モンテネグロ ブドヴァ(Budva)

多量の考古学的証拠から、ブドヴァの地にはアドリア海沿岸最古の定住地があったと見られ、多くが歴史的な証拠から紀元前5世紀に遡るとする。伝説では、ブドヴァはフェニキア人カドモスが妻ハルモニアとともにテーバイから逃れてこの地に身を隠したとする。

2つの異なる文明が無数の痕跡を残した。
古代ギリシャと古代ローマである。
ローマ帝国が衰退し東西に領土が分けられると、2つの勢力を分ける防御壁がこの地域を通過し、その結果この町に文化と歴史の衝突を残した。

中世、ブドヴァは南スラヴ人国家ドゥクリャ(en:Duklja)の代々の王、ゼタ公国(en:Principality of Zeta)の貴族に治められた。

ヴェネツィア共和国がおよそ400年もの間この町を支配する。彼らは町をブドゥアと呼び、コトル湾地方を治め、オスマン帝国の侵略に対抗して強力な城壁で町を強化した。

住民のほとんどが19世紀までヴェネツィア方言を話していたと、歴史家ルイージ・パウルッチは1810年の自著『コトル湾1810年』(Le Bocche di Cattaro nel 1810)に記している。

激動の時代が来て、ブドヴァは幾度もその宗主国が代わることになる。オーストリア、フランス、そしてロシアである。コトル湾そしてブドヴァのモンテネグロとの統合は事実上1813年から1814年まで行われたが、1918年までブドヴァはオーストリア=ハンガリー帝国のもとに置かれた。第一次世界大戦後、セルビア王国軍がブドヴァを解放し、ユーゴスラビア王国の一部となったが、1941年にイタリア王国に併合された。

第二次世界大戦中、この地方に住む多くの住民が対ファシスト戦で戦った。1944年11月22日、イタリア降伏後に占領していたナチスからついに解放された。のち社会主義体制のユーゴスラビアへ帰属し、現在は新たに独立したモンテネグロの一部となっている。

1979年4月15日、破滅的な地震がブドヴァを襲った。旧市街のほとんどが被害を受けたが、今日その痕跡はわずかである。ほとんどの建築物が原型通りに治されたのである。

旧市街の教会
旧市街は多くの違う発祥からの民話が存在する。
学者と歴史家らは、ブドヴァが最初は一つの島で、後に砂質の地峡で岸とつながったと信じている。ブドヴァ市とともに旧市街は、ブートゥア(Boutoua)という名のギリシャ人船乗りによって発見されたと言われてきた。すぐにローマ帝国は、現在のモンテネグロ領の海岸地帯全体を手中に収め、多大な影響を与えたのである。

旧市街の建築物の大半は、ヴェネツィア共和国時代のものである。
ドア、蝶番、窓、バルコニー、その他多くの小さいが人目をひくものは、ヴェネツィアのローマ様式をとどめているようである。
旧市街には3つの主要教会がある。
第一に、7世紀に建てられた聖イヴァン教会、
第二に、840年からあるという聖マリヤ教会、
第三に、1804年建設の至聖三者教会である。
旧市街にあるヴェネツィア城壁は有名な観光場所である。

世界遺産 レナ石柱自然公園

レナ川の柱群は、ロシア連邦のシベリア極東部、レナ川沿いに見られる自然岩の地形であり、サハ共和国の首都ヤクーツクから上流約180キロメートル、ボートで1日もかからない距離の場所に存在している。

柱群の高さは150メートルから300メートルで、カンブリア紀の海盆の隆起と、100度にもなる年較差がもたらす浸食作用で形成されたものである。

一帯は1995年にレナ石柱自然公園(レンスキエ・ストルブイ自然公園)に指定され、2012年にはそれがUNESCOの世界遺産リストに登録された。

石柱群はカンブリア紀初期から中期にかけての石灰岩、泥灰土、ドロマイト、粘板岩などの層から成り、浸食作用によって険しく露出している。

これらの類型の岩々は、一般に海洋環境で形成されたものであり、水平方向の層状構造および垂直方向の変化は、深海にあったことを示す粘板岩とともに、海進や海退の様子を示している。

石柱群を形成した浸食作用は結氷砕石作用 (Cryoclastie) と呼ばれ、極端な大陸性気候がもたらす夏と冬の100度にもなる温度差の開きがもたらしたものである。

凍結と解凍の作用で、水は表面から細い溝を穿ち、少しずつ岩の最も硬い部分を引き剥がし、現在残るような石柱群を形成したのである。

レナの柱群は、カンブリア紀の化石産地としても重視されている。

ベネズエラ エンジェルフォール

テーブル状の山が連なるギアナ高地
落差979mの、世界最長の滝エンジェル・フォール。テプイと呼ばれるテーブル状の山の断崖から、白い筋となって流れ落ちる姿は、息を飲む美しさと迫力だ。
密林の中からそそり立つ100以上ものテプイが、雲の上にもうひとつの大地を作り出しているようなギアナ高地。
ベネズエラ・ボリーバル共和国(以下、ベネズエラ)の内陸部に位置し、日本全土がまるごと入っても余りある広さがある。ギアナ高地そのものは、さらに隣国のガイアナやブラジルへと続いている。

なぜこのような地形ができたのかというと、ギアナ高地はかつての地球の地軸に位置し、大陸が分裂していくなかでそこだけが同じ場所に留まったからだそう。
20億年前のことである。風や雨にさらされるうちに、固い岩盤だけが残り、それがテーブル状の山になったのだ。
また、分裂した大陸はその後、氷河期や洪水など気候変化の影響を受けたが、ギアナ高地だけは気温の変化があまりなかっため、テプイの上には原始の姿を残しつつ、独自に進化を遂げた植物が生育する。

エンジェルフォール(Angel Falls)

南アメリカ大陸北部のギアナ高地にある世界最大級の滝。
行政上は、ベネズエラのボリバル州グランサバナのカナイマ国立公園内に所在する。
世界最大の落差 979メートル / 3212フィート(岩にぶつかることなく直下する距離は 807メートル / 2648フィート)をもつ滝として著名。

滝のスペイン語名・英語名等は、その存在を世界に向けて大々的に紹介した最初の人物である、アメリカ人探検飛行家ジミー・エンジェルの名にちなむ。
すなわち滝の名が「天使の滝」の意を持つわけではなく、その含意は「エンジェル氏の滝」である。

城壁都市バクー、シルヴァンシャー宮殿、及び乙女の塔

カスピ海沿岸の都市バクーは、アゼルバイジャン共和国東部にあたるシルヴァン地方の主要都市であり、旧市街である城壁内はイチェリ・シェヘル(アゼルバイジャン語で「内城」の意)と呼ばれる。アゼルバイジャンにおいて国内最初の世界遺産である。

バクーの町は5世紀頃からあったとされるが、その存在が確認されるのは10世紀以降である。もともとペルシア人のゾロアスター教徒の多い街であったが、アラブ人とともにイスラム教が到来し、さらに現在のアゼルバイジャン人の直接の先祖となるテュルク系の遊牧民が侵入した。

1538年までは、土着の王朝シルヴァン朝が首都としていたが、南のアーゼルバーイジャーン地方(現在のイラン領アゼルバイジャン)に興ったサファヴィー朝の支配を受け、さらに1585年にはオスマン帝国によって征服された

17世紀にはサファヴィー朝の支配下に戻るなど、イランとトルコの政権の間で争奪が続き、1806年にはカスピ海西岸を南下してきたロシア帝国によって占領され、ロシア人主導で近代都市が建設された。

さまざまな民族の支配を受けたことにより、バクーはアゼルバイジャン固有の文化はもとより、アラブ、イラン、ロシアなどの影響と文化が共存する独自の景観を持つようになった。

乙女の塔
《Qız Qalası》アゼルバイジャンの首都バクー旧市街(イチェリシャハル)にある塔で、12世紀、城壁の一部として建造された。高さ約30メートル。
望まない結婚を押しつけられた王女が身を投げたという伝説がある。
2000年に「城壁都市バクー、シルバンシャー宮殿、および乙女の塔」の名称で世界遺産(文化遺産)に登録された。乙女の望楼。クイズガラスイ。

リュクサンブール宮殿(Palais du Luxembourg)

フランスのパリ6区、ヴォージラール通りにある宮殿で、フランス元老院(上院)の議事堂として使用され、その周囲はリュクサンブール公園として公開されている。

設計者 サロモン・ド・ブロス、建築主 ピネー=リュクサンブール公フランソワ、マリー・ド・メディシス(改築)、着工 1615年 、竣工 1631年  フランス元老院議事堂


旧用途は ピネー=リュクサンブール公フランソワ邸、マリー・ド・メディシス邸、プロヴァンス伯ルイ邸、総裁政府官邸、サロモン・ド・ブロス設計のピネー=リュクサンブール公フランソワ(ルクセンブルク=リニー家出身)の邸宅を、イタリアからフランス王室に嫁いできたマリー・ド・メディシス(ルイ13世の母)の居城として改築した。ニコラ・プッサンとフィリップ・ド・シャンパーニュが手掛けた内装は、彼女が幼い頃過ごしたフィレンツェのメディチ家の居城ピッティ宮殿をモチーフとしている。マリーがフランスを追放された後は、彼女の孫であるモンパンシエ公爵夫人などが居住した。

フランス革命によって当時の主であったプロヴァンス伯(後のルイ18世)が亡命したために国家に摂取され、監獄として使用された。末期の総裁政府の官邸となり、権力者たちがここを活躍の場とした。その後ナポレオン・ボナパルトが権力を掌握した歴史的な舞台にもなった。第二次世界大戦中は、ドイツ占領軍の空軍司令部が置かれていた。自由の女神像の原型が設置されている。

パリ、サン・ラザール駅(Gare Saint-Lazare)

パリの主要ターミナル駅の1つサン=ラザール駅(Gare Saint-Lazare)は、1837年8月26日の開業である。パリのターミナル駅で一番古い歴史を持ち、都心部に近く利便性も高くデパート街オスマン通りやオペラ座にも近い。駅舎正面には4つ星のターミナル・ホテルを構えるが老朽化し、駅舎内部はひどく傷んでいる状態でもある。

1日の利用者数は約45万人、年間1億人とも言い、パリではパリ北駅に次ぐ利用者数のターミナル駅である。ただし、近郊列車の利用が大半を占め、TGVの発着もない。地元の人々の日常的な利用が多く観光客は目立たず、パリのターミナル駅の中では華やかさが薄い。駅舎側面よりウロップ橋方面へ続くローマ通りにはパリ音楽院の旧校舎があったため、現在は楽譜屋・楽器屋街となっている。

1998年、併設地下駅のオスマン=サン=ラザール駅(Hausmann-Saint-Lazare)が開業し、RER-E線の終着駅となる。2003年12月、全自動運転の最新メトロ14号線がサン=ラザール駅まで延伸し、駅正面ファサードの左端に球形ガラス張りの新たなメトロ入り口が生まれ、メトロ地下駅の内装も全面改装される。2012年3月、サンラザール駅付属のショッピングモール、サンラザール・パリがオープンし、3フロアにわたる10000平米 の広さの中に約70軒もの店舗が入る大規模ショッピングモールとなる。このモールには2つのスーパーマーケット、スターバックス、そして最新または定番人気のブティックや飲食店が勢揃いする。

グランド・プリズマティック・スプリング(Grand Prismatic Spring)

アメリカ合衆国イエローストーン国立公園のミッドウェイ間欠泉地域に存在する同国最大の熱水泉で、ニュージーランドのフライング・パン・レイク、ドミニカ国のボイリング・レイクに次ぐ第3位の規模である。泉の大きさはおよそ80×90m、深さは50m、70℃の熱水が毎分2,100リットル湧き出している。1871年に行われたハイデン地質調査において地質学者が注目し、その印象的な色彩からグランド・プリズマティック・スプリングと命名された。

色彩には青、緑、黄、オレンジ、金、赤及び茶が含まれ、光学プリズムによる白色光から虹色への分散を思い起こさせる。この泉に関する初めの記録は初期ヨーロッパ人探検家および測量士によるもので、1839年、アメリカン毛皮会社(American Fur Company)の毛皮獲得のために罠を仕掛ける一団がミッドウェイ間欠泉地域を横断し、直径90メートルの「沸騰する湖(boiling lake)」との記述を残している。

泉の鮮明な色彩はミネラル豊富な水の周りに形成されるバクテリアマットの中で着色されるバクテリアによるもので、バクテリアは、緑から赤までの色を生じ、バクテリアマットの色の量は、カロテノイドに対する葉緑素の割合および他の種よりも、ある種のバクテリアに有利となる水温による。夏にはバクテリアマットはオレンジや赤になる傾向があり、冬は通常濃い緑である。水域中央は極度の高温のため無菌状態。

水域中央の水の濃い青は、水が行う可視光線からの選択的な赤色波長域の吸収に起因する本質的な水の青によるものである。この効果は全ての大きな水の集まりを青くする原因だが、グランド・プリズマティック・スプリングでは泉の中央における水が高純度で、深さもあるため特に著しい。

壮大で美しき砦「ナハル・フォート」 (オマーン)

アラビア半島の東南端に位置するオマーンの首都マスカットから、約120km離れた、車で2時間ほどのところにオマーン紙幣にも描かれている「ナハル・フォート」はある。進化し続ける未来都市ドバイやアブダビとは異なり、オマーンにはアラブの古きよき面影や情緒があふれ、独特の自然美が魅力でもある。

ナハルは古くからオアシスの村として栄え、小高い丘の上にそびえ立つ「ナハル・フォート」は17世紀に建てられた砦で、円と直線が織りなす壮大な雰囲気が漂う。迷宮のような造りのフォートには、至るところに階段があり、色々な場所へ繋がっている。


オマーン特有のゴツゴツした岩山、青い空とのコントラストが映える。フォートには小部屋や貯蔵庫、キッチンなど、昔の生活ぶりが感じられる展示もたくさんある。イスラム教を国教とするオマーンは、現在でも男女が別々の部屋で過ごすのが一般的で、日本と同じように靴を脱ぐ習慣があり、絨毯の上に座ってクッションを背もたれにして寛ぐ。

真夏など、40度を越す日が続くオマーンであるが、フォートは厚い土の壁でできているので、風通しも良く、冷房がなくてもとても涼しい。フォートの屋上からは、緑豊かなデーツ園、岩山、ナハル村の家々が眺望できる。

Gato y Malambo (SERIE AMERICANA Hector Ayala) 〜 コルドバ (アルゼンチン

Malambo

アルゼンチンと言えばアルゼンチンタンゴが有名だが、男性が表現する最高にクールなダンスのMalamboがある。男性だけで行われるが、汗臭さなどは一切感じさせず、ミュージックには歌詞は一切なくリズムだけをベースにして踊られる。

Malamboは元々ガウチョのダンスだった。Malamboのダンサーはタップダンスの名人で、ダンスをする際にはガウチョのブーツを履くのが一般的である。ガウチョは、アルゼンチン、ウルグアイ、ブラジル南部のパンパやアンデス山脈東部に17世紀から19世紀にかけて居住し、主として牧畜に従事していたスペイン人と先住民その他との混血住民である。

ウルグアイではガウーチョ、ブラジルではガウーショという発音がより近くなる。Malamboが上手なガウチョは名声と多くの尊敬を集めた。Malamboを踊る場合足を地面につけないように意識することで、実際には足はついているのだが、非常に素早い足の動きとなる。素早い足の動きでエネルギッシュ、これがMalamboの特徴である。

ペルーの世界遺産 クスコ市街

クスコ (Cusco;Qusqu) は、ペルーの南東、アンデス山脈中の標高3,400mにある。クスコとは、ケチュア語 (Quechua) で「へそ」を意味し、かつてのインカ帝国の首都であった。黄金郷「太陽の神殿」を土台にした教会と、石と石の間に紙一枚入らない石垣が有名である。

キルケ文化

インカ人が移住して来る前、900年から1200年にかけてキルケ人がこの地域を支配した。

1200年代以降にインカ人勢力がここを占拠した。古代の寺院、道路、導水設備の遺跡がサクサイウアマンで発見され、発掘調査の結果、寺院が要塞の脇で発見された。

要塞には軍事的な機能だけでなく、宗教的な機能があったことが示された。

インカ時代

1200年代から1532年までの間、クスコはインカ帝国の首都であった。

町はUrinとHananの2街区に分かれ、それぞれが更に2つに分けられていた。4つの街区は、北西のChinchasuyu、北東のAntisuyu、南西のQontisuyu、南東のCollasuyuであった。

道路はそれぞれの街区から、対応する帝国の州邦(suyu、スウユ)に伸びていた。

それぞれの州邦の指導者は対応する街区に家を建て、毎年、一定期間クスコに住まなければならなかった。

スペイン人による征服

1533年11月15日、最初のスペイン人がクスコに到着した。
征服者のフランシスコ・ピサロの到着は、1534年3月23日であった。

植民地化の結果は都市の建築を通してみえ、建造物は重厚な文化が融合していた。

インカ人がキルケ構造の上に建造物を建てたように、スペイン人はインカ人によって建てられた巨大な石の上に建造物を建てた。

スペインの建物は、インカによって建設された巨大な石の壁の上に作られている。

これらインカ時代の石積みは、石と石の間に「カミソリの刃一枚通さない」と言われる巧緻さである。

周囲にはサクサイワマン遺跡やケンコー遺跡など、数多くの遺跡が点在する。

クスコはアンデス地域において、スペイン植民地とキリスト教布教の中心であった。

農業、牧畜、鉱山やスペインとの貿易により、クスコは繁栄した。

Vals (SERIE AMERICANA Hector Ayala) 〜 ペルーの世界遺産 クスコ市街