今渡ダム (岐阜県美濃加茂市)

木曽川とその支流飛騨川との合流点直下に位置し、上流側から見て左岸は岐阜県可児郡今渡町大字今渡字西野、右岸は加茂郡古井町大字下古井字赤池飛地に位置する。

関西電力株式会社の水力発電専用、重力式コンクリートダムで、完成は1939年(昭和14年)。ダムとしては木曽川最下流にあり、上流での水力発電によって変化した河川流量を自然の状態に戻して下流へ放流する逆調整の機能を担う。

構造

今渡ダムの形式は、越流・直線型重力式コンクリート、堤高(基礎岩盤からの高さ)は33.4メートル、堤頂長(頂上部長さ)は308.0メートル。上流側がほぼ垂直となる断面であり、頂上部の幅8.8メートルに対し接地部の最大幅は25.695メートルとなっている。頂上部の標高83.3メートルに対し、満水位は70.5メートルに達する。ダムには、上下に開閉するローラーゲートが計20門設置され、うち19門は排水ゲートで、径間12メートル・高さ9メートル、残る1門は径間6.8メートル・高さ11メートルの排砂ゲート。ダムによって形成される調整池の総貯水量は947万200立方メートル、うち利用水深3メートル以内の有効貯水量は392万2200立方メートルとなっている。湛水面積は1.5平方キロメートルに及ぶ。

名古屋から約30分の秘境駅「定光寺駅」

中央線の名古屋に近い区間は、ベッドタウンと都市部を結ぶ通勤路線でもあるが、春日井市の高蔵寺を過ぎると、一気に険しい山間の景観となる。岐阜県多治見までの県境越えの路線区間は、線路は崖に張り付く様に進む。民家も少ない区間であり、ここに定光寺駅や古虎渓駅が存在している。定光寺駅は特に地形が険しい場所に造られ、中央線の愛知県内区間で末端の駅である。

玉野川(庄内川)の渓谷右岸に立地し、川沿いの崖にへばり付くようにつくられた定光寺駅は、隣の古虎渓駅と同じく、1時間に数本程度電車が停車する。名古屋駅から30分程度、秘境気分が満喫できる駅として知られている。かつては旅館やホテルが軒を並べていた、ホームから見る景色は風光明媚でもある。

千歳楼

愛知県春日井市玉野町、中央線定光寺駅近郊にかつて存在した旅館であるが、現在は心霊スポットとして知られる。1928年(昭和3年)に創業され、2003年に6億円の負債を抱えて倒産した。玉野川渓谷(庄内川渓谷)に面する場所に位置し、かつては名古屋の奥座敷とも呼ばれた。千歳楼の客のなかには政府系金融機関の総裁をはじめ、事業家、高僧、文人などもいたといい、多数の芸者が呼ばれたという。1980年代には「陶芸作家がよく利用する場所」ともなっていて、当時の千歳楼の女将は陶芸作家との交流があり、加藤唐九郎、河本五郎、加藤卓男といった著名な陶芸作家の作品が旅館に置かれていたという。最盛期の1994年には年商10億円近くを記録したこともあったが、その後、来客数は減少し、付近に最も多い時で8軒あった旅館は、すでに1999年時点で千歳楼を含めて2軒にまで減少した。

定光寺

瀬戸市定光寺町にある臨済宗妙心寺派の寺院、山号は応夢山(おうむざん)、本尊は延命地蔵願王菩薩(地蔵菩薩)である。桜や紅葉の名所としても知られ、寺域に隣接して尾張徳川家初代徳川義直の廟所である源敬公廟がある。しかし、尾張徳川家の菩提寺ではない。

建武3年(1336年)
覚源禅師(平心處齊)が籐左衛門尉の案内で尾張国山田荘水野郷を訪れ、この地方の領主であった水野致国と美濃国小田の山内入道が開基檀越となり、臨済宗建長寺派の寺院として創建した。

慶安2年(1649年)
喝堂全用が妙心寺派寺院として再興した。

慶安3年(1650年)
尾張徳川家初代徳川義直が没すると、寺域に隣接する山林にその翌年から3年をかけて源敬公廟(徳川義直廟墓)が造営され、尾張徳川家の庇護を受けるようになった。

寺域に東接する、尾張徳川家初代徳川義直の廟所で、源敬公(げんけいこう)は義直の諡号(しごう)である。廟所正面に竜の門があり、その左右に築地塀が伸び、塀で囲まれた内側に焼香殿と宝蔵、その先に唐門があり、唐門の奥に義直の墓標が立つ。義直の墓は慶安4年(1651年)、焼香殿などの周囲の建物は翌承応元年(1652年)に建立されたもので、参道途中にある獅子の門は元禄12年(1699年)の建立である。焼香殿、宝蔵などは禅宗様を基調とし、中国風の装飾を施している。建物6棟と墓1基が重要文化財に指定されている。義直の墓に石垣をめぐらせたうちの1枚をはずすと、数百万両の軍用金が埋蔵してあるという伝説がある。

岩崎城(愛知県日進市岩崎町)

尾張国愛知郡(現在の愛知県日進市岩崎町)に存在した戦国時代の日本の城(平山城)である。台地の先端部を堀切で分断して平山城を形成し、周囲を土塁・空堀・帯曲輪で囲まれる。本丸には、東南部に建造物・西北に人工的に土を盛り上げて作った櫓台(標高・約66メートル)が備わっていた。本丸の馬出とも言える二の丸など、いくつかの曲輪が本丸の周囲を固めていた。空堀は当初は薬研堀であったが、後に一部は箱堀に作り変えられていたことが調査で判明している。

室町時代末期(15世紀末から16世紀前葉ころ)に築城され、慶長5年(1600年)に廃城となった。古い記録によると尾張国勝幡城(現・愛知県愛西市)主・織田信秀(織田信長の父)の支城だったとされる。

小牧・長久手の戦いと岩崎城の戦い

天正12年(1584年)に起きた岩崎城の戦いは、小牧・長久手の戦いのうち長久手の戦いの緒戦となった戦いである。
両軍の膠着状態を打ち破るため、秀吉方によって実行された「三河中入(なかいり)」作戦を阻止し、池田軍の進軍を止めたという点で大きな功績を残した戦いであった。
この時の当主・丹羽氏次はこの戦いで弟の氏重を失ったが、家康からの信頼を得てその後の戦いにも多くの功績を挙げることとなる。

落城後の岩崎城

長久手の戦いの後、落城した岩崎城が再建されたかは確かではない。
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで丹羽氏次は徳川方として参戦、その功績を認められ三河国伊保(現在の愛知県豊田市)1万石の大名として栄転し、岩崎城はここで廃城となる。

現在の岩崎城

廃城後は3百年以上も整備されることは無く、本丸跡は畑となっていた。明治43年(1910年)に旧尾張藩士らの手により、岩崎城の戦いで戦死した丹羽軍将兵を慰めるため、「表忠義」の題を持つ記念碑が本丸の櫓台に建てられた。

「表忠義」
岩崎城在名古屋之東南距岡崎北距小牧各数里小牧之役城主丹羽氏次従徳川氏之軍弟氏重留守敵将池田信輝欲襲岡崎間道潜兵過其城下氏重年甫十六患痘臥蓐聞敵至蹶然執刀而木起母氏見之喜歎交至謂日汝兄従軍汝以死禦敵我興汝共死不以為憾也取鎧授氏重拝謝揮老幼婦女避干城外妙仙寺跨白馬提長槍而出士卒感奮里民工商懐・・・

昭和62年(1987年)には、展望塔として五重構造の天守閣(模擬天守)が築城、「岩崎城址公園」として整備され、併設する岩崎城歴史記念館には岩崎城の歴史や城跡からの出土品などが展示されている。

整備中に偶然発見された6世紀ごろの古墳の跡も公園内に展示されている。

その他、二の丸には水琴窟を持った日本庭園が造られている。



船頭平閘門

船頭平閘門(せんどうひらこうもん、せんどひらこうもん)は、愛知県愛西市立田町福原にある。木曽川・長良川・揖斐川のいわゆる木曽三川は下流部では合流しており、そのために洪水など災害が絶えなかったので、三川分流工事が明治時代に行われた。この結果、かつては木曽川から長良川の対岸まで行けたものが、わざわざ河口地域まで迂回する必要が生じた。

当時は橋もほとんどなかったため物資輸送などの面で支障が出ることが予想された。そのため、木曽三川分流工事が開始された1892年(明治25年)の2年後にあたる1894年(明治27年)に木曽川と長良川の間をつなぐ水路の建設が決定した。

当時、両河川の水面の高低差が約1メートルあったこともあり、閘門によりその調整を行うことにした。1899年(明治32年)に着工、1902年(明治35年)に船頭平閘門が完成した。閘門の長さは約36メートル、幅は約5メートル半。工費は154,836円11銭9厘(現在の貨幣価値で約5億円)。

完成した当時は年間約2万隻の船の通過があったというが、その後は木曽三川の架橋などによる物流の変化などによって減少し、現在では年間200隻余り、それも漁船やレジャーボートなどがほとんどとなっている。

吉田城 (豊橋)

吉田大橋は東海道では数少ない大きな橋で、川に面した城郭と橋を同時に描くことができる吉田城は、東海道でも屈指の景観として多くの絵師に描かれた。歌川広重の『東海道五十三次』の中で、橋と城が同時に描かれているのは、吉田と岡崎だけである。

戦国時代、16世紀初頭にその前身が築城された。三河支配の重要拠点の1つとして機能し、江戸時代には吉田藩の政庁としての役割を果たした。築城当初、今橋城と呼ばれ、明治維新後、吉田から豊橋の改名に伴い豊橋城とも呼ばれた。

今川義元は駿河から城代を派遣し、支配力を強化する。東三河の国衆にも城代を補佐させて統治協力を強いたが、義元が桶狭間の戦いで討たれると支配力は低下し、永禄8年(1565年)、今川氏を離反した松平家康によって攻略され、今川氏は三河支配権を喪失する。天正18年(1590年)、豊臣秀吉により家康が関東に移封されると、池田輝政が東三河4郡を統べる15万2千石の城主となった。

本丸、二之丸、三之丸。総構えを含めた敷地は、名古屋城などよりも広大で、「加賀百万石」の金沢城(城域面積約30万㎡)に対して、15万2千石の吉田城は約84万㎡であった。1954年(昭和29年)、本丸北西の鉄(くろがね)櫓址に櫓が模擬再建され、公園化された本丸から三の丸には石垣、土塁、堀が残る。本丸石垣は池田輝政時代の石垣であることが判明している。

小里川ダム、道の駅 おばあちゃん市・山岡

小里川ダム(おりがわダム)は、岐阜県瑞浪市と岐阜県恵那市にかかる、一級河川・庄内川支流の小里川に建設された。小里川は天瀑山(標高777m)を水源とする庄内川の支流の一つで、大正時代より3箇所の水力発電所が設置されていた。

現在、国土交通省中部地方整備局が管理を行う国土交通省が直轄する。高さ114.0メートルの重力式コンクリートダムは、洪水調節・環境維持・発電などを目的とする、ダムによって形成された人造湖はおりがわ湖と命名された。

かつて、小里川は氾濫が多く、被害を防ぐためにダムが計画され、1969年(昭和44年)より予備調査、1979年(昭和54年)に着工、2004年(平成16年)3月31日に竣工した。地域に開かれたダムに指定されダムの内部が一般に開放されている。

ダム周辺は、「ふれあい館・ダム右岸部地区」、「原石山地区」「モダンパーク地区」、「ダム左岸部地区」として整備され、ウォーキングコースもある。ダム近くにある道の駅おばあちゃん市・山岡には、小里川発電所の完成により廃止された水力発電所に使用されていたという石造アーチ橋「興運橋」が移設保存されている。

吉良ワイキキビーチ

忠臣蔵で有名な、吉良上野介の地元でもある愛知県西尾市吉良町には、白い砂浜と椰子の木の南国情緒を感じさせる宮崎海水浴場がある。平成18年6月にハワイ州の観光局から許諾を得て、宮崎海水浴場と恵比寿海水浴場を合わせて「吉良ワイキキビーチ」と呼ぶようになった。

宮崎海水浴場は水質良好で景観も優れ、平成13年に環境省選定の「日本の水浴場88選」に選ばれ、ゆったりとした時間を楽しむことがでる。吉良ワイキキビーチの背後には、800名宿泊可能という規模の巨大なリゾートホテル三河湾リゾートリンクスがそびえ立つ。吉良には天然温泉も湧いて、他には吉良観光ホテル、竜宮ホテル、旅館、民宿などが十数軒ほどある。

犬山、入鹿池の桜

入鹿池は、愛知県犬山市の入鹿、飛騨木曽川国定公園内にある人工の農業用ため池で、犬山市や小牧市、丹羽郡の町へ灌漑用水がのびている。池の周囲を北は今井山、南西は本宮山・尾張富士・白山の尾張三山が囲み、池畔には博物館明治村がある。ボート、ワカサギ釣りも楽しめる観光地で、池の周囲には、尾張パークウェイ、県道16号、県道49号などが通る。農林水産省のため池百選に選定され、国際かんがい排水委員会による世界かんがい施設遺産にも登録され、香川県の仲多度郡まんのう町にある満濃池と一二を争う規模である。

形式 – 土堰堤
堤高 – 26.9m
堤長 – 120.0m
周囲 – 約16km
貯水量 – 15,187,786m3(満水時、転倒ゲート起立時の貯水量は16,810,863m3)
満水面積 – 152.1ha
灌漑面積 – 1,369町
水源 五条川、成沢川、郷川

寛永5年(1628年)、後に「入鹿六人衆」と称される6人の男たちが付家老であった犬山成瀬家を経由して尾張藩に入鹿池の開発届を出し、認可された。

年表
縄文時代後期(紀元前1000年頃) – 入鹿池遺跡
535年 – 入鹿屯倉設置
寛永5年(1628年) – 入鹿池築造計画申し出
寛永9年(1632年) – 本格的に築造着工
寛永10年(1633年) – 築造完了
明治元年(1868年) – 入鹿切れ発生(→#入鹿切れ)
大正13年(1924年) – 水争議発生
昭和19年(1944年) – 新放水路完成
昭和33年(1958年) – 愛知用水公団へ加入
昭和35年(1960年) – 新取水塔建造
昭和52年(1977年) – 防災ダム事業計画はじまる
昭和54年(1979年) – 防災ダム工事着工
平成3年(1991年) – 防災ダム工事完成
平成17年(2005年) – 愛知用水二期事業により愛知用水と導水管でつながれる。

犬山城の桜 2018年

犬山城の桜の種類はソメイヨシノ、本数は約400本。
天守閣からは、城の桜はもとより、1kmほどの本町通り、犬山橋までの木曽川沿いをはじめとする桜模様が見渡せる。城下町には、屋台のような串ものグルメを販売しているお店も点在していて、桜を眺めながらの食べ歩きも楽しめる。犬山城は、1年中、日没から22時くらいまでの時間はライトアップされる。美しく浮かび上がる夜桜と犬山城を見ることもできる。

大塚海浜緑地(ラグーナビーチ)

かつては、大塚海水浴場として海水浴客や潮干狩り客で多数の観光客が訪れたが、時代の変遷とともに周辺環境の変化等により海浜が少しずつ減少した。昔のような美しい砂浜を復活させ海辺での憩いの場を提供するため、愛知県が制定する三河湾港湾計画により整備された大塚海浜緑地は、愛知県蒲郡市海陽町の人工海浜緑地で、ラグーナテンボスに隣接する。愛知県が整備し、指定管理者制度により蒲郡海洋開発が管理・運営を行う。

所在地:〒443-0014 愛知県蒲郡市海陽町2丁目39番
種類:レクリエーション緑地
面積:約121,400平方メートル(海浜24,400平方メートル含む)
主な施設:多目的広場、芝生広場、駐車場、人工海浜
有料施設:駐車場320台(普通車600円、大型自動車1,800円)
主な施設管理:駐車場管理、清掃、緑地管理など