

◆名古屋ウィメンズマラソン順位(タイムは速報値)
(1)チェプンゲティッチ 2時間18分08秒
(2)鈴木亜由子 2時間21分52秒
(3)前田 穂南 2時間22分32秒
(4)チョウ・トクジュン 2時間24分05秒
(5)上杉 真穂 2時間24分16秒
(6)鈴木 優花 2時間25分46秒
(7)和久 夢来 2時間25分58秒
(8)リ・シケン 2時間26分28秒
(9)棚池穂乃香 2時間27分30秒
(10)イソベル・バットドイル 2時間27分54秒


(1)チェプンゲティッチ 2時間18分08秒
(2)鈴木亜由子 2時間21分52秒
(3)前田 穂南 2時間22分32秒
(4)チョウ・トクジュン 2時間24分05秒
(5)上杉 真穂 2時間24分16秒
(6)鈴木 優花 2時間25分46秒
(7)和久 夢来 2時間25分58秒
(8)リ・シケン 2時間26分28秒
(9)棚池穂乃香 2時間27分30秒
(10)イソベル・バットドイル 2時間27分54秒
佐布里ダム
河川 木曽川水系愛知用水
ダム湖 佐布里池
ダム諸元
ダム型式 中心遮水壁型アースダム
堤高 21 m
堤頂長 180 m
堤体積 235,000 m³
総貯水容量 5,300,000 m³
有効貯水容量 5,000,000 m³
利用目的 工業用水
事業主体 独立行政法人水資源機構
施工業者 奥村組
着手年/竣工年 1965年/1965年
佐布里池(そうりいけ)は、愛知県知多市佐布里にある愛知用水の調整池。
1965年(昭和40年)5月に竣工した。独立行政法人水資源機構が管理する佐布里ダムの調整池であり、隣接する知多浄水場から知多市・東海市・阿久比町・東浦町へ工業用水を供給している。
池の周囲には佐布里梅などの梅25種約4,900本が植えられている。
この池は、知多半島の観光スポットの一つとなっている。
佐布里緑と花のふれあい公園
池の周囲には梅林があり、佐布里梅と呼ばれる梅(桃の木に梅を接ぎ木して作り出した品種)が約1,800本植えられている。池の北部には「佐布里緑と花のふれあい公園(愛称:梅っ花そうり)」という公園があり、公園内の「梅の館」では、梅に関する情報を紹介しているほか、レストラン、売店、体験工房などが置かれている。
高度2万5000メートルの成層圏に
気球を使って行く、というツアーの募集が始まったそうです
成層圏と言うと、地上およそ1万メートルから5万メートルにある空気の層ですが
通常、飛行機が飛んでいるのは、高度1万メートル前後の場所なので
2倍以上高い場所に行くイメージですね
宇宙は、地上から100キロ以上の場所、ということですが
成層圏まで行くと、地球を見下ろすことができるそうです
地球が丸みを帯びているのが分かりますね
今回の気球は、ヘリウムガスを使い
高度4万メートルまで飛ぶことができ
ヘリウムガスの量を調整することで
成層圏まで到達し、高度の維持や地上への降下を
行うことができるそうです
宇宙を疑似体験できるとして
北海道のスタートアップ企業と大手旅行会社が
気球で成層圏まで行ける、というツアーを企画して
価格は、1人2400万円
ことし12月以降に最初の打ち上げを予定して
今月から乗客5人の募集を開始した、そうです
人が乗車するキャビンは2人乗りで
操縦者とペアで乗り込んで成層圏に向かい
地上から2時間かけて成層圏まで上昇し
1時間ほど宇宙や地球を眺めたあと
1時間かけて地上へ降りてくるということです
訓練は不要、だそうですよ
それより、断然お手軽、VRで、宇宙船に乗ったつもりで
船内を座敷わらしのように、ピョンピョン、とかね w
アバターで身振り手振り、言葉あてゲームのシャレード(charade)
やってみました
マチュ・ピチュの歴史保護区(マチュ・ピチュのれきしほごく)は、ペルーのクスコ県にあるマチュ・ピチュ遺跡と、その周辺を対象とするUNESCOの世界遺産リスト登録物件である。マチュ・ピチュ遺跡はインカ帝国時代の遺跡の中では保存状態がきわめて良く、それに加えて周辺の自然環境は優れた景観の中に絶滅危惧種・危急種をはじめとする重要な動物相・植物相を含んでいることから、1983年に複合遺産として登録された。総面積は約326km2で、そのうち都市遺跡部分は約5km2である。
マチュ・ピチュの都市遺跡の発見は1911年のことであった。かつてインカ帝国がスペインに攻略された際に、莫大な財宝が運び込まれたとされる伝説の都ビルカバンバを探していたアメリカの歴史学者ハイラム・ビンガムは、地元の少年を案内役に雇い、クスコ北西約70 km 付近のウルバンバ川流域を調査した折、急峻な斜面を登った場所でこれを発見したのである。ビンガムはこれこそがビルカバンバであったと主張したが、現在では否定されている。
マチュ・ピチュはケチュア語で「年老いた峰」を意味し、「年若い峰」を意味するワイナ・ピチュへと連なる尾根の部分に都市が建設された。マチュ・ピチュ自体の標高は2,795mで2,667mのワイナ・ピチュよりも高いが、ワイナ・ピチュを仰ぐ尾根に建設された都市遺跡の標高はおよそ2,430mである。
建設された年代は石段の組み方などをもとに1450年ころと見積もられており、人が住んでいたのはそれからおよそ1世紀の間だったとされている。文字の記録がないため、この都市の建設目的は諸説あるが、現在では、第9代皇帝パチャクテクの時代に離宮や宗教施設として建設されたと考えられている。かつては人口1万人規模とするものもあったが、現在では否定されており、ペルー文化庁の専門家たちには、常住人口500人と見積もっている者たちもいる。
都市遺跡は北部(北西部)には様々な建造物群が並び、南部(南東部)にはアンデネスとよばれる段々畑が築かれている。北東部には職人や貴族の居住地区があり、ほかの代表的な建築物としては、以下のものを挙げることができる。
インティワタナ – 「太陽をつなぎとめる場所」という意味を持つ。マチュ・ピチュの都市遺跡で最も高い場所に置かれた花崗岩(高さ1.8m)で、四隅と四方が対応するように据えられている。インティワタナはインカ帝国の大都市に見られた太陽の観測にかかわる石である。
主神殿 – 「3つの窓の神殿」に隣接し、広場に面している。壁には多くの壁龕が作られている。
3つの窓の神殿 – その名のとおり、三方を囲む壁のうち、東側の壁には台形の窓(開口部)が3つ並んでいる。命名者はビンガムで、彼はその窓は初代皇帝マンコ・カパックの伝説に関連する窓ではないかと推測し、そう呼んだ(ただし、この推測は現在では否定されている)。
大塔 – 「太陽の神殿」とも呼ばれ、その異名が示すように、クスコにあった「太陽の神殿」との類似性が指摘されている。窓や塔内の岩の配置が冬至の日差しに対応しているらしいことから、暦に関する建造物であったと考えられている。大塔の下にはミイラを安置する陵墓として機能したらしい洞窟があるが、ビンガムが推測したような王家の墓だったのかの確証はない。
王女の宮殿 – 大塔の隣にある外階段を持つ2階建ての構造物で、インカ建築としては珍しくない様式だが、マチュ・ピチュではほかに見られない。
コンドルの神殿 – コンドルをかたどった大きな平石がある神殿で、翼をかたどったとされる背後の2つの巨石部分の構造物には、牢獄として機能したとされる半地下の空間がある。
2023年1月24日(火)~2月12日(日)の期間
久屋大通公園 エディオン久屋広場で
「名古屋ラーメンまつり2023」が開催
3幕開催、全国各地の美味しいラーメンが集結
【開催期間】
第1幕:1月24日(火)~29日(日)
第2幕:1月31日(火)~2月5日(日)
第3幕:2月7日(火)~12日(日)
ラーメン1杯につき、チケット1枚が必要
チケットの払い戻しは行えません
【チケット】は 前売券:900円 当日券:950円
今回、第3幕[2月7日(火)~12日(日)]の出店ラーメンは
【北海道】「in EZO」 札幌芳醇炙りじゃが白味噌らぁめん
【富山】「えびすこ」 伝説の富山ブラック
【長野】「信州鶏白湯 気むずかし家」 信州鶏白湯ラーメン
【大阪】「大阪牛肉ラーメンわだ」 スタミナ牛肉ラーメン
【愛知】「麺家 獅子丸」 獅子丸流伊勢海老の味噌らぁめん ~2023まつり限定ver.~
【愛知】「らーめん 䑓大」薬膳黄金そば(塩) ~あいぽーく炙り焼豚~
【京都】「煮干しそば藍」京都白だし中華そば ~豪華2種の焼豚乗せ~
【宮城】「麺屋政宗」伊達の炙り牛タンネギ塩そば
【熊本】「ナベラボ Produced by 渡なべ」熊本ラーメン
【石川】「金澤濃厚中華そば 神仙」濃厚味噌「炎・炙」肉盛そば ~金沢百年味噌2023バージョン~
多量の考古学的証拠から、ブドヴァの地にはアドリア海沿岸最古の定住地があったと見られ、多くが歴史的な証拠から紀元前5世紀に遡るとする。伝説では、ブドヴァはフェニキア人カドモスが妻ハルモニアとともにテーバイから逃れてこの地に身を隠したとする。
2つの異なる文明が無数の痕跡を残した。
古代ギリシャと古代ローマである。
ローマ帝国が衰退し東西に領土が分けられると、2つの勢力を分ける防御壁がこの地域を通過し、その結果この町に文化と歴史の衝突を残した。
中世、ブドヴァは南スラヴ人国家ドゥクリャ(en:Duklja)の代々の王、ゼタ公国(en:Principality of Zeta)の貴族に治められた。
ヴェネツィア共和国がおよそ400年もの間この町を支配する。彼らは町をブドゥアと呼び、コトル湾地方を治め、オスマン帝国の侵略に対抗して強力な城壁で町を強化した。
住民のほとんどが19世紀までヴェネツィア方言を話していたと、歴史家ルイージ・パウルッチは1810年の自著『コトル湾1810年』(Le Bocche di Cattaro nel 1810)に記している。
激動の時代が来て、ブドヴァは幾度もその宗主国が代わることになる。オーストリア、フランス、そしてロシアである。コトル湾そしてブドヴァのモンテネグロとの統合は事実上1813年から1814年まで行われたが、1918年までブドヴァはオーストリア=ハンガリー帝国のもとに置かれた。第一次世界大戦後、セルビア王国軍がブドヴァを解放し、ユーゴスラビア王国の一部となったが、1941年にイタリア王国に併合された。
第二次世界大戦中、この地方に住む多くの住民が対ファシスト戦で戦った。1944年11月22日、イタリア降伏後に占領していたナチスからついに解放された。のち社会主義体制のユーゴスラビアへ帰属し、現在は新たに独立したモンテネグロの一部となっている。
1979年4月15日、破滅的な地震がブドヴァを襲った。旧市街のほとんどが被害を受けたが、今日その痕跡はわずかである。ほとんどの建築物が原型通りに治されたのである。
旧市街の教会
旧市街は多くの違う発祥からの民話が存在する。
学者と歴史家らは、ブドヴァが最初は一つの島で、後に砂質の地峡で岸とつながったと信じている。ブドヴァ市とともに旧市街は、ブートゥア(Boutoua)という名のギリシャ人船乗りによって発見されたと言われてきた。すぐにローマ帝国は、現在のモンテネグロ領の海岸地帯全体を手中に収め、多大な影響を与えたのである。
旧市街の建築物の大半は、ヴェネツィア共和国時代のものである。
ドア、蝶番、窓、バルコニー、その他多くの小さいが人目をひくものは、ヴェネツィアのローマ様式をとどめているようである。
旧市街には3つの主要教会がある。
第一に、7世紀に建てられた聖イヴァン教会、
第二に、840年からあるという聖マリヤ教会、
第三に、1804年建設の至聖三者教会である。
旧市街にあるヴェネツィア城壁は有名な観光場所である。
大高城
大高城(おおだかじょう)は、尾張国知多郡大高村(現在の名古屋市緑区大高町)にあった日本の城。
桶狭間の戦いの前哨戦として、当時今川義元の配下であった松平元康(後の徳川家康)が「兵糧入れ」をおこなったことで名高い。現在は国の史跡に指定され、公園として整備されている。
築城年代ははっきりしないが、土岐頼康が尾張守であった南北朝期には池田頼忠が城主を務め、永正年代には花井備中守や、水野為善とその息子の忠守が居城したことが伝えられている(為善については異説もある。また忠守は水野忠政の息子の水野忠守とは別人)。
天文年間も引き続き水野氏が治めたが、織田信秀の支配下にあった。天文17年(1548年)、今川義元の命で野々山政兼がこの城を攻めたが、落とすことができず政兼は戦死する。
しかし信秀の死後、息子の織田信長から離反した鳴海城主の山口教継の調略で、大高城は沓掛城とともに今川方の手に落ちる。この脅威に対して信長は「丸根砦」と「鷲津砦」を築き、大高城に圧力を加える。永禄2年(1559年)、朝比奈輝勝が義元の命をうけ大高城の守りに入る。
翌永禄3年(1560年)には、大高城の包囲を破りそのまま鵜殿長照が守備についた。5月18日(6月11日)夜には、大高城に松平元康が兵糧を届け、長照に代わり元康が城の守備についた。やがて信長の攻撃による義元の死(桶狭間の戦い)を確認した元康は岡崎城に引き下がったため、大高城は再び織田家の領土となった(ただしもっと早く、永禄元年(1558年)に元康の「兵糧入れ」が行われたと記す史書もある。また、永禄2年(1559年)とする史書もある。その史書の記述が間違いである可能性もあるが、大高城が今川方に落ちた直後にも元康が兵糧入れを行ったのではないか、と考える研究者もいる)。
まもなく廃城となったが、尾張藩家老の志水家が、元和2年(1616年)にここに館を設けてから代々住むようになった。この館も明治3年(1870年)に売却された。
昭和13年(1938年)に国の史跡に指定され、現在は「大高城址公園」として整備されている。かつては二重の堀が張り巡らせてあったというが、現存する主な遺構は、本丸及び二の丸の曲輪跡、それらの間に存在する土橋と空堀などである。また本丸隅の一段高くなった区画には城山八幡社と、明治40年(1907年)に建てられた城址碑がある。近辺には、弘治2年(1556年)に大高城主水野大膳が父の水野忠氏(和泉守、籐九郎近守)を弔うために建てた曹洞宗寺院、春江院がある。
「史跡 大高城跡」石碑 – 城跡入口に設置。後ろは林で特に遺構はない。
登り口 – 左手に土塁が残る。
二の丸跡 – 鷲津砦と丸根砦が遠望できる。
本丸跡 – 緑林公園となっている。地面は芝・草・落葉に覆われ土塁のような痕跡はない。春は桜が咲く。
曲輪 – 二の丸から降りた所にある。
支城・近隣施設
丸根砦跡 – 石碑と案内板。桶狭間の戦いの前哨戦が行なわれた。
鷲津砦跡 – 同上。
鷲津砦
城郭構造 平山城
築城主 織田信長
築城年 1559年(永禄2年)
廃城年 1560年(永禄3年)
指定文化財 国の史跡(附)
鷲津砦(わしづとりで)は、現在の愛知県名古屋市緑区大高町にあった中世の砦(城館)である。
1559年(永禄2年)に織田信長によって築かれ、翌1560年(永禄3年)には桶狭間の戦いの前哨戦が本砦を巡って行われている。大高町のうち、字鷲津山の丘陵がその故地とされ、1938年(昭和13年)12月14日に大高城跡が国の史跡に指定された際、丸根砦跡と共に約1.455ヘクタール(1町4反6畝22分)の範囲が「附(つけたり)」として指定されているが、正確な所在地ははっきりしていない。
JR東海道本線 大高駅から東に約200メートル、西方へ舌状に延びた丘陵の頂部付近に位置する。大高城跡からは北東に約700メートル、丸根砦跡からは北北西に約600メートルの距離にある。
16世紀なかば、尾張で勢力を伸ばしていた織田信秀の死後、子の信長が跡を継ぐと、それまで織田方に従っていた鳴海城主の山口教継が織田方を見限って駿河の今川義元に与し、結果として義元は大高城を手中にする[注 1]。そこで信長は、鳴海城に圧力をかけるために丹下砦・善照寺砦・中島砦を築き、さらに大高城と鳴海城との往来を遮断するために築いたのが、丸根砦と当砦であったとされる。当砦には守将として織田秀敏と飯尾定宗・尚清父子が置かれると共に、520騎が配置されたともいう(『中古日本治乱記』)。しかし永禄3年5月19日(1560年6月12日、桶狭間の戦いが行われた当日)早暁、今川方の重臣であった朝比奈泰朝率いる2,000人の軍勢が攻撃を開始、門扉や営柵に火が放たれて激戦となり、立てこもっていた飯尾定宗らはことごとく死傷、残兵も清洲方面へ敗走し、午前10時頃までには陥落したという。
『寛文村々覚書』(17世紀)や『張州府志』(1752年(宝暦2年))、『尾張志』(1844年(天保15年))は、「鷲津古城」として東西14間(約25メートル)・南北15間(約27メートル)の規模を示す。他方で、徳川家(蓬左文庫)所蔵の『尾州知多郡大高之内鷲津丸根古城図』は、約37メートル四方の曲輪に東西約30メートル、南北約16メートルの曲輪が幅約3メートルの堀に囲まれて南北に並ぶという詳細な構造を記している。また『日本城郭大系』は、標高35メートルの丘上に東西約35メートル・南北40メートルの規模を持ち、堀を有していたという記録に触れているが、出典をつまびらかにしていない。
鷲津砦跡の指定地は、長寿寺本堂の背後にあたる鷲津砦公園およびその東に広がる雑木林として保存されているが、測量調査や発掘調査はなされておらず、城館の遺構を確認することはできない。指定地が指定される以前より個人が「鷲津砦阯」碑を建立しているが、1929年(昭和4年)発行の『愛知県史蹟名勝天然記念物調査報告』で若山善三郎は「大体この辺を想像したるに過ぎず。」とし、当該地である字「鷲津山」のほかに字「鷲津」地内にも候補地があることを述べている。『古城図』に記された遺構を字「鷲津山」の指定地に比定することは困難であり、現状では、指定地の北隣にあたる字「鷲津」地内の丘陵(明忠院裏山)が砦跡の候補地として最も有力であるとされている。
丸根砦
城郭構造 平山城
築城主 織田信長
築城年 永禄2年(1559年)
廃城年 永禄3年(1560年)
指定文化財 国の史跡
丸根砦(まるねとりで)は、愛知県名古屋市緑区にあった砦。
織田信長によって築かれ、桶狭間の戦いの前哨戦が行われた。大高城や鷲津砦の跡とともに国の史跡に指定されている。
永禄2年(1559年)、織田信長が今川義元との領土争いの前線として鷲津砦や善照寺砦とともに整備した。場所は、鷲津砦の東南400メートル、大高城からは東に約800メートルに位置し、鳴海から延びた丘陵の先端に築かれ、東西36メートル、南北28メートルの砦の周囲を、幅3.6メートルの外堀が囲んでいる。
永禄3年5月19日(1560年6月12日)、桶狭間の戦いの前哨戦が行われ、佐久間盛重を将とする織田軍が立てこもったが、松平元康率いる今川軍に敗れ全滅したといわれている。その後、三河で独立した徳川家と織田家が同盟関係になったため存在意義を失い、そのまま放棄された。
周辺は住宅地となっているが、砦のあった丘の上は史跡として整備され記念碑や殉難烈士の碑が立っている。曲輪や堀が良好に残っている。
亀崎渡船場跡・大店坂跡
あまたの船と人が行き交った海運の要所。まだ衣浦大橋がなかった昭和31年(1956)以前、三河方面への交通手段は渡し船でした。江戸のころの知多半島は、上方に次ぐともいわれた酒の製造地帯であり、なかでも亀崎には50以上の酒蔵があったといいます。そして出来上がった酒や、三河の瓦などを船で江戸へ運んでいました。
江戸後期から明治初期にかけての亀崎は小江戸と呼ばれるほど賑わった町。当時は番屋(番人のいる小屋)があり、明治以降は切符売場、事務所、待合所として使用されていました。衣浦大橋が開通した後は、「燈明台」と称する4メートルの大きな常夜燈が残るのみとなりました。この燈明台は文化5年(1808)のもの。亀崎渡船場跡は昭和54年(1979)に半田市の史跡に指定されています。
また、この場所には大きな商店が並ぶゆるやかな坂「大店坂」があり、潮干祭で山車を浜へ曳き下ろす地点でした。現在でも山車は同じ場所を通って亀崎海浜緑地へ進み、波間へ。そこで祭り最大の見せ場をむかえます。
神前神社
愛知県半田市亀崎町2丁目92番地にある神社。社格は旧県社であり、地元では県社と呼ばれて親しまれている。祭礼として亀崎潮干祭を開催している。
東海地方では数少ない「子供の神様」を祀ることで知られ、七五三の時は大いに賑わう。6月には井戸を覗いて虫封じをする神事の「虫封祭」が挙行される。
祭神
神倭磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)
歴史
社伝によれば、神武天皇は東征の途中に伊勢国から船でこの地に上陸した
この逸話による神嵜(かんざき)が亀崎(かめざき)という地名の語源とされる。
上陸地点は天神洲(てんじんす)と名付けられ、小祠を建てて産土神として崇敬されたのが本社の創始である。
慶長17年(1612年)、神武天皇が使ったという伝承のある井戸がある現在地に遷宮した。この井戸は「神の井」と呼ばれ、拝殿の裏に残っている。現在の境内は高台にあり、強風や大波の被害を受けにくいとされる。
当初は神前天神と称していたが、やがて亀崎神社に改称した。1871年(明治4年)、近代社格制度による郷社に列せられた。1885年(明治18年)には亀崎神社から神前神社に改称し、県社に昇格した。太平洋戦争後には近代社格制度が廃止されたが、現在でも神前神社は県社の名称で親しまれている。
潮干祭の起源
毎年5月初旬の2日間にわたり開催される、潮干祭。
祭りの起源は定かではなく、
一説には応仁・文明の頃(15世紀後半)亀崎の地に移り住んだ18軒の武家の発起により荷車様の物に笹竹を立て、神紋を染め抜いた幕を張り、囃子を入れて町内を曳き廻したのが起源とする伝承もあります。
最近の専門家による調査では各種史料によって元禄~宝暦年間(17世紀末から18世紀前半頃)まではその歴史が確認でき、少なくとも300年以上に亘って祭の風格・伝統がしっかりと受け継がれてきたことが明らかになりました。
レナ川の柱群は、ロシア連邦のシベリア極東部、レナ川沿いに見られる自然岩の地形であり、サハ共和国の首都ヤクーツクから上流約180キロメートル、ボートで1日もかからない距離の場所に存在している。
柱群の高さは150メートルから300メートルで、カンブリア紀の海盆の隆起と、100度にもなる年較差がもたらす浸食作用で形成されたものである。
一帯は1995年にレナ石柱自然公園(レンスキエ・ストルブイ自然公園)に指定され、2012年にはそれがUNESCOの世界遺産リストに登録された。
石柱群はカンブリア紀初期から中期にかけての石灰岩、泥灰土、ドロマイト、粘板岩などの層から成り、浸食作用によって険しく露出している。
これらの類型の岩々は、一般に海洋環境で形成されたものであり、水平方向の層状構造および垂直方向の変化は、深海にあったことを示す粘板岩とともに、海進や海退の様子を示している。
石柱群を形成した浸食作用は結氷砕石作用 (Cryoclastie) と呼ばれ、極端な大陸性気候がもたらす夏と冬の100度にもなる温度差の開きがもたらしたものである。
凍結と解凍の作用で、水は表面から細い溝を穿ち、少しずつ岩の最も硬い部分を引き剥がし、現在残るような石柱群を形成したのである。
レナの柱群は、カンブリア紀の化石産地としても重視されている。
小林城は牧下野守長義(義清)の子、牧若狭守長清の居城。長清は織田信長の妹で「お市の方」の姉にあたる「おとくの方」を正室に迎えたことで知られている。1570年(元亀元年)に長清が没すると廃城となり、その後、江戸時代には尾張藩2代藩主・徳川光友(光義)の剣術指南役をつとめた柳生兵庫助利厳の屋敷となった。現在城址には1701年(元禄14年)に建立された清浄寺が残っており、名古屋城から移されたとされる矢場地蔵のほか、牧長義夫妻、牧長清夫妻の墓がある。