西瀬戸自動車道(しまなみ海道)

西瀬戸自動車道
本州四国連絡道路の3ルートのうち、西に位置する尾道・今治ルートで、路線延長 59.4 km、開通年 1979年 – 2006年、起点 尾道市(西瀬戸尾道IC)、終点 今治市(今治IC)。

広島県尾道市の尾道福山自動車道(国道2号松永道路)西瀬戸尾道ICを起点とし、向島・因島・生口島・大三島・伯方島・大島などを経て愛媛県今治市の今治ICに至る、延長59.4 kmの高規格幹線道路(国道317号の自動車専用道路)である。略称は西瀬戸道だが、西瀬戸自動車道周辺地域振興協議会が公募した愛称である瀬戸内しまなみ海道または、単にしまなみ海道と呼ばれることが多い。

白線に沿って自転車道を示す青い舗装がされ、現在地から今治・尾道までの距離が表示されている。新尾道大橋を除き、尾道から来島海峡大橋までのルートには歩行者、自転車、原動機付自転車(125cc以下の自動二輪車を含む)の専用道路(広島県道466号向島因島瀬戸田自転車道線・愛媛県道325号今治大三島自転車道線)が併設されている。

本光寺 (三河のあじさい寺 : 愛知県幸田町)

山門に向かう参道の両脇や境内には合計約1万本のアジサイが植えられ、6月頃には多くの観光客で賑わうことから、別名、あじさい寺として知られる。1523年(大永3年)、深溝松平家の初代当主松平忠定によって開基された深溝松平家の菩提寺である。

希聲英音によって大洞山泉龍院の末寺として開山、転封により深溝松平家が島原藩に移ったのちも、歴代藩主の遺体は本光寺に運ばれて埋葬された。本尊は釈迦如来像、脇士の地蔵菩薩像と千手観音像は運慶作と伝わる(実際の作者は不明)。西廟所と東廟所に分かれ、西廟所には深溝松平家1〜5代と11代当主、東廟所には6〜10代、12〜19代当主の霊廟がある。

深溝松平家(ふこうずまつだいらけ)は、松平忠定を祖とする松平氏の分枝で十八松平の一つで、先祖を松平信光まで遡ると徳川家康と共通の祖となる家である。大永4年(1524年)、五井松平家2代・松平元心が松平宗家当主・松平長親の命により額田郡深溝城主・大場次郎左衛門を討ち獲る。


この元心の戦功を譲られた弟・松平忠定によって、深溝松平家は発足されたという。一方で、島原市の本光寺の記録によると、岩津家の松平親長の娘と婚姻してその所領を譲受し発祥させたというが、真偽のほどはわからない。

その後も深溝城主であり続け、2代・松平好景、3代・松平伊忠は徳川家康の岡崎城での独立期から善明堤の戦いなどで働きを示し続けた。4代・松平家忠は酒井忠次の指揮下に組み込まれ、「長篠の戦い」などで功を挙げた。天正8年(1590年)の徳川家の関東移封で、家忠は武蔵忍に1万石を与えられている。しかし慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの前哨戦であった「伏見城の戦い」において、守将・鳥居元忠の副将格として伏見城で籠城玉砕している。

3代・伊忠以来、主殿助(4代・家忠からは主殿頭)の通称を用いていたため、松平主殿家とも言われる。慶長6年(1601年)、関ヶ原での戦勝により家忠の子・松平忠利は、念願であった旧領復帰が叶い三河国深溝藩1万石の大名となった。

その後、慶長17年(1612年)3万石に加増された上で同吉田藩へ移った。松平忠房の代に三河国刈谷藩、丹波国福知山藩と転封を続け寛文8年(1668年)6万5,000石で、肥前国島原藩に入った。寛延2年(1747年)、戸田忠盈と入れ替わりで下野国宇都宮藩へ移封。安永3年(1774年)再び宇都宮藩と入れ替わりで島原藩に入り、以後定着して明治維新を迎える。維新後、子爵。

大江戸助六太鼓

東京初の組太鼓「助六太鼓」の発祥と大江戸助六太鼓、戦後復興期に夏の娯楽と言えば盆踊りであった。

東京・本郷で育った小林正道は、1956年、12歳で盆踊りの太鼓を打ち始める。
湯島天神第1回盆太鼓コンクール優勝者であった小林を始め、歴代入賞者が舞踊家・真田実氏の呼び掛けのもとに参集し、杵屋佐三造氏に師事し、相互練習・研摩の末、和太鼓に三味線音楽を取り入れた「新音太鼓」として発表。彼等は小林晟高を中心とする「大江戸助六会」のメンバーであり、暫時後に小輪瀬晋氏の元、東京初の和太鼓だけのアンサンブル (=組太鼓)「助六太鼓」として活動。湯島天神保存会助六太鼓グループとして奉納し、名を残す。東京都内はもとより全国各地・海外においても脚光を浴び、一世を風靡した。その後、助六太鼓保存会としての活動からさらなる舞台芸術としての発展を目指し、小林率いる「大江戸助六太鼓」となり現在に至る。

久屋大通公園

久屋大通は名古屋市中心部の栄を南北に貫く道路で、延長1738 m、平均幅員112.17 m、中央分離帯にある公園も含めた道路幅員において若宮大通(100 m)、札幌の大通公園(105 m)をしのぎ、日本一の広さがある。尾張徳川藩初代藩主である徳川義直が、末長く繁盛することを願って久屋町と命名したことが由来とされる。戦後、名古屋市の戦災復興土地区画整理事業の換地方式によって誕生した久屋大通は、久屋大通公園を挟んで東西に分かれて、それぞれ一方通行になっている。

南行起点:久屋橋交差点 – 終点:若宮大通久屋交差点
北行起点:若宮大通交差点 – 終点:久屋橋西交差点

通りに面して専門店や飲食店、緑地公園があるなど共通点が多いことから、1989年(平成元年)に、久屋大通発展会とフランス・パリ市のシャンゼリゼ委員会とあいだで友好提携がなされ、パリのシャンゼリゼ通りとの姉妹提携が結ばれた。これは、この数年前に東京・銀座がシャンゼリゼ委員会に姉妹提携を持ち掛けたものの断れられたという経緯を経ての提携であった。

これは、この数年前に東京・銀座がシャンゼリゼ委員会に姉妹提携を持ち掛けたものの断れられたという経緯を経ての提携であった。1986年(昭和61年)8月10日の道の日に、名古屋市を代表するシンボルロードとして、旧建設省と「道の日」実行委員会により制定された、「日本の道100選」のひとつに選定される。

年表
1964年(昭和39年)9月6日
復興土地区画整理事業に伴い、道路法に基づく道路として認定。

1970年(昭和45年)1月14日
中央緑地帯が、都市公園法に基づく公告により、都市公園区域に指定。

1986年(昭和61年)8月10日
「日本の道100選」に選定。

1989年(平成元年)
久屋大通発展会とパリのシャンゼリゼ委員会が姉妹提携締結。

有松絞りまつり 2017

有松絞りまつり ・絞り回廊~未来へつなぐタペストリー~

https://youtu.be/FSW0MSB587Q
・古戦場史跡探訪ツアー(13:00出発 各日先着60名 受付10:00~)
・ロボカップ2017名古屋世界大会プレイベント
・SHIBORI MIX+~絞りをいっしょに楽しもう~
10:00~17:00(受付終了15:00)
ハンカチ・手ぬぐい(500円・1,000円)
・町並みツアー&よもやま話(受付 10:00~15:00)
・絞り教室プレミアム[予約定員制]
午前の部 10:00~13:00/午後の部 13:30~16:30
スカーフ麻100%(5,000円)
・山車飾り・展示実演
東町・中町・西町(西町は展示のみ)10:00~16:00(随時開始)
東町・中町 順次1時間毎にからくり実演(雨天中止)
・中日写真協会撮影会 3日(土) 11:00~14:30
・マーチングパレード 3日(土)、4日(日) 9:30~

日本大正村 (岐阜県恵那市)

岐阜県恵那市にあるテーマパーク日本大正村は、旧恵那郡明智町の町おこしとして、沢田正春(文芸写真家)と観光協会により構想され立村された。開園は1988年(昭和63年)4月、管理運営は財団法人日本大正村である。特定の敷地内に設けられた施設ではなく、街全体(旧・明知町)として大正時代の雰囲気を保存・再現する。

店舗、資料館、博物館などが軒を連ね、郵便局や銀行は実際の窓口業務も行う。明知鉄道明知線明智駅の駅舎も大正村の一部とされている。初代村長は高峰三枝子、2代村長は司葉子が務め、2015年より三代目村長として竹下景子が務める。日本昭和村(岐阜県美濃加茂市)、明治村(愛知県犬山市)と直接の関係は無いが、3村で連携は行われている。

大正村役場 
明治39年に建てられた瓦葺の寄棟造り木造2階建ての建物。
昭和32年まで明知町の庁舎として使用されていた。
現在は無料休憩所を兼ねる大正村役場。
登録有形文化財。

日本大正村資料館
明治末期の木造百畳敷き、一部4階建ての建物。
銀行蔵で、農家から預かったり買い取ったりした繭を収納していた。
恵那市指定有形文化財。

逓信資料館 
旧郵便局の庁舎を利用した郵政・電信に関する資料館。
隣接して明智郵便局がある。

映画、青い山

原作、石坂洋次郎、監督、松林宗恵の東宝映画、青い山脈は、1957(昭和32)年恵那市と中津川市でロケーションが行われた。「青い山脈」は、過去5回も映画化されており、恵那でロケされた映画は、2度目のもの。

俳優は、現大正村村長の司葉子(島崎雪子役)や宝田明、雪村いづみ、久保明などが来市し、恵那高等学校や恵那峡、大井橋辺りの阿木川畔、中央通りなどでロケーションが行われた。多くの市民もエキストラや裏方のお手伝いとして映画づくりに参加し、その体験が主題歌の「青い山脈」とともに市民の心の拠り所になる。

神戸・神戸北野異人館街

俗説に、平清盛が福原京遷都の際に北野天満宮を勧進したともあるが、『西摂大観』によれば「小野」の北の傾斜地というのが地名の由来であるという。
宇治野、平野、夢野などと共に神戸七野の一つに数えられる。

北野天満神社の境内には行者塚と呼ばれた古墳があって山伏から信仰を集めた。明治22年(1889年)の市道工事で一部が破壊され、土器や鉄器が出土した記録がある。江戸時代には北野村と呼ばれる幕府領で、現在の北野町はその北端にすぎない。『神戸市史』によると農業の他、男は酒造稼ぎ、女は木綿稼ぎをするのが普通だったという。

明治20年代から大正初期にかけて建築された異人館が残る観光名所で、市は約32haを市都市景観条例に基づいて都市景観形成地域に指定する。
このうち9.3haが文化財保護法による重要伝統的建造物群保存地区、「北野町山本通」として指定される。

北野は中世以前より交通の要所として知られ、丁度古墳のあたりが峠で、三丁目には「北野の三本松」として知られた目印・憩いの場があった。
大正初に一本が切られ、昭和7年(1932年)の台風で二本目が倒れ、残る一本も昭和13年(1938年)に切り倒された。

葵祭 2017

2017年(平成29年)5月15日(月曜日)10:30から行われる。
葵祭2017の前儀・後儀(関連行事)は5月1日(月曜日)から21日(日曜日)頃まで行われる。

葵祭・路頭の儀(行列)は京都御所から出発し、下鴨神社に向かい、到着後に葵祭・社頭の儀を行う。


その後下鴨神社から出発し、上賀茂神社に向かい、到着後に葵祭・社頭の儀を行う。京都御所出発(10:30)→堺町御門→丸太町通(11:00頃)→河原町通→下鴨神社到着(11:40頃)下鴨神社出発(14:20)→下鴨本通→洛北高校前(14:40頃)→北大路通→北大路橋(14:55頃)→賀茂川堤→上賀茂神社到着(15:30頃)

【葵祭 歴史・概要】
葵祭は古墳時代後期の欽明天皇(540年~571年)の時代、京都をはじめ全国が風水害に見舞われて飢餓・疫病が流行し、賀茂大神(上賀茂神社・下鴨神社)の崇敬者・卜部伊吉若日子(うらべのいきわかひこ)に占わせられたところ賀茂大神の祟りであるとした為、4月吉日を選んで、馬に鈴を懸け、人は猪頭(いのがしら)を被り、駆競(くち・かけくらべ)して、盛大に祭りを行ったことが起源である。


葵祭とは俗称で、正式名称には賀茂祭(かもまつり)で、祭儀に関わる人や社殿の御簾(みす)・牛車に至るまで二葉葵を桂の小枝に挿し飾ることから葵祭と言われる。

【葵祭2017 行列】
葵祭の行列は勅使の本列と斎王代の斎王代列に大きく分類される。本列は乗尻(のりじり)・検非違使志(けびいしのさかん)・検非違使尉(けびいしのじょう)・山城使(やましろつかい)・御幣櫃(ごへいびつ)・内蔵寮史生(くらりょうのししょう)・馬寮使(めりょうつかい)・牛車(ぎっしゃ)・御馬(おうま)・和琴(わごん)・舞人(まいびど)・陪従(べいじゅう)・内蔵使(くらづかい)・勅使(ちょくし)・牽馬(ひきうま)・風流傘(ふりゅうがさ)・風流傘(ふりゅうがさ)などで構成される。本列の勅使が葵祭の本来の主役である。

斎王代列は命婦(みょうぶ)・女嬬(にょじゅ)・斎王代(さいおうだい)・騎女(むなのりおんな)・蔵人所陪従(くろうどどころべいじゅう)・牛車(ぎっしゃ)・命婦(みょうぶ)などで構成されている。
斎王代列の斎王代が葵祭の現在の主役である。
ちなみに斎王代は平安時代に賀茂社(上賀茂神社・下鴨神社)に仕え、葵祭に奉仕した斎王に倣い、1956年(昭和31年)に創設された斎王の代理である。葵祭2017の第62代・斎王代(2017)は同志社大政策学部2年・富田紗代さん(19歳)。

Gato y Malambo (SERIE AMERICANA Hector Ayala) 〜 コルドバ (アルゼンチン

Malambo

アルゼンチンと言えばアルゼンチンタンゴが有名だが、男性が表現する最高にクールなダンスのMalamboがある。男性だけで行われるが、汗臭さなどは一切感じさせず、ミュージックには歌詞は一切なくリズムだけをベースにして踊られる。

Malamboは元々ガウチョのダンスだった。Malamboのダンサーはタップダンスの名人で、ダンスをする際にはガウチョのブーツを履くのが一般的である。ガウチョは、アルゼンチン、ウルグアイ、ブラジル南部のパンパやアンデス山脈東部に17世紀から19世紀にかけて居住し、主として牧畜に従事していたスペイン人と先住民その他との混血住民である。

ウルグアイではガウーチョ、ブラジルではガウーショという発音がより近くなる。Malamboが上手なガウチョは名声と多くの尊敬を集めた。Malamboを踊る場合足を地面につけないように意識することで、実際には足はついているのだが、非常に素早い足の動きとなる。素早い足の動きでエネルギッシュ、これがMalamboの特徴である。

上げ馬神事 (多度大社)

多度祭の由緒は、南北朝時代の暦応年間(一三三八~一三四一)に、このあたりを分領する武家の中より始まったと伝わる。

元亀二年(一五七一)織田信長の兵火に罹り一時中断するが、関ヶ原の合戦後、徳川四天王の一人、本多忠勝公が桑名城主として着任し(一六〇一)、その再興に尽力した。その後も、歴代の桑名藩主により厚い力添えが寄せられ、今日まで連綿と継承されてきた。

御厨は七地区からなり、神児一名(肱江地区)騎手六名(小山・戸津・北猪飼・猪飼・力尾・多度地区から一名宛)が選出され、騎手が選出される地区は上げ馬を行い、その順番は、毎年輪番で交代しておこなわれる。最初にそれを行う地区を花馬といい、その地区の指示により神事が進行される。

神事では、古くより農作の時期や豊凶を占われ、数多く上がれば豊作、少なければ凶作、又最初の方の馬が上がれば「早稲(わせ)」、中頃であがれば「中手(なかて)」最後の方であれば「晩稲(おくて)」の苗を選ぶと良いとされ、稲の品種も占われてきた。