半田 亀崎

亀崎渡船場跡・大店坂跡
あまたの船と人が行き交った海運の要所。まだ衣浦大橋がなかった昭和31年(1956)以前、三河方面への交通手段は渡し船でした。江戸のころの知多半島は、上方に次ぐともいわれた酒の製造地帯であり、なかでも亀崎には50以上の酒蔵があったといいます。そして出来上がった酒や、三河の瓦などを船で江戸へ運んでいました。

江戸後期から明治初期にかけての亀崎は小江戸と呼ばれるほど賑わった町。当時は番屋(番人のいる小屋)があり、明治以降は切符売場、事務所、待合所として使用されていました。衣浦大橋が開通した後は、「燈明台」と称する4メートルの大きな常夜燈が残るのみとなりました。この燈明台は文化5年(1808)のもの。亀崎渡船場跡は昭和54年(1979)に半田市の史跡に指定されています。

また、この場所には大きな商店が並ぶゆるやかな坂「大店坂」があり、潮干祭で山車を浜へ曳き下ろす地点でした。現在でも山車は同じ場所を通って亀崎海浜緑地へ進み、波間へ。そこで祭り最大の見せ場をむかえます。

神前神社
愛知県半田市亀崎町2丁目92番地にある神社。社格は旧県社であり、地元では県社と呼ばれて親しまれている。祭礼として亀崎潮干祭を開催している。
東海地方では数少ない「子供の神様」を祀ることで知られ、七五三の時は大いに賑わう。6月には井戸を覗いて虫封じをする神事の「虫封祭」が挙行される。

祭神
神倭磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)

歴史
社伝によれば、神武天皇は東征の途中に伊勢国から船でこの地に上陸した
この逸話による神嵜(かんざき)が亀崎(かめざき)という地名の語源とされる。
上陸地点は天神洲(てんじんす)と名付けられ、小祠を建てて産土神として崇敬されたのが本社の創始である。
慶長17年(1612年)、神武天皇が使ったという伝承のある井戸がある現在地に遷宮した。この井戸は「神の井」と呼ばれ、拝殿の裏に残っている。現在の境内は高台にあり、強風や大波の被害を受けにくいとされる。
当初は神前天神と称していたが、やがて亀崎神社に改称した。1871年(明治4年)、近代社格制度による郷社に列せられた。1885年(明治18年)には亀崎神社から神前神社に改称し、県社に昇格した。太平洋戦争後には近代社格制度が廃止されたが、現在でも神前神社は県社の名称で親しまれている。

潮干祭の起源
毎年5月初旬の2日間にわたり開催される、潮干祭。
祭りの起源は定かではなく、
一説には応仁・文明の頃(15世紀後半)亀崎の地に移り住んだ18軒の武家の発起により荷車様の物に笹竹を立て、神紋を染め抜いた幕を張り、囃子を入れて町内を曳き廻したのが起源とする伝承もあります。

最近の専門家による調査では各種史料によって元禄~宝暦年間(17世紀末から18世紀前半頃)まではその歴史が確認でき、少なくとも300年以上に亘って祭の風格・伝統がしっかりと受け継がれてきたことが明らかになりました。

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