チベット仏教寺院 強巴林(名古屋市守山区青葉台)

強巴林(チャンバリン)は、名古屋市守山区青葉台に所在するチベット仏教の寺院。チャンバリンとは、チベット語で弥勒寺を意味し、日本で唯一のチベット仏教寺院とされる当寺の住職がジョカン寺に修行した際に、日本に寺院建立を請われたことにより、2005年(平成17年)に当地に建立された。建物は修行したジョカン寺の建物を模しており、本尊も同様に模しているという。

名古屋港サイクリングロード

名古屋港サイクリングロードは富浜緑地とウッドフレンズ名古屋港ゴルフ倶楽部の外周及び楠緑地を縦断する、全長約17.7kmに渡って整備された自転車専用道路である。富浜緑地では3月から11月までの土曜日・日曜日・祝日に自転車の貸し出しもされており、緑地を訪れた人が気軽にサイクリングを楽しむことが出来る環境が整っている。その自転車貸出所がある富浜緑地管理棟を起点として南西方向がウッドフレンズ名古屋港ゴルフ倶楽部の外周を回る約6.7kmの周遊コースであり、北東方向が楠緑地を縦断する往復約11kmのコースとなっている。富浜緑地内はツツジ、サザンカなどの花木に、楠緑地内は桜並木や黒松並木に囲まれており、野鳥が散見される緑豊かなコースとなっている。ウッドフレンズ名古屋港ゴルフ倶楽部外周コースでは伊勢湾を一望できる。対岸にはナガシマスパーランドを望むことができる。案内板も多く設置されてある。路面の状態は良好である。各所に休憩所が設置されてある。のんびりとサイクリングを楽しむことが出来るように配慮されている。

多度峡

春は新緑、夏は川をせきとめた天然プールの水遊び、秋は紅葉、季節の彩りを楽しめる。多度大社のみそぎ場になっているみそぎ滝は高さ25メートルの飛瀑。 河鹿橋付近、梨の原種という天然記念物「イヌナシ」が自生する。毎年5月末から梅雨時にかけて、谷のあちらこちらに光を点滅させながら飛ぶゲンジボタルの姿を見ることができる。

中津川 苗木城跡

苗木城は岐阜県中津川市にあった日本の城で、別名を霞ケ城、苗木藩の藩庁が置かれた。国の史跡に指定されている。大手口道は長さ500m、高低差150mあり「四十八曲り道」といわれている。

天守台や大矢倉の石垣、馬洗岩など巨大な自然石が複数箇所で利用されているのが大きな特徴で、本丸・二の丸・三の丸などの石垣や大矢倉跡・風吹門跡・綿倉門などの門跡、堀が残っている。

「赤壁城」の別名があり、城の壁は白漆喰ではなく赤土がむき出しになっていたと伝えられる。その理由については、木曽川に住む竜が白い色を嫌い、何度漆喰を塗り直しても嵐を起こしてはぎ取ってしまったという話が残されている。実際には、苗木藩が経済的に弱体で漆喰を塗る経費が捻出できなかったと思われる(幕末期に1万石で城持ちの藩は苗木藩のみである)。

猿啄城 坂祝 日本ライン

猿啄城
坂祝町勝山にある、室町・戦国時代の城である。別名猿ばみ城、猿飛城、勝山城と呼ばれ、猿啄城跡は、坂祝町指定史跡となっている。この付近の木曽川(日本ライン)は急流で、周辺は山となっている。このため飛騨国、東濃から美濃国、尾張国への重要な地点であった。日本ライン(木曽川)の美しい流れや坂祝の町はもちろん、恵那山や中央アルプス、御嶽山、白山などの山々や、 遠く伊勢湾や名古屋ツインタワーも望むことができる。

築城時期は不明であるが、応永年間(1400年頃)、西村豊前守善政が築城する 。
1441年(嘉吉元年)、西村豊前守善政が祖母の法要の為城を留守にした際に、田志見の城主修理太夫頼吉が城を略奪する。
享禄三年 (1530年)田原左衛門城主となる。
1547年(天文16年、多治見修理が城を略奪する。



1565年(永禄8年)、織田信長が丹羽長秀を総大将として東美濃攻略を開始。丹羽長秀の先鋒であった河尻秀隆が猿啄城を攻略し、落城。城主多治見修理は斎藤氏に属する堂洞城の岸信周の下へ落ち延びた(堂洞合戦)。河尻秀隆が猿啄城城主となり、城名を「勝山城」と改称する。
1575年(天正2年)、河尻秀隆が岩村城に移り、廃城。
1997年(平成9年)12月、坂祝町が誕生100周年を記念し、二層城郭風の展望台が造られ、ハイキングコースとして整備されている。展望台からは日本ラインが見渡せる。

常滑 やきもの散歩道 大野城跡 中部国際空港

日本六古窯の一つ常滑窯、日本一の招き猫の産地として知られる常滑市に1972年頃より自然発生した観光コースである。登窯や煉瓦煙突、コールタール塗りの黒い板壁の工場など、昭和中期以前に建てられた窯業関連の施設が数多く残る栄町の丘陵地を中心に設定されている。


全長は1.5kmほどで、狭く、曲がりくねって起伏が多い生活道路であった。大型自動車の通行に向かないため開発の手が入らず、遺構・街並みが保存された。土管や瓶を積み重ねた「土管坂」のように、来訪者に楽しんでもらおうと住民が拵えたものもある。観光客の増加で、沿道では空き家がカフェや土産物店に改装される例もあり、2007年3月に「美しい日本の歴史的風土準100選」に選定された。三代将軍徳川家光の母「小督(お江)」が最初に嫁いだ大野城の跡。江は浅井長政と市(信長の義妹)の三女で、生まれ故郷・近江から一字を取って「江」と名付けられた。


江姫「小督(お江)」がわずか10歳で現在の常滑市、大野の領主・佐治一成に嫁いだ。江はその後一成と秀吉の敵対のため3年で離縁され、その後三度目の結婚で徳川二代将軍・秀忠の正室となり、三代将軍となる家光を産む。一成追放の後、城主として信長の弟・織田長益(有楽斎)が入るが、大野城の水利の悪さから、少し北の地に大草城の築城に取り掛かり、大野城は廃城となった。現在、跡地に城を模した展望台があり伊勢湾の大パノラマが楽しめる城山公園となっている。

美濃路 起宿 旧湊屋文右衛門邸

美濃路
一宮市には「鎌倉街道」「岐阜街道」などの歴史街道があるが、なかでも「美濃路」は異国文化が通る等特色の多い街道だ。
美濃路は東海道・宮宿(熱田宿)と中山道・垂井宿を結ぶ脇街道として幕府の道中奉行が支配した。

起宿
街道には宿泊や馬の乗り継ぎ等のために一定の間隔を置いて宿場が設けられた。全長14里24町15間(約57.5キロ)の美濃路には7宿あるが、中ほどにある「起宿」は木曽川の渡河を控え規模の大きな宿場だった。

定渡船
美濃路には将軍家をはじめ参勤交代の大名、朝鮮通信使、琉球使節など重要な人達が往来した。将軍や朝鮮通信使は270隻以上の船をつないだ船橋を渡った。そのほかの人は渡し船を利用した。金刀比羅社の境内に大きな常夜燈がある。

湊屋文右衛門
定渡船場で渡し船の管理、運行を任されていたのが船庄屋で、その下に何人かの「船方肝煎」がいた。そのうちの一人が湊屋文右衛門で、渡し船を扱うだけでなく年貢米輸送にもあたっていた。早くから木曽川の舟運を利用して遠隔地との取引を行い、寛政年間(1789-1801)には「縞木綿を扱う仲買商」として成長した。越前丸岡から糸を仕入れ、それを地元の機織りに売りさばき、織り上がった縞木綿を全国に売りさばいていた。

玉野用水 玉野水力発電所

玉野用水
江戸時代の享保14年(1729年)、当時の玉野村の加藤助左衛門氏が長年の水不足を解消するため、同村へ庄内川の水を引くことを提唱し、用水が開削され玉野村の20余町歩(約20ヘクタール)の水田に灌漑(かんがい)したのが始まりとされる。

その後、大正2年に改修され、水力発電のための導水路としても利用されることとなり、玉野地区をはじめ近年までは高蔵寺地区へも灌漑するなど、地域の生活環境に有益な影響を与えた。

恵那市 岩村 岩村城址

農村景観日本一地区では穏やかな岩村盆地の中に、昔ながらの農家や土蔵が点在する。周りは盆地を形成する緑の低い丘や遠く三河・尾張と境を接する山々が二重・三重に連なる、「農村景観日本一」の称号は、平成元年に全国の環境問題を専門に研究している、京都教育大学・木村教授が付けた。日本が戦後失ってしまった「心のふるさと」、そして古代・仁徳天皇が見たであろう“カマドの煙”の景色をも彷彿と感じとることができる。また、この景観は「第7回日本のむら景観コンテスト」の集落部門で農林水産大臣賞(最高賞)も受賞している。


築城から800年あまり、日本三大山城の一つ岩村城は、日本百名城にも選ばれている。恵那市街地から車で約20分の岩村町は、戦国の世に必死に生きた、おんな城主の逸話が残る。織田信長の叔母にあたる、おんな城主「おつや」が、激動の戦国時代を凛として生き、善政を敷き、最後まで領民を守ったと伝えられ ていることから「女城主の里」と呼ばれる。