マニエリスム

ミケランジェロに代表される盛期ルネサンス時代に、芸術は頂点を極め今や完成されたと考えられた。ミケランジェロの弟子ヴァザーリは、ミケランジェロの「手法(マニエラ maniera)」を高度の芸術的手法と考え、マニエラを知らない過去の作家より優れていると説いた。

ヴァザーリは普遍的な美の存在を前提とし、「最も美しいものを繋ぎ合わせて可能な限りの美を備えた一つの人体を作る様式」として、「美しい様式(ベルラ・マニエラ)」と定義づけた。1520年頃から中部イタリアでは、巨匠たちの様式の模倣が目的である芸術が出現し「マニエラ」は芸術作品の主題となる。

その結果、盛期ルネサンス様式の再解釈が行われ、盛期ルネサンス様式は極端な強調、歪曲が行われるようになった。一方で、古典主義には入れられなかった不合理な諸原理を表現する傾向も表れるようになる。

16世紀中頃からのマニエリスム期にはミケランジェロの「マニエラ」を変形させて用いた作品が特徴的 となる。20世紀になって、マニエリスムも独立した表現形態であり、抽象的な表現に見るべきものがある、と再評価されるようになる。1956年にオランダのアムステルダムで催された『ヨーロッパ・マニエリスムの勝利』である。

ルネサンス期のイタリア絵画

ルネサンスは、黎明期(1300年 – 1400年)、初期(1400年 – 1475年)、盛期(1475年 – 1525年)、後期のマニエリスム期(1525年 – 1600年)に大別できる。

イタリアでのルネサンス絵画の黎明期はジョット(1267年頃 – 1337年)に始まる。ジョルジョ・ヴァザーリの著書『画家・彫刻家・建築家列伝』によると、フィレンツェ北部出身の羊飼いの少年で、チマブーエに弟子入りし、それまでの伝統的絵画表現の因習にとらわれず、写実的な作品を描き、当時主流のビザンティン絵画とは異なり三次元的に描写した。

描く人物の表情には、喜び、怒り、失望、恥じらい、悪意、愛などが表現、描写されて当時の他の画家の作品とは異なる。盛期ルネサンスでは著名な画家は特定の宮廷、都市と強く結びつくこともあったが、多くの画家はイタリア中を訪れ外交特使の役目を担い芸術と哲学の伝播に重要な役割を果たす。メディチ家による銀行の創設により、貿易の隆盛でフィレンツェに莫大な富をもたらすことになる。

それまで芸術家の重要なパトロンは教会や君主だったが、メディチ家当主コジモ・デ・メディチが新たな芸術パトロン像を確立する。

メディチ家の他には、サセッティ家、ルッチェライ家、トルナブオーニ家など、メディチ家と関係の深い一族が知られる。

マニエリスム期の重要な画家としては、アンドレア・デル・サルト、ポントルモ、ティントレットらである。

ルネサンス期に描かれた絵画作品は、ローマ・カトリック教会からの依頼で制作されたものが多い。

他にも、ルネサンス全期を通し、都市国家からの絵画制作依頼も重要で、公的な建造物の内装はフレスコ画などの美術品で装飾された。

当時の風俗、暮らしぶりを描いた絵画作品もあり、何らかの寓意を意味する作品や、純粋に装飾用に描かれた作品などがある。

松江城

宍道湖北側湖畔の亀田山に築かれ、日本三大湖城の一つで、別名は千鳥城と言われ、城の周りを囲む堀川は宍道湖とつながり、薄い塩水(汽水域)となっている。軍学者の小瀬甫庵らが設計に携わり南に流れる京橋川を外堀とした、輪郭連郭複合式平山城で、本丸を中心に据え、東に中郭、北に北出丸、西に後郭、東から南にかけ外郭、西から南にかけ二の丸が囲む構造である。軟弱地盤の上に建てられたため、建築から数十年ほどで傾きだしたと言われる。現存天守は国宝に、城跡は国の史跡、日本さくら名所100選、都市景観100選にも選ばれている。

人柱伝説
小泉八雲の作品では、人柱にされた娘として描かれる。天守台の石垣を築くことができず、何度も崩れ落ちた。人柱がなければ工事は完成しないと、工夫らの間から出た。そこで、盆踊りを開催し、その中で最も美しく、もっとも踊りの上手な少女が生け贄にされた。娘は踊りの最中にさらわれ、事情もわからず埋め殺されたという。石垣は見事にでき上がり城も無事落成したが、城主の父子が急死し改易となった。人々は娘の無念のたたりであると恐れたため、天守は荒れて放置された。その後、松平氏の入城まで天守からはすすり泣きが聞こえたという城の伝説が残る。また、城が揺れるとの言い伝えで城下では盆踊りをしなかった。

松江城略史
鎌倉時代から戦国時代かけて末次城(末次の土居)が置かれた

1600年(慶長5年)
関ヶ原の戦いで戦功のあった堀尾忠氏(堀尾吉晴の子)が、24万石を得て月山富田城に入城し松江藩が成立

1607年(慶長12年)
末次城のあった亀田山に築城を開始

1611年(慶長16年)
松江城が落成

1633年(寛永10年)
堀尾忠晴没、嗣子なく堀尾氏は3代で改易

1634年(寛永11年)
京極忠高が若狭国小浜藩より出雲・隠岐両国26万石で入封し、三の丸を造営し松江城の全容が完成

1637年(寛永14年)
忠高が嗣子なく没し京極氏は一時廃絶

1638年(寛永15年)
信濃国松本藩より松平直政が18万6千石で入封、以後、明治維新まで続く。

1871年(明治4年)
廃藩置県により廃城となる

1873年(明治6年)
出雲郡の豪農の勝部本右衛門や元藩士の高木権八により、城は買い戻され保存される

1934年(昭和9年)
国の史跡に指定

1935年(昭和10年)
天守が当時の国宝保存法に基づく国宝(旧国宝。現行法の重要文化財に相当)に指定

1950年(昭和25年)
文化財保護法の施行に伴い天守は重要文化財に指定

1950年(昭和25年)
天守の解体修理が行われる

1960年(昭和35年)
本丸一ノ門と南多聞の一部を復元

1992年(平成4年)
都市景観100選に選ばれる

1994年(平成6年)
三の丸と二の丸を結ぶ廊下門(千鳥橋)と二の丸下段の北惣門橋(旧眼鏡橋)を復元

2000年(平成12年)
二の丸南櫓と塀(40m)を復元

2001年(平成13年)
二の丸に中櫓・太鼓櫓と塀(87m)を復元

2006年(平成18年)
日本100名城(64番)に選定される

2007年(平成19年)4月~2011年(平成23年)12月
「松江開府400年祭」が行われた

2015年(平成27年)7月8日
天守が国宝に指定
国内の城跡で天守が国宝に指定されるのは63年ぶり5件目

レオノーラ・キャリントン

女流シュールレアリスム画家、Leonora Carrington(1917/4/6-2011/5/25) はイギリス、ランカシャーのクレイトン・グリーン生まれであるが、メキシコに移住し画家としての人生の大半をメキシコで過ごしたためメキシコ人画家に分類されることがある。

架空の動物のモチーフ、古いケルト神話と民話、魔女伝説やユダヤの神秘主義、魔術等の世界観で綴られる特異で幻想的なイメージを表現する作風で知られる。幻想的な短編小説を発表し、幻想文学の分野でも国際的な評価を得ている。

小説
『恐怖の館―世にも不思議な物語』 野中雅代(訳) 工作舎 (1997/09)
『耳ラッパ―幻の聖杯物語』 野中雅代(訳) 工作舎 (2003/07)

姫路城西御屋敷跡庭園「好古園」

姫路公園(姫路城)内にある日本庭園で、正式名は姫路城西御屋敷跡庭園、江戸時代に現在の庭園入口付近に存在した藩校「好古堂」に因み好古園と呼ばれる。古地図『姫路侍屋敷図』を基にした姫路城西御屋敷跡発掘調査により確認された西御屋敷(1618年〈元和4年〉造営)・武家屋敷等の遺構をそのまま生かして作庭された総面積3.5ヘクタールの池泉回遊式庭園群である。庭園設計は中村一、運営管理は姫路市で、姫路市制100周年にあたる1992年(平成2年)4月29日に開園。

9つの日本庭園で構成され、其々が屋敷割遺構どおり築地塀等で仕切られている。各庭園入口には長屋門・屋敷門、園内には渡り廊下など江戸時代の建築が再現されている。水戸黄門、暴れん坊将軍、大岡越前、るろうに剣心など、時代劇や大河ドラマの撮影地でもある。本園最大の池泉回遊式庭園は姫山原生林を借景とし、250匹の錦鯉が生息する大池は瀬戸内海の風景を表すとされる。

しなの鉄道株式会社、観光列車「ろくもん」

長野県上田市に本社を置くしなの鉄道株式会社は、県内で北陸新幹線の並行在来線を経営する第三セクター鉄道事業者である。北陸新幹線高崎駅 – 長野駅間の先行開業に際して、東日本旅客鉄道(JR東日本)から並行在来線として経営移管されることとなった、信越本線の軽井沢駅 – 篠ノ井駅間を経営する会社として設立され、同区間は1997年(平成9年)10月1日、新幹線開業と同時にしなの鉄道に移管され、しなの鉄道線として開業した。全線でワンマン運転のため、「ろくもん」を除く全ての編成に、ドア開閉や自動放送等を運転士が操作するための対応設備が搭載される。2013年3月16日のダイヤ改正実施時から2両編成の運用が開始され、3両編成のうち1本は、観光列車「ろくもん」として編成される。2015年(平成27年)3月14日時点で保有している車両は、JR東日本から譲り受けた国鉄形電車の115系のみで、3両編成15本、2両編成7本の、計59両22本が配備される。

観光列車「ろくもん」

しなの鉄道は輸送人員の減少傾向や施設・設備の更新費用の増加
経営基盤の強化などが課題となっていた。

2013年(平成25年)8月、新たな営業戦略の一環として観光列車「ろくもん」を導入し、2014年(平成26年)夏から運行開始する。

列車の愛称は沿線地域ゆかりの真田氏の「六文銭(六連銭)」に因む「ろくもん」とされる。

「ろくもん」は115系電車3両編成を改造した観光列車で、編成は軽井沢方から1号車(クモハ115-1529)・2号車(モハ114-1052)・3号車(クハ115-1021)。

内外装のデザインは、JR九州の800系新幹線や豪華寝台列車『ななつ星 in 九州』などを手がけたことで知られるデザイナーの水戸岡鋭治氏が担当した。

車体は真田幸村の武具をイメージしたという濃い赤に塗られ、内装にはカラマツやヒノキなど長野県産の木材が使用される。

1号車
ファミリーやグループ向けの車両で、中央に子供の遊び場(木のプール)を設置。

2号車
沿線地域の景観を楽しみながら食事ができるカウンター席とソファ席を配置しているほか、様々な交流や情報提供が可能となるサロンスペース、最低限の食事サービスを提供できるキッチンを設置。

3号車
2人組の旅客が個室的な空間の中で、食事を楽しむことができる車両となっている。

チャド共和国 絶景

スーダン、中央アフリカ、カメルーン、ナイジェリア、ニジェール、リビアと国境を接し、公用語はフランス語、アラビア語。首都はンジャメナで、1960年8月11日フランスより独立。国土面積は128万4千平方km²で、ペルーよりやや小さく、南アフリカより大きい、国の大部分をチャド盆地が占め、北部はサハラ砂漠、中部はサヘル、南部はサバナになる。

西部のチャド湖は7千年前に33万平方km²もあった巨大な湖の名残、現在は砂漠化により縮小しシャリ川やロゴーヌ川が南部からチャド湖に注ぐ。国の最高地点は北部のティベスティ山地にあるエミクーシ山(標高3445m)、Ennedi PlateauにあるオアシスのGuelta d’Archeiは、野生のラクダが集まることで知られている。熱帯前線が南から北へ移動するため、雨季はサバナで5月から10月、北部砂漠の年間降水量は50mm、南部サバナは900mmである。

住民は、スーダン系黒人が大半を占め200以上の部族に分かれ、大別すると、北部・中部のムスリム中心の部族と南部の非ムスリム中心の部族に分けられる。スーダンで人口の半数以上を占めるアラブ系部族はチャドでは少数派で、チャドでは非ムスリム部族の人口に占める割合が高い。

チャドで最も人口が多い民族であるサラ族は、伝統宗教やキリスト教の信者が大半で、人口は南部の非イスラム教徒多数派地域に集中する、そのため、国全体での割合から見ればイスラム教徒の比率はそれほど高くは無い。長年の内戦状態、道路網はほとんど未舗装で雨季には使用できなくなるというように、交通網の不整備により経済は不振。


チャド湖に繋がる河川は水上交通として利用されるが、近年の砂漠化の進行で、雨季の限られた期間しか船舶の通行ができない。チャド湖に流れ込む河川地域を中心にひろがる農業に依存し、主な農業生産物は綿花で、石油生産が始まるまでは輸出の70%程度を占めていた。南部を中心にウシやラクダによる牧畜も行われ、肉、皮も輸出されている。2003年に、南部ロゴン・オリエンタル州のドバ油田からカメルーンのクリビ港までのパイプライン1,070kmが完成し、日量10万バーレルの石油生産が始まった。現在、チャドの輸出の8割は原油でドバ油田から上がる収益は監視委員会によって管理される。アオゾウ地帯にウラン鉱脈が発見されたが開発は遅れている。

ボツワナ ・オカバンゴデルタ ほか

ボツワナは国土の17%は国立公園や動物保護区に指定され、20%が野生動物の管理地域に指定されているため、手付かずの自然の中で静かで質の高いサファリが楽しめる。20以上もの部族が居住していて、南アフリカ、ジンバブエ、ザンビア、アンゴラ、ナミビアなど周辺の国々から来た部族により文化の多様性がある。

土着民は狩猟民だが、伝統や言伝えにつちかわれた持続可能な環境計画を取り入れ厳格で伝統的な保護計画が採用されている。ダイアモンドをはじめとする鉱物資源が非常に豊かで、アフリカの中では有数の経済力を持つ国である。旅行者が支払う費用、宿泊代・食費などは他の国に比べると非常に高額なため旅行者の数は少なく、野生生物と自然資源の多様な種を維持している。

チョベ国立公園
ゾウが多いことで有名な公園で、そのほかクドゥやインパラなどの多種類のレイヨウ類、ライオンやヒョウなどの肉食獣も生息する。
サファリカーに乗ってのサファリの他、ボートに乗ってチョベ河サファリクルーズも楽しめる。

オカバンゴ・デルタ
世界一大きな内陸デルタで25000平方キロメートルにも及ぶ。オカヴァンゴ川がカラハリ砂漠に流れこむことで作られたこの三角州は季節によって面積が変わる。
周辺は砂漠で、満々と水を湛えた風景は奇跡とも言える。
このデルタは広大なオアシスでアフリカゾウ、カバ、サイなどの大型哺乳類など様々な動物が生息する。
2014年に世界自然遺産に登録される。

  • モレミ動物保護区
  • オカバンゴ・デルタの東端で陸と水の両方のサファリを楽しめる。

マカディカディ塩湖
数千年前に枯渇した湖から出来た世界最大の塩湖。
クブ島はマカディカディ塩湖に囲まれている花崗岩の島である。

ナイパン国立公園
ボツワナ東北部にあるアフリカ最大のシマウマの生息地。
12~4月の間には、無数のヌーなど動物、雨期にはフラミンゴなども見られる。

ツォディロ
砂漠のルーブルという別名を持つカラハリ砂漠にある岩絵群で、10キロ平方メートルという非常に限られた範囲に集中し、岩絵は4500以上にも及ぶ。
サン人によって描かれたとされているこれらの岩絵群は、2001年に世界文化遺産に登録される。

カラハリ砂漠
赤褐色の砂に覆われた大地は国土の70%を占める。
東部には中央カラハリ動物保護区がある。

セントラル・カラハリ動物保護区
宿泊施設も少なくワイルドそのもの地区で、ブラウンハイエナなど珍しい動物が生息する。寒暖が激しい地域である。

フランスの風景 「樹をめぐる物語」展

会期 2016年4月16日(土)~6月26日(日)
会場 東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館
新宿区西新宿1-26-1損保ジャパン日本興亜本社ビル42階
開館時間 午前10時-午後6時、金曜日は午後8時まで(入館は閉館30分前まで)

「樹木」は、古くには永遠の象徴とされ、いつの時代にあっても人に寄り添い四季の移ろいを伝え、時の流れを共に見続ける人間の伴侶として受けとめられてきた。西洋では伝統的に理想化された風景画がアトリエ内で制作されてきたが、19世紀中頃になるとバルビゾン派の画家たちは野外での観察によって農民や農村風景を写実的に描くようになる。

さらにその後、印象派の時代になると光の効果を求めて画家は戸外で描くことを 好むようになり、画家自身の眼がとらえた自然の一瞬の移ろいを表現することで自然と一体化した存在となり風景画の描かれ方も変遷して風景が絵画の主題として描かれるようになった。

画面一杯に木の枝々を描き、極端に単純化された構図で、キャンヴァスを筆触で埋め 尽くすような風景画が描かれるようになり、その後続く抽象画の素地を形成した。「樹木」というモチーフを通して、コローからモネ、ピサロ、マティスまで、19世紀から 20世紀に至る印象派とその前後の時代における


フランスの風景画の変遷を辿る。フランス、ポントワーズのピサロ美術館長、クリストフ・デュヴィヴィエ氏の監修のもと、フランスを中心にとする美術館及び個人所蔵作品から、油彩作品約80〜90点、デッサン及び版画作品 約10〜15点にて構成され、併せて、日本国内の関連する作品も出品される。

大坂夏の陣図屏風

慶長20年(1615年)に起きた大坂夏の陣の様子を描いた紙本金地著色・六曲一双の屏風絵で、大阪城天守閣所蔵、重要文化財。筑前福岡藩黒田家伝来で、『黒田屏風、黒田本』とも呼ばれ、戦国時代最後の戦いの激烈さと戦災の悲惨さを迫真の描写で描き出し、数ある日本の合戦図屏風の中でも白眉と呼ばれる。右隻には1615年6月3日(慶長20年5月7日)大坂夏の陣最後の戦いの様子、左隻には大坂落城間際、または後の大混乱する様を迫真的に描き出している。全体的な構図は大坂城を中心に、向かって右が南、左が北で、右から左へ合戦の推移が時系列順に展開する。左隻全面に、逃げようとする敗残兵や避難民と、略奪・誘拐・首狩りしようとする徳川方の兵士や野盗が描かれ、乱妨取りで、生々しい描写は他の合戦図屏風には見られず、「戦国のゲルニカ」とも評される。史料の少ない豊臣氏時代の姿を窺い知る貴重な絵画資料である。制作時期は、生々しい描写から陣後まもなくだと推測される。城の南、天王寺・岡山方面から攻める徳川主力。

これを迎え撃つ豊臣方が、今まさに総力をあげて激突する場面。画面ほぼ中央、四天王寺の石鳥居の右手を上下に結ぶ線が両軍の最前線。鳥居の下、茶臼山にいる赤備えの部隊が真田信繁隊これを前日家康から叱責を受けて雪辱に燃える松平忠直隊が迎え撃つ。

そのすぐ上では、先陣に踊りでた本多忠朝が先駆けした毛利勝永隊の一部と交戦し、更にその上の井伊直孝隊も毛利勢と槍を戦わせる

その上では岡山口の攻防に移り、大野治房隊と前田利常隊が銃撃戦をしている

総大将の徳川家康は第1扇目中央、徳川秀忠は同じく第1扇目上に、両者とも金扇の馬印と共に描かれている

一方第5扇目中央右、金瓢箪など豊臣家の馬印が並ぶ豊臣秀頼本陣に秀頼の姿は無い

大坂城大天守の右には千畳敷御殿が描かれ、その間にある謎の四層櫓は、家康がかつて作り関ヶ原の戦いがおこる原因の一つとなった西の丸天守を敢えて描き込んだと考えられる

大天守第3,4層の窓には、豊臣家の最期を悲しむ女達がおり、城の下には北へ避難しようとする群衆の姿が見られ、左隻の恐慌状態へと続く

福岡藩の故実によれば合戦に参加した黒田長政が、この戦いを記録するために筆頭家老の黒田一成、または家臣の竹森貞幸に命じて作成したものとされるが、長政は右隻第2扇目中央やや上に、余り目立たない形で描かれている。

異説として右隻第3扇目上部にこの戦いで討ち死にを遂げた本多忠朝が奮戦する様子を描いている事から本多家で作られそれが婚礼の輿入れ調度の一つとして黒田家にもたらされたとする説もあるが信憑性は薄い。

作者は各説があり定かではない、いずれにしても江戸時代前期から昭和中期まで黒田家の所蔵品だったが、1958年(昭和33年)黒田長礼氏が本屏風を大阪市に売却し、大阪城天守閣の所有となった。