翌1786年(天明6年)から1787年(天明7年)にかけて再建される。

現在、境内の規模は創建当時よりも小さくなっている。

総門など9棟1基(市指定有形文化財)
徳川家霊廟(県指定有形文化財)
徳興院(国の登録有形文化財)

Andante maggiore :Vivaldi・・・建中寺