3日(土)12:00~21:00から4日(日)10:00~21:30、大須観音、ふれあい広場、大須商店街全域で伝統芸能「大須太鼓」やサンバ・コスプレパレード、盆踊り大会などの多彩なイベント、4日(日)夜、大須観音境内では、手筒花火が祭りを盛り上げる。
リュクサンブール宮殿(Palais du Luxembourg)
フランスのパリ6区、ヴォージラール通りにある宮殿で、フランス元老院(上院)の議事堂として使用され、その周囲はリュクサンブール公園として公開されている。
設計者 サロモン・ド・ブロス、建築主 ピネー=リュクサンブール公フランソワ、マリー・ド・メディシス(改築)、着工 1615年 、竣工 1631年 フランス元老院議事堂
旧用途は ピネー=リュクサンブール公フランソワ邸、マリー・ド・メディシス邸、プロヴァンス伯ルイ邸、総裁政府官邸、サロモン・ド・ブロス設計のピネー=リュクサンブール公フランソワ(ルクセンブルク=リニー家出身)の邸宅を、イタリアからフランス王室に嫁いできたマリー・ド・メディシス(ルイ13世の母)の居城として改築した。ニコラ・プッサンとフィリップ・ド・シャンパーニュが手掛けた内装は、彼女が幼い頃過ごしたフィレンツェのメディチ家の居城ピッティ宮殿をモチーフとしている。マリーがフランスを追放された後は、彼女の孫であるモンパンシエ公爵夫人などが居住した。
フランス革命によって当時の主であったプロヴァンス伯(後のルイ18世)が亡命したために国家に摂取され、監獄として使用された。末期の総裁政府の官邸となり、権力者たちがここを活躍の場とした。その後ナポレオン・ボナパルトが権力を掌握した歴史的な舞台にもなった。第二次世界大戦中は、ドイツ占領軍の空軍司令部が置かれていた。自由の女神像の原型が設置されている。
田んぼアート(名古屋市港区西茶屋三丁目地内)
市内最大の米どころ港区南陽地区、平成23年度から9回目の田んぼアート。今年結成10周年を迎えた「名古屋おもてなし武将隊」の姿を、5色の古代米とあいちのかおりの苗を手作業で植えて描く。
中津川 苗木城跡
苗木城は岐阜県中津川市にあった日本の城で、別名を霞ケ城、苗木藩の藩庁が置かれた。国の史跡に指定されている。大手口道は長さ500m、高低差150mあり「四十八曲り道」といわれている。
天守台や大矢倉の石垣、馬洗岩など巨大な自然石が複数箇所で利用されているのが大きな特徴で、本丸・二の丸・三の丸などの石垣や大矢倉跡・風吹門跡・綿倉門などの門跡、堀が残っている。
「赤壁城」の別名があり、城の壁は白漆喰ではなく赤土がむき出しになっていたと伝えられる。その理由については、木曽川に住む竜が白い色を嫌い、何度漆喰を塗り直しても嵐を起こしてはぎ取ってしまったという話が残されている。実際には、苗木藩が経済的に弱体で漆喰を塗る経費が捻出できなかったと思われる(幕末期に1万石で城持ちの藩は苗木藩のみである)。
猿啄城 坂祝 日本ライン
猿啄城
坂祝町勝山にある、室町・戦国時代の城である。別名猿ばみ城、猿飛城、勝山城と呼ばれ、猿啄城跡は、坂祝町指定史跡となっている。この付近の木曽川(日本ライン)は急流で、周辺は山となっている。このため飛騨国、東濃から美濃国、尾張国への重要な地点であった。日本ライン(木曽川)の美しい流れや坂祝の町はもちろん、恵那山や中央アルプス、御嶽山、白山などの山々や、 遠く伊勢湾や名古屋ツインタワーも望むことができる。
築城時期は不明であるが、応永年間(1400年頃)、西村豊前守善政が築城する 。
1441年(嘉吉元年)、西村豊前守善政が祖母の法要の為城を留守にした際に、田志見の城主修理太夫頼吉が城を略奪する。
享禄三年 (1530年)田原左衛門城主となる。
1547年(天文16年、多治見修理が城を略奪する。
1565年(永禄8年)、織田信長が丹羽長秀を総大将として東美濃攻略を開始。丹羽長秀の先鋒であった河尻秀隆が猿啄城を攻略し、落城。城主多治見修理は斎藤氏に属する堂洞城の岸信周の下へ落ち延びた(堂洞合戦)。河尻秀隆が猿啄城城主となり、城名を「勝山城」と改称する。
1575年(天正2年)、河尻秀隆が岩村城に移り、廃城。
1997年(平成9年)12月、坂祝町が誕生100周年を記念し、二層城郭風の展望台が造られ、ハイキングコースとして整備されている。展望台からは日本ラインが見渡せる。
常滑 やきもの散歩道 大野城跡 中部国際空港
日本六古窯の一つ常滑窯、日本一の招き猫の産地として知られる常滑市に1972年頃より自然発生した観光コースである。登窯や煉瓦煙突、コールタール塗りの黒い板壁の工場など、昭和中期以前に建てられた窯業関連の施設が数多く残る栄町の丘陵地を中心に設定されている。
全長は1.5kmほどで、狭く、曲がりくねって起伏が多い生活道路であった。大型自動車の通行に向かないため開発の手が入らず、遺構・街並みが保存された。土管や瓶を積み重ねた「土管坂」のように、来訪者に楽しんでもらおうと住民が拵えたものもある。観光客の増加で、沿道では空き家がカフェや土産物店に改装される例もあり、2007年3月に「美しい日本の歴史的風土準100選」に選定された。三代将軍徳川家光の母「小督(お江)」が最初に嫁いだ大野城の跡。江は浅井長政と市(信長の義妹)の三女で、生まれ故郷・近江から一字を取って「江」と名付けられた。
江姫「小督(お江)」がわずか10歳で現在の常滑市、大野の領主・佐治一成に嫁いだ。江はその後一成と秀吉の敵対のため3年で離縁され、その後三度目の結婚で徳川二代将軍・秀忠の正室となり、三代将軍となる家光を産む。一成追放の後、城主として信長の弟・織田長益(有楽斎)が入るが、大野城の水利の悪さから、少し北の地に大草城の築城に取り掛かり、大野城は廃城となった。現在、跡地に城を模した展望台があり伊勢湾の大パノラマが楽しめる城山公園となっている。
美濃路 起宿 旧湊屋文右衛門邸
美濃路
一宮市には「鎌倉街道」「岐阜街道」などの歴史街道があるが、なかでも「美濃路」は異国文化が通る等特色の多い街道だ。
美濃路は東海道・宮宿(熱田宿)と中山道・垂井宿を結ぶ脇街道として幕府の道中奉行が支配した。
起宿
街道には宿泊や馬の乗り継ぎ等のために一定の間隔を置いて宿場が設けられた。全長14里24町15間(約57.5キロ)の美濃路には7宿あるが、中ほどにある「起宿」は木曽川の渡河を控え規模の大きな宿場だった。
定渡船
美濃路には将軍家をはじめ参勤交代の大名、朝鮮通信使、琉球使節など重要な人達が往来した。将軍や朝鮮通信使は270隻以上の船をつないだ船橋を渡った。そのほかの人は渡し船を利用した。金刀比羅社の境内に大きな常夜燈がある。
湊屋文右衛門
定渡船場で渡し船の管理、運行を任されていたのが船庄屋で、その下に何人かの「船方肝煎」がいた。そのうちの一人が湊屋文右衛門で、渡し船を扱うだけでなく年貢米輸送にもあたっていた。早くから木曽川の舟運を利用して遠隔地との取引を行い、寛政年間(1789-1801)には「縞木綿を扱う仲買商」として成長した。越前丸岡から糸を仕入れ、それを地元の機織りに売りさばき、織り上がった縞木綿を全国に売りさばいていた。
玉野用水 玉野水力発電所
玉野用水
江戸時代の享保14年(1729年)、当時の玉野村の加藤助左衛門氏が長年の水不足を解消するため、同村へ庄内川の水を引くことを提唱し、用水が開削され玉野村の20余町歩(約20ヘクタール)の水田に灌漑(かんがい)したのが始まりとされる。
その後、大正2年に改修され、水力発電のための導水路としても利用されることとなり、玉野地区をはじめ近年までは高蔵寺地区へも灌漑するなど、地域の生活環境に有益な影響を与えた。
恵那市 岩村 岩村城址
農村景観日本一地区では穏やかな岩村盆地の中に、昔ながらの農家や土蔵が点在する。周りは盆地を形成する緑の低い丘や遠く三河・尾張と境を接する山々が二重・三重に連なる、「農村景観日本一」の称号は、平成元年に全国の環境問題を専門に研究している、京都教育大学・木村教授が付けた。日本が戦後失ってしまった「心のふるさと」、そして古代・仁徳天皇が見たであろう“カマドの煙”の景色をも彷彿と感じとることができる。また、この景観は「第7回日本のむら景観コンテスト」の集落部門で農林水産大臣賞(最高賞)も受賞している。
築城から800年あまり、日本三大山城の一つ岩村城は、日本百名城にも選ばれている。恵那市街地から車で約20分の岩村町は、戦国の世に必死に生きた、おんな城主の逸話が残る。織田信長の叔母にあたる、おんな城主「おつや」が、激動の戦国時代を凛として生き、善政を敷き、最後まで領民を守ったと伝えられ ていることから「女城主の里」と呼ばれる。
岐阜県不破郡垂井町
垂井宿は中山道57番目の宿場、西町・中町・東町の3町に分かれ、本陣は中町、問屋場は3か所あった。毎月5と9の日に南宮神社鳥居付近で開かれた六斎市は大勢の人で賑わい、大垣・墨俣などを経由し東海道宮宿とを結ぶ脇往還美濃路との追分で、西美濃の交通の要衝であった。3月下旬から5月上旬頃、相川水辺公園では川沿いに350匹もの鯉のぼりが泳ぐ。
650年の歴史を持つ垂井町曳軕祭り
5月2日〜4日に開催される八重垣神社の例祭「垂井曳軕祭り」では、三輌の豪華な曳軕は漆塗りに蒔絵、彫刻金具を施し、県重要有形民俗文化財に指定されている。曳軕の舞台で、安永年間(1772~1780)に始まった子供歌舞伎狂言が披露される。八重垣神社の起源は、南北朝時代の文和元年(1352年)、南朝が京を軍事的に制圧して足利義詮を追い、正平一統を破綻せしめたことにさかのぼる。「垂井曳軕祭り」の起源は南北朝時代の文和2年(1353年)に始まったといわれ、都から逃れてきた後光厳天皇を慰めようと、村人が花車3輌を造って曳き回したことによる。




























































