猿啄城
坂祝町勝山にある、室町・戦国時代の城である。別名猿ばみ城、猿飛城、勝山城と呼ばれ、猿啄城跡は、坂祝町指定史跡となっている。この付近の木曽川(日本ライン)は急流で、周辺は山となっている。このため飛騨国、東濃から美濃国、尾張国への重要な地点であった。日本ライン(木曽川)の美しい流れや坂祝の町はもちろん、恵那山や中央アルプス、御嶽山、白山などの山々や、 遠く伊勢湾や名古屋ツインタワーも望むことができる。
築城時期は不明であるが、応永年間(1400年頃)、西村豊前守善政が築城する 。
1441年(嘉吉元年)、西村豊前守善政が祖母の法要の為城を留守にした際に、田志見の城主修理太夫頼吉が城を略奪する。
享禄三年 (1530年)田原左衛門城主となる。
1547年(天文16年、多治見修理が城を略奪する。
1565年(永禄8年)、織田信長が丹羽長秀を総大将として東美濃攻略を開始。丹羽長秀の先鋒であった河尻秀隆が猿啄城を攻略し、落城。城主多治見修理は斎藤氏に属する堂洞城の岸信周の下へ落ち延びた(堂洞合戦)。河尻秀隆が猿啄城城主となり、城名を「勝山城」と改称する。
1575年(天正2年)、河尻秀隆が岩村城に移り、廃城。
1997年(平成9年)12月、坂祝町が誕生100周年を記念し、二層城郭風の展望台が造られ、ハイキングコースとして整備されている。展望台からは日本ラインが見渡せる。