ジャン=ベロー (Jean Béraud)

ジャン・ベロー(1848年1月12日〜1935年10月4日)は、ロシア サンクトペテルブルクで生まれ、フランス パリで活動した印象派の画家でレジオンドヌール勲章 (1894年)を受賞した。

写実的な作風で、パリの都市風景や、上流階級の生活などを多く描き、印象派とは対極的な位置にいるようにも見える。エドゥアール・マネと交流があったようで、初期は印象主義的な作風だったといわれる。

パリで法律を勉強後、ボナのスタジオで美術を勉強。パリの日常生活を描きアカデミー派の流行画家として名声を得る。1878年にカイユボット邸でのパーティの様子を描く。

ギュスターヴ・カイユボットとは年齢も1歳差で、法律を学んだ後に、レオン・ボナに師事する。カイユボット家を舞台に《夜会》[1880年 個人蔵]という作品を描いている。

ポール・ドラローシュ(Paul Delaroche)

ポール・ドラローシュ(Paul Delaroche.1797年7月17日 – 1856年11月4日)、本名はイッポリト・ド・ラ・ローシュ(Hippolyte De La Roche)日本ではドラロッシュ、ドラロシュとも表記されるフランスの画家。画面は堅牢かつ平滑、きわめて精緻に仕上げられているとの印象を与える。

このような絵肌は当時一般的だった様式で、オラース・ヴェルネ、アリ・シェフェール、ルイ=レオポルド・ロベール、アングルの作品にも見られる。歴史画で知られているが、常に歴史的に正確であったわけではなく、どちらかと言えば劇的な効果を狙った作品が多い。父は美術鑑定家、兄はアントワーヌ=ジャン・グロ門下で絵画を学んだ後、自身も鑑定家となった。1816年、パリ国立美術学校に入学、はじめルイ=エティエンヌ・ヴァトレ、ついで兄の師グロのもとで絵画修行を積む。

ドラローシュは理想によって悩むことはなく、それを気取ることもなかった。しかし厳しい製作は彼と彼の中心思想との間に何の神秘も介在することを許さなかった。常に大衆に対してわかりやすく、カンヴァス上で詩人になろうとし苦しみ画家たちが全て精力を消耗することから、彼が逃げたせいであった。キリスト教信仰の創始者、彼と同時代を生きたナポレオン・ボナパルトのような人物、遠い歴史上の人物を描くことで本質的には同じ手法が彼により用いられた。『フォンテーヌブローのナポレオン』、『セント・ヘレナ島のナポレオン』、『死刑宣告の後法廷を発つマリー・アントワネット』などである。

1837年、パリ国立美術学校内の半円型講堂(Hémicycle)の壁に設置する27メートルにも及ぶ大作の依頼を受けた。全ての時代の75人の偉人を描いた作品で、白大理石のステップの中央線から一方には一つの集団が集まり、最高部の3つの王座をパルテノン神殿創設者ペイディアス、イクティノス、アペレスが占めている。彼らは3つの芸術の統合を象徴している。

パリ、サン・ラザール駅(Gare Saint-Lazare)

パリの主要ターミナル駅の1つサン=ラザール駅(Gare Saint-Lazare)は、1837年8月26日の開業である。パリのターミナル駅で一番古い歴史を持ち、都心部に近く利便性も高くデパート街オスマン通りやオペラ座にも近い。駅舎正面には4つ星のターミナル・ホテルを構えるが老朽化し、駅舎内部はひどく傷んでいる状態でもある。

1日の利用者数は約45万人、年間1億人とも言い、パリではパリ北駅に次ぐ利用者数のターミナル駅である。ただし、近郊列車の利用が大半を占め、TGVの発着もない。地元の人々の日常的な利用が多く観光客は目立たず、パリのターミナル駅の中では華やかさが薄い。駅舎側面よりウロップ橋方面へ続くローマ通りにはパリ音楽院の旧校舎があったため、現在は楽譜屋・楽器屋街となっている。

1998年、併設地下駅のオスマン=サン=ラザール駅(Hausmann-Saint-Lazare)が開業し、RER-E線の終着駅となる。2003年12月、全自動運転の最新メトロ14号線がサン=ラザール駅まで延伸し、駅正面ファサードの左端に球形ガラス張りの新たなメトロ入り口が生まれ、メトロ地下駅の内装も全面改装される。2012年3月、サンラザール駅付属のショッピングモール、サンラザール・パリがオープンし、3フロアにわたる10000平米 の広さの中に約70軒もの店舗が入る大規模ショッピングモールとなる。このモールには2つのスーパーマーケット、スターバックス、そして最新または定番人気のブティックや飲食店が勢揃いする。

ジャン=バティスト・カミーユ・コロー(Jean-Baptiste Camille Corot)

ジャン=バティスト・カミーユ・コロー(Jean-Baptiste Camille Corot 1796年7月17日 – 1875年2月22日)は、詩情あふれる森や湖の風景画で知られるが、その一方で、『真珠の女』のような人物画にも傑作がある。1825年から計3度イタリアへ旅行し、イタリア絵画の明るい光と色彩にも影響を受けている。理想化された風景でなく、イタリアやフランス各地のありふれた風景を詩情ゆたかに描き出す手法はのちの印象派の画家たちにも影響を与えた。

自然に即した風景画家として注目を浴び、のちのバルビゾン派の聖地となるフォンテーヌブローも森も早くから描いた。詩的な画風で、作品も国家買上げとなる。55年パリ万博美術展でグランプリに輝き、その後、色調が銀灰色を帯びた叙情的な神話の風景画が多くなつてゆく。ドーミエら貧しい画家たちに援助を与え、ペール・コロー(コロー親父)と慕われた。若い世代の印象派画家にも大きな影響を与えた。

ゴッホ展 巡りゆく日本の夢

19世紀末に活躍し、今もなお世界中で絶大な人気を誇る芸術家フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)は、ジャポニスムの只中にあった19世紀のパリで日本に関する文献や浮世絵と出会い夢中になり、彼にとって日本は創意の源であり理想郷であった。

一方1920年代、日本の芸術家や知識人がファン・ゴッホに憧れ、その墓のあるフランスのオーヴェール=シュル=オワーズを巡礼した。ファン・ゴッホ美術館との共同企画で、油彩画やデッサンに加え、浮世絵やオーヴェール巡礼に関する資料などによりゴッホの魅力が紹介されている。

展覧会の構成 

[第1部 ファン・ゴッホのジャポニスム] 

ファン・ゴッホは、日本から如何なる影響を受け、如何なるイメージを抱いていたのか。

国内外のコレクションから厳選したファン・ゴッホ作品約40点と、同時代の画家の作品や浮世絵など50点あまりによって、その実像を多角的に検証する。

オランダに生まれたフィンセント・ファン・ゴッホは、1886年にパリに移り、この地でさまざま刺激を受けながら、自らの絵画表現を模索した。

そこで大きな役割を果たしたものが、日本の浮世絵で、ファン・ゴッホは浮世絵版画を収集し、それを模写した油彩画を描き、構図や色彩を学び取り、浮世絵をはじめとする美術作品や日本を紹介した文章を咀嚼しながら、独自の日本イメージを醸成していった。

1888年には、芸術家たちの共同体を作ろうと南仏のアルル へ赴き、大いなる期待を胸に訪れたこの地を、しばしば日本と重ね合わせている。

[第2部 日本人のファン・ゴッホ巡礼] 

ファン・ゴッホが最晩年に交友を持ったオーヴェールの医師ガシェの一族のもとには、3冊の芳名録が残され、1920年代に憧れの画家の終焉の地を訪れ、その足跡をたどった日本の画家や文学者たち240名あまりの署名が記されている。

最初期における日本人のファン・ゴッホ巡礼を、ガシェ家の芳名録に基づいた約90点の豊富な資料によってたどり、日本を夢想したファン・ゴッホと、ファン・ゴッホに憧憬した日本人の交差する夢の軌跡である。

藤前干潟

名古屋港西南部の庄内川、新川と日光川の河口が合流する名古屋市港区藤前地区の地先に広がる干潟で、面積はおよそ350 ha。潮位が名古屋港基準面で70 cm以下になると、干潟が海面の上にあらわれる。伊勢湾に残る最後の大規模な干潟で、シギ・チドリ類、オナガガモ・スズガモのカモ類などの渡り鳥の飛来地として有名。

2002年(平成14年)11月1日に国指定藤前干潟鳥獣保護区に指定(面積770 ha、うち特別保護地区323 ha)、同年11月18日にラムサール条約に登録された。1950年代以前には藤前干潟がある伊勢湾最奥部には広大な干潟が広がっていたが、港湾開発・工場用地・農業用地の埋立開発により、そのほとんどが消滅した。

名古屋市愛岐処分場(岐阜県多治見市)が2001年に満杯予定であったことから名古屋市が藤前干潟の一部を埋立る開発計画を立てたが、環境庁や住民団体などの反対により埋立は撤回された。干潟には不法投棄や河川の上流から漂流ゴミが多く、アシ原などの窪地などに大量のゴミが堆積している。クリーン大作戦などの清掃活動が行われているが、流入するゴミに対応し切れていない。