サンクトペテルブルク(ロシア)

1703年、ピョートル大帝によりロシアの近代化の窓口として、ネヴァ川河口の泥沼地に莫大な費用をかけて人工的に作られたレーニングラード州の州都で、5月下旬から7月中旬には太陽の沈まない白夜がある町でもある。

バレエや文学が盛んな芸術都市として知られ、エカテリーナ2世によってエルミタージュ美術館が建てられるなど芸術都市としての礎が築かれた。

19世紀には天才と謳われた詩人・プーシキンや、『罪と罰』のドストエフスキーなどもこの都市を拠点に活動しロシア文学が花開いた。

ペトロハヴロフスク要塞、エカテリーナ宮殿など歴史を刻む多くの建築物が周辺の歴史地区と共に世界遺産に登録されている。

札幌市時計台

1878年(明治11年)、札幌農学校敷地内に演武場(武芸練習場・屋内体育館)として建設され、1906年(明治39年)に移設されるまで、現在の位置よりおよそ130m北東に位置した。

札幌市の歴史的建造物であり、国の重要文化財に指定されて、正式名称は「旧札幌農学校演武場」と称され、通称として「札幌時計台」単に「時計台」と呼ばれることも多い。

非公式キャラクターとして「時計大臣」があり、さっぽろテレビ塔の非公式キャラクター「テレビ父さん」の仲間である。

現在は鐘の音も高層ビルに阻まれ、時計台周辺でしか聞こえない。

周囲をビルに囲まれているため、その景観などの理由により「日本三大がっかりスポット」と称されることもあるという。

エドワード・ジョン・ポインター

サー・エドワード・ジョン・ポインター(Sir Edward John Poynter, 1st Baronet, KB, 1836年3月20日 – 1919年7月26日)は、英国の画家、素描家、装飾デザイナー、博物館事務官として知られる初代准男爵である。

準男爵、バロネット(baronet)はイギリスの世襲称号の一つで、男爵(baron)の下、ナイト(knight)の上に位置し、世襲称号の中では最下位で貴族ではなく平民である。敬称はサー(Sir)であるが、ナイトと区別するため、名前の後に「Bart.」もしくは「Bt.」を付ける。

ポインターはいくつもの公職に就いた。
ロンドン大学の初代美術講座教授(任期:1871年 – 1875年)
ナショナル・アート・トレーニング・スクール校長(1875年 – 1881年)
ナショナル・ギャラリーのディレクター(1894年 – 1904年。この間にテート・ギャラリーが新設された)
1876年に、ロイヤル・アカデミー会員

1896年に、ロイヤル・アカデミーの総裁、騎士号も贈られた
1902年には準男爵を授爵した。

『Israel in Egypt(エジプトのイスラエル人)』(1867年。彼の出世作)
『Visit of the Queen of Sheba(シバの女王の訪問)』(1871年 – 1875年)
『King Solomon(ソロモン王)』(1890年)
歴史を題材とした大作群で名が広く知られるようになる。

愛知県美術館には、「世界の若かりし頃」(1891年)が収蔵されている。

覚王山春祭

「覚王」とは、釈迦の別名で、「日泰」とは、日本とタイ王国を表す。

千種区にある超宗派の寺院、覚王山日泰寺はタイ王国から寄贈された仏舎利を安置するために創建され、どの宗派にも属さない日本で唯一の超宗派の寺院である。

仏舎利は、本堂のある境内からやや離れた「奉安塔」の中に安置され、境内には仏舎利を日本に寄贈したラーマ5世の像がある。

その「日泰寺」で知られる覚王山には、昔ながらの懐かしい風情がある。
昔ながらのみたらし屋さん、定食屋さん、エスニックショップ、紅茶、中国茶の専門店、炭屋、お洒落な雑貨屋、ギャラリーなど個性的なお店が軒を連ねる。

また、毎年恒例となった「覚王山春祭、夏祭」では、参道ミュージアムなどイベントが盛りだくさん。

2015年、覚王山春祭のステージ

4月11日(土)

10:00~ マラカトゥ・デモクラチコ・ナゴヤ(ブラジリアン パーカッション)
Cigdem Tinker Belly(ベリーダンス)

11:00~ タナ・カミオ(弾き語り)

12:00~ 川本マサフミ(弾き語り)

13:00~ Flying Doctor(Okiraku Q.ミュージック)

14:00~ Smash(pops)

15:00~ コンフント・ドメスティコ(サルサ)

16:00~ 俵町権佐衛門一家(コテコテブルースバンド)

17:00~ LOVE AFRICA(西アフリカ音楽&ダンス)

4月12日(日)

10:00~ ザンドラ コーポラ (砂漠と都会が育んだ奇跡の歌)

11:00~ このあの楽団(J-シュール)

12:00~ パンソニード(スティールパン カリビアンミュージック)

13:00~ Mixed juice(英語で子供の歌)
サントラ5(jug band)

14:00~ ティエラブランカ(フォルクローレ)

15:00~ 打雅奴(和太鼓)

16:00~ アリじごく(アイリッシュ音楽)

17:00~ まりも(GOKIGEN ミュージック)

スリランカ、佛歯寺・仏歯寺(Temple of the Tooth Relic)

スリランカのキャンディに、ダラダー・マーリガーワ寺院(Dalada Maligava)、通称、佛歯寺・仏歯寺(Temple of the Tooth Relic )がある。

『大涅槃経』(Mahaparinibbana Sutta)によると、釈迦の死後、歯は遺骨と同様にインド各地に分割された。

『チューラワンサ』(Culavamsa,小史。第37章)の記載によると、スリランカのスリー・メーガワンナ王(301-328)の治世第9年に、カリンガ(東インドのオリッサ)からブラーマンの女性が右の犬歯を持ってきたとされ、ダンマチャッカ(法輪堂)で祀ったという。

スリランカでは仏歯が王権の正統性の証しとされ、王都が移動するとともに仏歯も移動して「仏歯の安置所」で祀られてきて、現在は最後のウダ・ラタ王国の旧王都のキャンディに安置される。

毎年、シンハラ暦のエサラ月(新暦7-8月)には満月の日を最終日で頂点とする3週間にわたるキャンディ・エサラ・ペラヘラ祭が開催される。

行列(ペラヘラ)が主体の祭で、七日ずつ、デーワーレ・ペラヘラ、クンバル・ペラヘラ、ランドーリ・ペラヘラに分かれて、巡行の範囲が次第に広がっていく。

クンバル・ペラヘラ以降は、仏歯を載せた象を先頭にして、旧王国を守護する神々(ナータ、ヴィシュヌ、カタラガマ、パッティニ)のご神体(ランアーユダ、剣)をのせた象が、キャンディの市内を行列して巡行する。

かつての王国の権威の支配秩序を再確認するだけでなく、佛歯は雨をもたらすとされ、新たな農耕期の始まりにあたっての豊作祈願という農耕儀礼の意味合いもある。

仏歯寺と旧王都は「聖地キャンディ」として、世界遺産に登録されている。

洛中洛外図

戦国時代にあたる16世紀初頭から江戸時代にかけて制作された京都の洛中と洛外の景観や風俗を描いた屏風絵で、1点が国宝、6点が重要文化財に指定される。

文化史的学術的な価値が高く、美術史、建築史、都市史、社会史の観点からも
興味が尽きない作品。

文化史的学術的な価値が高く、美術史、建築史、都市史、社会史の観点からも
興味が尽きない作品。

パサージュ・デ・パノラマ (Passage des Panoramas)

パサージュ・デ・パノラマ (Passage des Panoramas) はパリ2区にあり、北のモンマルトル大通りから、南のサン=マルク通りを接続する。

パリの切手商が集まる主要な場所でもあり、街の建築物は1974年に歴史建造物 (Monuments historiques) に登録された。

フランスのパッサージュも今や減少傾向だが、パッサージュ・デ・パノラマは新たなコンテンツと培われた歴史により、ストリートを再構築している。

メトロの最寄り駅は、8号線グラン・ブールヴァール駅。

名古屋市、名駅付近の円頓寺商店街は、2015年4月2日にパッサージュ・デ・パノラマと姉妹提携しました。

これを機会に今年6月、パッサージュ・デ・パノラマではフランス全土で一斉に行われる音楽の日「フェット・ド・ラ・ミュージック」に合わせて、日本の食や文化を紹介する夏祭りが企画されている。

赤の広場(クラスナヤ広場)

赤の広場(ロシア語:Красная площадьクラースナヤ・プローシシャチ)は、ロシアの首都、モスクワの都心部にある広場で、長さは695m、平均道幅は130m、面積は7万3,000㎡。

広場は北西から南東に長く、南西側にはクレムリンの城壁、城壁に接しているレーニン廟、大統領官邸、北東側にはグム百貨店、北西端には国立歴史博物館とヴァスクレセンスキー門、南東端には葱坊主の屋根の聖ワシリイ大聖堂と処刑場・布告台だったロブノエ・メストがある。

1493年、モスクワ大公国の統治者イヴァン3世が、自らの居城であるクレムリンの前の市街地を広場として整理させたのが起源で、「赤の広場(クラスナヤ広場)」と名付けられたのは広場が整備された17世紀後半。

ロシア語名「クラスナヤ広場」の「クラスナヤ」は「赤い」を意味するが、古代スラヴ語では「美しい」を意味する事から「美しい広場」が原義に近い。

カミーユ・ピサロ Camille Pissarro

カミーユ・ピサロ Camille Pissarro (1830-1903)は、フランス 印象派絵画の最も中心的存在であった巨匠で、印象派を代表する画家として高く評価される。

豊かな色彩を用い大胆に筆触を残す描写法で温柔で闊達な表現で、八回開催された印象派展の全てに参加した唯一の画家である。

温厚な性格で知られ、他の印象派の画家たちや、後期印象派の画家らとも交友を重ね、中でもポール・セザンヌにとっては最も良い理解者のひとりであったという。

農村風景が主であるが、質実な人物像や肖像画、風俗的主題、静物画、自画像も手がけ、晩年には都市景観なども描いている。

1885年頃より点描表現の技法を取り入れるも、1890年頃には原点へと回帰している。

1830年、西インド諸島のサン・トマ島でスペイン系ユダヤ人の父とその妻の間に生まれる。

1842年から5年の間、一時的にパリの寄宿学校で教育を受ける。

1852年にサン・トマ島でデンマーク出身の画家フリッツ・メリビーと出会い絵画を学びぶ。
同年から1854年まで、同氏とベネズエラのカラカス島へ旅行する。

1855年に再度にサン・トマ島へ帰郷し、同年末には画家を志し
パリへ行く。以後、故郷へ戻ることは無かった。

1855年に開催されたパリ万国博覧会で、バルビゾン派の大画家ジャン=バティスト・カミーユ・コロー、ミレーの作品に強く感銘を受けた。
写実主義のクールベや新古典主義のアングルにも手本を得ている。

1861年にセザンヌやギヨーマン、翌年にモネ、ルノワール、シスレー、バジールらと知り合う。

その後パリやポントワーズ、ルーヴシエンヌ、ブルターニュなどで活動をおこなう。セーヌ川河畔の都市ルーアンやロンドンでも制作している。

1903年11月13日パリで死去、享年73歳

軍艦島(端島:長崎県長崎市)

長崎県長崎市(旧高島町)にある端島は軍艦島の通称で知られる。

明治時代から昭和時代にかけて海底炭鉱によって栄え、東京以上の人口密度を有していたが、1974年(昭和49年)の閉山にともない島民が島を離れてからは無人島である。

端島の名がいつごろから用いられるようになったのか正確なところは不明だが、『正保国絵図』には「はしの島」、『元禄国絵図』には「端島」、『天保国絵図』にも「端島」とある。

端島での石炭の発見は、一般に1810年(文化7年)のこととされるが、江戸時代の終わりまでは漁民が漁業の傍らに「磯掘り」と称し、ごく小規模に露出炭を採炭する程度であったという。

1890年(明治23年)、端島炭鉱の所有者であった鍋島孫太郎が三菱社へ譲渡し、端島はその後100年以上にわたり三菱の私有地となり、この頃から基本的な居住環境が整備され、島の周囲が段階的に埋め立てられた。

1916年(大正5年)には、日本で最初の鉄筋コンクリート造の集合住宅「30号棟」が建設され、「軍艦島」の通称は大正時代ごろから用いられるようになったとみられる。

1970年代以降のエネルギー政策の影響を受け、1974年(昭和49年)1月15日に閉山し、端島は無人島となった。

「九州・山口の近代化産業遺産群」の一部として、世界遺産暫定リストに追加記載されることが決まり、2009年(平成21年)1月に記載された。

島内全域を撮影した端島のGoogle ストリートビューが、2013年6月28日に公開された。